べト・ミンの実態を追う①😑『下剋上』

 先日の記事ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰? 続・続編 ~べト・ミンを追え!😅の巻~の続編、~ゴールデン・ウィーク・スペシャル~で更にベト・ミンのその後を追ってみたいと思います。。。
 一部のコアな読者の方には人気の連載です。。(”そんな人いないよ…。” ←我が家のJDの声。。😅)

 先の記事で分析した『反日べト・ミン3女』のその後。
 「親日ベト・ミン長女』と『ソビエトべト・ミン次女』
はひとまず置いておき、『3女のその後』はズバリ!! 1945年3月9日の日本軍による軍事クーデター『マ(明)号作戦』後の約1カ月後に成立したベトナム独立新政権の首相だった教育家で歴史家のチャン・チョン・キム氏の回想録に物凄い詳しく書いて有ります。。。(笑)

 先ず、『マ号作戦』前の国内べト・ミンの様子に関するキム氏の説明を見ていきます。⇩

 「共産ベト・ミン党は、科学的手法に則った非常に周到な組織を持っていた。ホー・チ・ミン(=グエン・アイ・クオック)が中国で機会を窺っている間、ベトナム国内には至る所にベト・ミン幹部を置き巧妙に地下活動と宣伝を行っていた。彼らは民衆の愛国心に利用して、ベト・ミンは共産党ではなく、祖国が独立を勝ち取る為に全ての党派を集めた統一戦線だと宣伝したので、北から南まで何処でも支持者を獲得していった。
 彼らの活動手法は、公的機関であろうが私的組織であろうが組織というものがあればそこへ彼等側の人間を送り込む、或いは宣伝をさせ、或いは共産主義活動を行った。共産党員は厳粛に規律を守り、非常に勤勉に働いた。例えば、『国語普及会』がハノイに設立されたばかりの時に早々と共産党員が入り込み、実に熱心に教師として働き労苦を厭わなかった。厳粛に規律を守り、労苦を惜しまぬ組織が勢力を伸ばすのは当たり前だ。
 こうして共産党組織の勢力が広がっていた所へ、日本軍がインドシナに駐留して以後は、フランス人は水面下では彼等の活動を容認し、共産党に日本軍を攪乱させて事態に何か変化が起きることでも期待していた様だった。だから、当時の植民地政府は共産主義を支持する船乗り労働者を逮捕したが、影響力のある共産党員は釈放したり、自分たちの仕事をさせていた。これが、日本軍の軍事クーデター決行前の国内共産党の状況だった。」
           
  『一陣の埃風』より

 と、、、この文章を読む限り、この頃はまだ『ごく普通で真面目な』熱心な共産主義者団体のような雰囲気です。上⇧の「フランス人」というのも、フランス人の社会主義者でコミンテルンと繋がった人物の可能性が大。ならば、これは多分『次女』でしょう。日本の初期の頃の共産主義者と同じ雰囲気ですね、日本政府と特高警察に滅茶苦茶に弾圧されちゃいましたが。。。😑😑😑 
 ところがです、『マ号作戦』後から北部のベト・ミンが豹変しているんですね、無秩序で暴力的で反社的『3女』の台頭がこれ。⇩

 「…およそ1945年2月頃のことだった。
これ以後、ホー・チ・ミン一派はベトナム革命同盟会の名を捨て、旧名『ベトナム独立同盟(ベト・ミン)』に戻して黄旗に赤星の共産旗を使用した。(中略) 
 中部と南部の共産党支部も既に準備出来ていたが、秘密を守りながら行動指示が出るのを待って居た。北部では、無頼者を送り込み各地で乱暴狼藉を働かせ、奴らは抵抗者を拉致するか眼の前で殺害したので住民は恐怖で慄いた。その一方では、宣伝部隊を派遣して、べト・ミンは中国、ロシア、アメリカなど連合国から、フランスと日本の独裁者たちを攻撃するための援助と武器支援を受けていると演説を行った。彼らはまた、べト・ミン軍が北部上遊地方の幾つかの省を攻撃し占領したと言っていた。」
           
