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『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957)  ~第7章 支那、泰(タイ)での奔走~

 支那人の寡婦、周女史の家を辞去した後、クオン・デ候は香港へ移ります。
 香港のベトナム人革命拠点には、日本から買い付けた旧式銃をベトナムへ送ること叶わずに、長い期間保管してありました。この武器を、孫文(そん・ぶん)へ援助しようと持ち出した香港の港で警察に没収されてしまった経緯が書いてあります。
 その後はまたタイへ行き、タイ国東宮皇太子へ協力要請の為に親書を送りますが、逆にフランスに阿ったタイ政府の策略でタイ出国を余儀なくされました。

 広州では、支那社会党の友人のアドバイスで軍用票を印刷します。このことが、後々に一部で流された『クオン・デ銀行』の噂話の出処だろう、と語っています。

 1912年5月、広州で『ベトナム光復会』の改組をしましたが、クオン・デ候は病欠のため、ファン・ボイ・チャウに委任状を送り、議事進行全権を委任しました。
(〜1912年5月)

**第7章 支那、泰での奔走**


 香港は、支那が1842年にイギリスへ委譲した島です。
 当時は清国の統治時代。 イギリスは、支那が脆弱だと見抜いて侵略手段を開始します。アヘン戦争という史上最も不名誉なる戦争を仕掛けて支那に攻め込み、香港委譲を要求したのです。

 当時の香港は、只の不毛の島だったから失っても惜しいことはないと、当時の皇帝が香港をイギリスへ割譲した。
 その後、香港が大した時間も掛けずに中国南部を制圧する程の英国所有の重要海港に変貌しようとは、その時誰が想像できただろうか。
 
 香港の風景は大変美しく、海岸から山に向かって家々が折り重なるように建っていて、夜は家の灯りがきらきらとまるで星空の如く輝く。頂上にも無数の家が建っているが、支那人は頂上に住むことは許されない。

 自由港の香港は、酒、煙草など商品の輸出入税が無税だから、物価が安く商売は大変繁盛しています。生活費は、上海や他の商業都市より安く、気候は冬寒いが夏は余り暑くないという具合で、南部出身者には大変住み易い。    
 香港に住む人の90%は支那人で、最近はここに居住するベトナム人もかなりの人数になっています。ベトナム人商人や公的機関の役人は別として、革命運動に従事するグループも60から70人位います。

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