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ベトナム独立運動家が見た、西洋植民地支配下の『弱者ビジネス』
最近日本のネットニュースで、或る女性支援団体の資金管理問題が話題です。特に家庭などに問題を抱える社会的に最も弱い立場の人びとを巡る公金の話。それで(と言っても特に関連性があると言いたい訳ではありませんが、😅)ふと、仏領インドシナ史関連書籍のある文章を思い出しました。
それは(もうお馴染み。。)ベトナム独立運動家、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)著『ベトナム亡国史』の、「娼妓税」=娼妓商売にかけた税に纏わる話です。
「…その中でも最も悲惨を極めるのは、一般民家の婦女が脅迫されて、娼妓に身を落とすなりゆきである。」
『ベトナム亡国史』より
どうしてそんなことになるのでしょうか??😵💫😵💫
「フランス人は、各都市ごとに妓楼を設け、娼妓税を取り立てているが、それにも3つの等級があり、上級の妓女は年に銀30元、中等はこれに次ぎ、下等はまたこれに次ぐ。そして、フランス文で記入した黄色い紙の証明書を与え、それを持っていないと商売するのを許されない。」
それぞれ様々な事情があったでしょうが、もし平和な時代に、政府の経済政策が上手くいき、地域行政のセイフティーネットがきちんと機能しておれば、わざわざその職業を選ぶ必要が無かった女性が大半だったと思います。しかし、植民地支配下に置いては、なんとそんな女性たちでさえも課税対象として狙われ、加えてあろうことか税収アップのため娼妓数を増やす方法が考えられたというのです。
「…これが良家の婦女に頸木をつける妙法なのである。(中略)毎夜巡警兵に妓楼を巡検させ、実際に黄色の証書を持たずに、(中略)その女を重罰に処した上、その持っている金を没収する。そして娼妓税の収入がどんどん増えると、巡警兵にはたんまり褒美が与えられる。そこで巡警兵たちは、(中略)身寄りのない寡婦、落ちぶれた孤児の娘などで、頼りにする父母兄弟もなければ、助けと頼む力も持たない者を見つけ出すと、深夜にその家に闖入し、許可なく男を引き入れていたと、ありもしない事を言い立てるのである。」
「身寄りのない寡婦、落ちぶれた孤児の娘などで、頼りにする父母兄弟もなければ、助けと頼む力も持たない者を見つけ出す」…こ、これは、正に弱者を捜し求める・元祖『弱者ビジネス』ではないでしょうか?!💦😵💫😢
「哀れにもその犠牲になった者は、災難を嘆くばかりで、雷のように怒号するフランスの役人を前にふるえ上がり、無実を控訴する所もないので、泣く泣く税金を納めて、黄色の証書を受け取って許しを乞うのである。」
こうして、明明白白な良民が賤しい生活に落ちて行く。しかも税金額はどんどん上がって行き、巡警は横暴になるばかりで、
「ああ、黄色い紙を一度肌に張り付けられて、一生涯地獄の苦しみに陥る。この寄る辺もなく、か弱い女たちは、いったい天に何の罪があったのであろうか。まことに古今に絶する悲惨事である。」
政府は目まぐるしく新しい『~税』を増設し、徴税対象者を探し出す、或いは無理やり作り出す。。。😢😢 冗談かと思えるほどに酷い話ですが、植民地支配の傘の下、支配する側は、「これは利権創造による安定性の高い立派な『ビジネス』だ!」と理論つけるかも知れません。。(笑)😂😂
社会的弱者を狙った、正に神も仏も無い地獄の沙汰を取り仕切る『中間管理職・巡警兵の人選』とは、
「…父母兄弟もなければ家もなく、まともな仕事にもついていないごろつきをまず選び、その顔つきを吟味して、人並みはずれて獰猛で狡猾そうな者に限って合格させた。合格させるとフランス人はまずそのごろつきに命じて天に向かって罵りの言葉を吐かせ、次にその父親の諱を呼んでこれを罵らせ、…そのごろつきを入隊させる。」
これが合格基準ならば、合格者はもう現代で言う『反社・反グレ』以外の何者でもないと思います。そうして考えれば、仏領インドシナの統治とは、徴税の権化と化した『政・官・行』の下に直属の『反社反グレ』の集団が巡警機能を担っていたことになりませんか。😵💫 恐ろし過ぎる。。。💦
しかし、ふと当時の日本に目を向けると、「外地の妓楼」に関してこんな史実があります。
「…これらの出稼ぎは通称『唐行』(からゆき)と呼ばれた。
…『カラユキさん』は、明治30年代の初め頃から日本では『娘子(じょうし)軍」と呼ばれるようになる。矢野暢によると「現地の在留邦人はおおむね『娘子軍』と呼ぶ習わしであった。」
『「南進」の系譜(『安南王国の夢』)』より
後藤均平氏著『日本のなかのベトナム』にも、
「1913年(大正2年)、ベトナム視察に公務出張した海軍中佐木村甚三郎の報告書に『在留日本人ノ実況』という項があって、日本人約260名の人名と職業を各地別に記している。」