  『一陣の埃風』より

 この頃⇧から、ちょっと変なんですよね。。元々ソビエトコミンテルンの援助を受けて活動していた筈のグエン・アイ・クコック率いるインドシナ共産党が、「べト・ミンは中国、ロシア、アメリカなど連合国から、フランスと日本の独裁者たちを攻撃するための援助と武器支援を受けている」と演説するなんて辻褄が合わない。。これじゃあ、べト・ミン3女のパトロンが連合国だってモロバレだ。(笑)
 要するに、「彼らはまた、べト・ミン軍が北部上遊地方の幾つかの省を攻撃し占領したと言っていた」とは多分、「べト・ミン次女は俺たちが駆逐したぜ!」の意味かも知れないです。。。

 えーと、この頃はまだ日本降伏前で日本軍が進駐しており、当然日本人の耳にも入ったので、こんな事件が有りました。⇩
 
 「1945年5月頃のこと、ベト・ミン勢力がかなり強大であることに気付いた日本人は、きっと国家主義的な政党だろうと想像し人を派遣して交渉を試みた。同年5月9日に、日本人2人とベトナム人通訳一人がタイ・グエン省ダイ・トゥ県近くのキ・フ邑を訪れたが、全員ベト・ミン軍に殺害されてしまった。」
         
  『一陣の埃風』より

 この事件⇧の詳細とは、⇩
 「北部安隊の丸山義雄(少佐)と原田俊明が命じられたのは、ベトミン工作だった。日本がベトナムに領土的野心を持っていないことを説明し、バオダイ政権と一体となって独立の強化に協力させる、というのが任務だった。…
 原田は、印度支那経済研究所で何度も議論し、同じ考えを持つようになったベトナム人青年グエン・チェン・ジェムを伴って5月初旬、丸山少佐と共に北部のタイ・グエンの山岳地方まで入り込み、ベトミン側と交渉を始めた。‥‥
 同5月9日、原田ら3人が消息を絶った、という情報がハノイの安部隊に入った。駐在部隊一個小隊が現地捜索に向かい、タイ・グエンのダイ・ト町郊外、キーフ村の古い廟堂の前の大木の下で、3人の遺体が放置されているのを発見、収容した。原田は25歳だった。

       牧久著『「安南王国」の夢』より

 要するに、この頃の在ベトナム日本軍は情報不足だったのかと思います。ベト・ミンは昔の『話せば解かる相手』だと甘く考えていたのでしょう。そう、もし相手が本当に昔の次女であり、ただ誤った考えを持ってしまっていただけだったら話せば解かったのかも知れません。
 しかし既にもうこの頃のべト・ミンは複雑で多重人格で、「べト・ミンは更に暗殺者を送り込み、ハノイのど真ん中で日本人仕官数名を殺したり、あちこちの県や府を襲撃して住民を拉致したので、住民は避難しベト・ミンに対する非難が高まった」という様な只の無頼者集団が勢力を持つようになってました。

 そしてキム首相は、「ハノイで日本人がベトナム青年を逮捕したという報が届いたので、私は即座に北部へ向かう準備をした」そうです。⇩

 「この頃のベト・ミン党の活動は更に活発化し、あの県、この府と各地を荒らしまわっていた。治安部隊の兵隊の多くもベトミンの宣伝に汚染され、完全に支持している訳ではなくとも、抵抗はしなかった。当時、国家政府は誕生したが、期間が短かくまだ殆ど機能していなかったから、一般民衆は恐怖に陥った。まだまだ困難が山積みの中、ベト・ミン党は、彼らの後ろには連合国がおり、その支援を得て完全独立を勝ち取るという宣伝が響き渡った。我が国の国民は、フランス統治下になって以後はただ独立だけを考えて来たから、この時にそんなベト・ミンの宣伝に耳を傾けて、更に、もしべト・ミン党が政権を獲れば税金を納めなくてもよくなり、完全に自由であり、多くの幸福が訪れるというので、誰もが信じてしまった。政府青年省が組織した前衛青年道という団体さえ、ベト・ミンへの傾斜を見せていた。」

