『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957) ~第17章 ベトナム復国同盟会~
1937年は、日本近代史上の運命の分かれ道。
盧溝橋事件から、日本と中国が戦争に突入した年です。
歴史的に、遥か太古の昔から同じアジア人同士、我がご先祖様たちはいつもお互いに協力し合い助け合って来た筈なのに。
どうしてこの時期、『戦争』へ。。。私の素朴な疑問。😅😅
戦時体制下、食料エネルギー物資不足に悩んでいた日本が、『仏領インドシナ』に俄然注目し始めたのは、日本軍『仏印進駐』の1940年頃からとされています。
それまで日本は、南洋協会(1915年設立)の渋沢栄一、犬養毅など一部の先覚たちが南方アジア地域の重要性を説いても、政府・世論大勢の関心は依然として満州、朝鮮、支那などの所謂『北進政策』だったと云います。
と、戦後日本では、この様⇧に説明されてますけど…。
しかし、ベトナム側からみた事実はちょっと違います。支那事変の勃発の直後から、クオン・デ候は日本の全面的バック・アップを得て急旋回で動き始めていたのです。
第17章『ベトナム復国同盟会』は、日本の大東亜戦争史にとっても非常に重要な内容が沢山含まれています。
例えば、『ベトナム復国同盟会』は、結成の1939年2月以降、怒涛の活動を開始しているのですが、⇩
3月 同志らが杭州へ飛んで活動を開始
5月 天津市行政府の外交課長だった陳希聖(チャン・ヒ・タイン=陳文安、日本帰化名は『柴田(しばた)』)が、日本で同盟会の『外交部長』に就任。
9月頃 台湾政府の招きでクオン・デ候は台北へ。
台北無線電力伝送局に『ベトナム語放送班』を設置
1940年
8月 陳希聖、日本軍部との直接交渉権を持つ同盟会の『広東駐在代表』に就任。『ベトナム建国軍』を創設。
そうして、翌9月に日本軍が広西省から国境を越えドンダン・ランソンへ進攻した時、この道案内を先導したのがクオン・デ候らの復国同盟会の『ベトナム建国軍』でした。
ベトナム抗仏運動に常につき纏っていた資金欠乏による貧困。でも、1939年からのベトナム活動家たちは、俄然急展開で活発に活動を開始。日本、台湾、杭州、広東、上海、香港、天津、等々、、、を自在に動き回ったその活動費はどこから…? 滞在費、衣食住費、諸雑費は一体どうしたの…? そして、どうして突如として猛然と何かの目的に向かって一気に走り出したの…?
と、こうして諸々想像しつつ、史実を並べて組み立てれば、これら⇧理由とは、『どうしても支那事変を解決したい日本が、この時ベトナムを頼みにしたんでしょ…。』
私はそう推論しています!🙄😌😌
クオン・デ候たちのベトナム抗仏運動史を調べていると、必ず、松井石根大将や長勇参謀長、松岡洋右、近衛文麿、そして玄洋社の人たち等の、支那事変解決への血の滲むような努力と苦悩の日々が書かれた書物を目にすることが多いです。
日本に長く滞在し、日本語が流暢だったクオン・デ候は、この頃の日本の要人等の苦悩を間近に見ていた。その為でしょうか、クオン・デ候は、支那事変の本質を見抜いていた様で、こうはっきり明言しています。
”1937年、日中戦争が勃発。
東アジアの西洋勢力が中国に大本営を置いた為に、 日本は中国を攻撃しない訳には行かなくなりました。詰まる所、日本が中国傭兵に対峙する目的は、西洋との戦闘なのです。”
(1937年2月~1940年10月)
**第17章 ベトナム復国同盟会**
1936年。フランス本国では、人民戦線陣営が政権を掌握した為に、対植民地政策が僅かに緩くなりました。そのせいで、ベトナム国内の政治活動が活発化して来たのです。
これからそれらの国内各団体との連携を能くする為にも、海外活動に於ける全党派を団結し、統一戦線を組織せねばならない。そうでなければ、国民一丸となって戦力を結集し、国家独立を恢復し得ない。
その理由から、私は指導部の改組をしたのだが、その頃中国で活動するベトナムの各党派は、互いに主義だ何だと論争するばかりで団結精神に欠けていた為、良い成果は得られませんでした。
1937年、日中戦争が勃発。
東アジアの西洋勢力が中国に大本営を置いた為に、 日本は中国を攻撃しない訳には行かなくなりました。詰まる所、日本が中国傭兵に対峙する目的は、西洋との戦闘なのです。
これはきっと、アジアの時局に大変動が起こる。アジアの抑圧された民族に、必ずや独立を得る機会が訪れるだろう。私は、そう予感したのです。
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