とあり、山崎朋子氏著『サンダカン八番館』の表を引用して、表の最も多い職業が「醜業者」と「醜業婦」、要するに娼妓とその関連業者であり、木村海軍中佐は報告書の中で、
「…初めは醜業婦及び之に附随する醜業者の渡航に初まり、これ等に日用品供給者たる呉服雑貨商人及び洗濯業者・理髪業者・写真師等の渡航となり、云々」
と、当時現地における日本の『娘子(じょうし)軍』の存在に言及しています。更に具体的には、
「その頃のサイゴンには、一番娼館から五番娼館までが並び、ハイフォンなど大きな港町にも日本娼館があった。
…「香港あたりに大ボス何某がいて、上海、サイゴン、マニラ、シンガポールなどを拠点とする人身売買の組織網を張りめぐらしていた。」
…同じころのシンガポールの娼館には、4百人前後の日本人娼婦がいた、という証言を聞いたことがある。」 『安南王国の夢』より
と言うように、大正の初め頃までの南洋各地においては、女子人口が常に男子を上回っていたそうです。
「娘子軍の存在は、たんに風俗的な意味をもったというよりは、初期の在留邦人社会では、むしろ経済的な意味を帯びたことの方がもっと重要であった。娘子軍に『寄生』するかたちで邦人の商業活動が形成発展を遂げていったからである。なかでも、呉服屋、日常雑貨商、旅館業、医者、そして写真屋、洗濯屋、鼈甲細工店など、すべて娘子軍の繁栄に『寄生』するかたちで発生したのだった。日露戦争直後の最盛期には、スマトラのメダン付近まで含めて、6千人の娘子軍が年にゆうに一千万ドルの収入を得ていたという」
『「南進」の系譜(『安南王国の夢』)』より
海を渡った『娘子軍』の背後から、商売チャンスを求め一攫千金を夢見て大勢の『唐行(からゆき)どん』が後に続きました。。。
いつの時代にも逞しく生き抜く人間の活力とも捉えられますが、その頃の日本は『日露戦役の勝利』に沸いた頃です。みな貧しいのだから仕方ない、我慢だ、と尤もな御託を並べて、国家が社会的最弱者の問題解決を後回しにし自己責任で解決させ、先ず何より大事なのは経済振興、金融活性化、PB黒字化、あ、違うか…。でも、あれ、なにやら現代とそっくりです。😅😅
結局いつの時代も、国家社会の基盤に揺らぎが出始めると、最弱者である「身寄りのない寡婦、落ちぶれた孤児の娘などで、頼りにする父母兄弟もなければ、助けと頼む力も持たない者」を利権化する勢力が活性化し、溌溂と表舞台へと踊り出して来るのでしょうか。本来は国家責務である弱者救済が業者委託になったら、それは国家弱体化の危険信号かも知れません。
先日、戦前のゾルゲ事件で絞首刑になった尾﨑秀実氏の獄中書簡集「愛情はふる星のごとく」について記事を書きました。尾﨑氏書簡の中で、私がとても印象に残ったこんな記述があります。
「…昨日英子(尾﨑氏の妻)の着ていた着物は柄は見覚えがありましたが、裁ち方は実に珍しいものでした。英子によく似合っていました。あれが戦時下の標準の婦人服(第何号かの)であるとすれば、なかなかいいものだと思いました。服装の点でも戦争は日本の旧弊を打破する一契機をなしています。実に各般にわたり否応なしに、古いものがこわれてゆきますね。待合や、高級料理店、歌舞伎芝居のための大劇場--そうしたものは当然清算さるべきものだったのです。古い封建的なものが、明治以後の資本主義的な外被を借りて生き残って来たのです。(更に制度としての公娼廃止まで行くべきでしょう。公然と公娼が認められているということは何と言っても日本文化の恥です)。--勿論このことは社会の日陰に私娼などの存するであろうという事実とは別個の問題です。」
『愛情はふる星のごとく(昭和19年3月30日付書簡)』
ソ連のスパイとして特高警察に逮捕され絞首刑になった後でも、尾﨑氏とその家族へは全日本の隅々から遺族に対して同情が寄せられたそうですが、獄中書簡集の編者で友人の松本慎一氏はその理由を、
「そして、それこそ「尾﨑の人間愛」の反射に外ならない。「上は総理大臣から下は女中さんの相談相手にまでなった」--(これは犬養健氏のかつての批評である)--尾﨑の人間愛、日本人民の解放に命を捧げる決意をするまでに発展した彼の崇高な人間愛の収穫に外ならない。」
と、書いています。
私自身の若い頃ですが、バブルの頃に人が羨む華やかな職業、名の通った社名、十分なお給料……が、何故かとても居心地が悪く(笑)。周囲を見回せば、老いも若きも、就職、結婚、子育て、お受験、定年、老後…ゴールまで我と我が家族のみ中上流安定を夢見て「賢い選択」をせねば、直ぐ社会のはみ出し者でした。私は、昔から少し『変わった人』で、縁ありベトナムに暮らし、仏領インドシナ史へ辿り着きました。
最近特に興味を引くことは、『仏領インドシナ』の史実の多くが戦後日本、特に最近の日本の状態と酷似して来てることです。更に興味深いことは、日本が仏領インドシナへと向かって、自ら時計の針を逆方向へ回している様に見えること。