 …結局は、1945年3月9日『マ(明)号作戦』で軍事クーデターを成功させ、インドシナ3国を独立させたまでは良かったんです、日本軍は。
 しかし、その後がイケなかった。。。
 クオン・デ候の帰国を阻み、ズルズルとベトナム新政府へ領土の完全返還を先延ばし続け、その後のインドシナ利権に食い込もうと画策した派閥がありました。彼等が私欲を満足させる為に懸命に行動した結果が、連合国側が謀略を進める時間稼ぎに加担した訳です。要するに、常にそういった『狭視で高位を好むが内側は案外自堕落で、国益より目前の虚飾に惑わされ私腹を肥やす脇が甘い官僚的人物』というのは、拝金植民地主義者の人達にとっては恰好の駒・カモなんでしょう。。あちらの世界では、『Dupes(デュープス)』の隠語で呼ばれ市民権を得てるらしいです。(笑)

 もうこの頃の3女は、「ベト・ミン党は、彼らの後ろには連合国がおり、その支援を得て完全独立を勝ち取るという宣伝が響き渡った。」と、パトロンが誰か正々堂々と発表・宣伝していた模様。。(笑)
 
 さて、ベトナム新政府のキム首相は、ハノイでべト・ミン党人と会いました。
 「こんな情勢だったから、私はファン・ケ・トアイにベト・ミン関係者を2、3人探して来てくれないか、話がしたいからと頼んだ。その当時私は、ベト・ミンは共産主義だといっても国家の将来を考えている筈だと想像して居た。翌日、ファン・ケ・トアイがベト・ミンの少年1人を連れてきたので私は彼に言った。『私たちは祖国の為だけに仕事しているのであって名利を得る気など微塵もない。きっと皆さんの党も祖国を想っての行動だと思う。それなら、方法は異なるが目指す目的は同じだ。だから、祖国救国の為、外側でも、内側でも、お互い協力できると思うがどうであろうか。』
これに、少年は答えた。『我々の活動には独自の主義があり、祖国を完全独立に導く一貫した計画がある。我々には、それが出来る。』
 『祖国独立を図るは我々も目的にしている。しかし、正道を行くには多くの困難が伴う故に紆余曲折はあるが、しかしその方が一歩一歩確実に進むのだ。』
 『我々には完全独立への一本の真直ぐな道があるだけで、他の道は無い。』
 『君たちの考えでは、国民へ大きな禍が及ぶことを危惧するし、成功するかどうかも定かでない。』
 『我々はどんなことがあっても成功する。禍を出しても関係ない、禍の後に利が生まれる。国民の10分の一が死んだとて、我々は残った人間で新しい社会を建設する。死んだ9割に比べてその方がよっぽど良い。』」
       
  『一陣の埃風』より

 返す返す思うのは、あの時期にのらりくらりしてインドシナ利権派閥争いに湧く日本軍内の『Dupes』の存在が、「ほら、完全独立させてあげられるのは私達連合国だけですよ!」『べト・ミン3女=連合国』による宣伝文句の絶妙な生ける証拠だったのだから、彼らは無意識に連合国の絶大なるアンバサダーとして非常にいい仕事をした、と云えるのか。😭😭😭
 
 「禍を出しても関係ない、禍の後に利が生まれる。国民の10分の一が死んだとて、我々は残った人間で新しい社会を建設する。死んだ9割に比べてその方がよっぽど良い。」
  ⇒
祖国独立の為には、国民9割死んでヨシ。。。何故か当時のナチスの『優生論』を持ち出すべト・ミン少年。。。現代で『パンデミックで人口削減』を是とする人々の存在と流れを感じますネ、何となく。。😅😅 

 さて、ああ、これはもう話しても無駄だ、と悟ったキム首相は、最期に少年へこう言葉を向けました。⇩

 「”将来はこれからまだ長い。君たちは国民と歴史に対しての責任を持ちなさい。”」 

 1945年7月末頃のことです。

  

 
 

 

 
 

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