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ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑯『年表・第三期(1905年~)・日本の義人 浅羽左喜太郎翁/浅羽翁の墓碑建立/陳東風(チャン・ドン・フォン)の自決』

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』
ベトナム留学生と静岡の医師浅羽左喜太郎(あさば さきたろう)先生

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日本の義人 浅羽左喜太郎翁

 戊申(1908)年の冬10月。学生会は解散し、公憲会も消滅した。さあ、もうこれ以上は 日本を頼れないのだから、専ら中華革命の行方を注視し、我らベトナムと≪同病相憐≫ の民族を頼って行く外はなくなった。

 そんな状況であったので、孫中山氏を訪ねて見ると、 孫氏から宮崎滔天(みやざき とうてん)氏を紹介された。 宮崎滔天氏は日本の浪人であり、世界革命の志を立てていた。私と初対面だった彼は、 こんなことを語った。
  「ベトナム一国の力でフランスを追い払うは到底無理だ。だから近隣諸国に力を借りよ うというも至極当然。しかし、日本の政治家は野心豊富で義侠心に乏しいのに、どうして日本が貴国を扶けるだろうか。貴殿は、貴国の青年へ英語、ロシア語、ドイツ語などを習得させ、世界の人士との交流を奨励したまえ。フランスの悪辣さを喧伝し、世界中の人々へ知らせるのだ。広い世界には、人道を重視し弾圧を嫌う人士も決して少なくない筈だ。 正にその様な人々のみが、本当にベトナム人を助けることが出来る。」

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