フランスの仏印植民地運営の失敗から見るベトナム人社員を管理する難しさ
ベトナム近代史、特に抗仏闘争史を追っていますと、その死者の数、圧政による恐怖支配の実態に触れて、時々気が付くと涙が流れていることがよくあります。どんなに辛かっただろうかと。それでも、よくぞ耐えて、そして続いてあのベトナム戦争まで耐え抜いたのかと思うと、ベトナム民族の気骨精神に頭が下がり、逆に現代の日本人の現状などが頭をよぎり、ちょっと胸騒ぎがしたりします。ですので、ちょくちょく遠くない範囲で脱線しようかと思います。お付き合いください。。
古い文献を読んでいますと、『フランスの極東植民地運営は、決して成功していない。逆に大失敗である。』というような記述がよくあります。そういえば、私の過去の上司達(ベトナム進出の日系企業駐在員)なども、皆さん揃って、自社のベトナム社員の管理といいますか、どうやって心を通わせようか、心を開いてもらおうか、、、と苦心されていたように思います。それでも、外国での慣れない生活と文化の違いから、夜な夜な日本料理店に通って心を癒すうちに短い駐在期間が終わってしまい、花束を貰って勇退、帰朝の途に就く、というある種のパターンが出来ていたように思います。
今はどうなっているのか、リタイアしてしまったので判りませんが、フランス人の極東植民地運営、特に独立心旺盛で賢いベトナム人の管理に苦心していたという過去の文章は、なにか改善のお役に立つかも知れませんので、ここに一考を記事にしたいと思います。(一部で『フランス人』という部分を『外国人』に置き換えてみました。。)*****
T.E.エンニス氏著の『印度支那 フランスの政策とその発展』という本があります。邦訳は、昭和16年(1941)、邦訳者は私の尊敬する大岩誠氏です。
「原著者は、大正5年(1916)、英国の極東派遣軍に投じて支那に赴き、支那における英帝国の権益擁護のために犬馬の労を執り、第一次世界大戦の終了した大正8年まで同じ国の派遣軍の軍人として生活していた。大戦が終了して母国たる北アメリカの官吏となって京城、東京等にも訪れたこともある。(中略)機会に恵まれて、大正13年延慶大学の教授となり、昭和2年(1926)までその職に就いていた。」
「その後に故国アメリカに帰り、現在ではウエスト・ヴァージニア州モルガン・タウンにあるウエスト・ヴァージニア大学に奉職し歴史学の教授として教壇に立ちつつ、なお時に東亜関係の諸雑誌に独自の立場に立つ見解を発表している。』
エンニス氏は、このような経歴を持つ方です。エンニス氏の『印度支那』について、大岩氏はこう説明しています。
「本書の基調として、インドシナにおけるフランスの支配の根本的性格を西洋の個人主義的同胞主義、インドシナ民族の社会・政治生活の性格を國体主義的族父政主義と規定し、この相反する性格の摩擦がこの地域におけるフランスの政治の種々な様相を決定しているという見解を樹立している。」
ここから判るように、エンニス氏は、フランスのベトナム管理運営の失敗の原因を分析、解明しようと努めたのがこの本のようでして、本は、こんな緒論で始まります。
「・・さらに延いては、フランスの四海同胞主義的個人主義人生観とインドシナの族長政治的集団主義精神とが激突して紛争の増大しつつある所以を是非とも説明せざるを得なくなるだろう。」
「(西洋)が資本主義体制を導入した結果は、インドシナよりも蘭領東インドの方がはっきり現れている。ジャワでは西洋資本の利潤がその国土から吸い取られていくので、土民の貧困化は劇しい勢いで進む。利潤追求は低賃金を産み出し、子供の労賃は一日当り5セント、女子は12セント、男子は18セントである。土民の農業も亦同じ様に資本主義経営になり、旧来の封建的関係は次第に消滅して、個人的な土地所有者が自治体制度の中で主要な存在となってくる。」
「実のところ、フランスの著述家たちが土民を理解していることは、イギリス人又は和蘭人の何れよりも遥かに深い。ところが、フランス政府は『秩序』を熱愛するあまり、三色旗の下にある土地で、何度となく其の土地の伝統や慣習を破壊して不穏当な結果を生ぜしめる。」
エンニス氏は、第4章の「行政上の不適正」項で、こう続けます。
「数人の者(外国人職員)が少しは渇望されたが、熱帯での生活には耐えられない。それだけではなく土民たちは、大多数のものが永い間家を離れているのをいいことにして、今までの道徳律を破壊して顧みないため、その乱倫・暴戻に激しい衝動を受けた。かように、インドシナ行政に安定性が無かったのは、本国の国内政策に統一性が無かったのが原因になっていた。」
やっぱり、祖国を離れて羽目を外し過ぎると、現地では尊敬されなくなるということですね・・・・。気を付けたいところです。
エンニス氏が指摘するように、現地駐在員と本国政府の政策は無関係ではなく、逆に常に緊密な関係性があります。
「外地について無知冷淡な(本国政府の)態度は、インドシナの現地では何かしら更に強力なものに変わってしまっている。それは一般の外国人官吏が示す驕慢な態度であって、彼等は自分達の家の召使を、安南文明の典型的な代表者だと思っている(=勘違いしている)のである。土地の初等教育から上級学校を通じて、土民たちは、支那の伝統に従って(中略)、その立ち振る舞いや言葉使いなど極めて洗練された礼式を感じさせる。そういう社会様式があるに拘わらず、理事官が座を立たず、帽子を冠ったまま総督、即ち安南国の官人即ち自分と同等の役人を迎えるのも決して稀ではない。かような侮蔑の結果、外国人の横柄づくが人民の眼に堪らないものになってしまう。」
要するに、本社の無理解がストレスとなり、そのストレスが現地人への驕慢な態度となる。そして極めて身近な周囲の人、例えばお手伝いさんの様な人が現地人の大半だと錯覚を起こし、自社社員に対しても、気を抜いていい加減にやり過ごしていると、なんとはない所為も、現地では『侮蔑』と取られてしまう危険性があるということでしょうか。。。な、なんか全然古くないですね…
それ以外にも、外国人による『不公平な財政組織と脱税行為』を、不満要素として挙げている。要するに、自分達の取り分を取るだけ取ったら、下組織のことには、配慮を欠いている。その結果、「自分達の上の『特権』土民官吏と、自分達を鼻であしらう外国人とに二重で欺まされていると、一般民が感じる」と指摘しています。。
続いて、『避くべからざる弊害』として、『外国人役人の人数の厖大』を挙げています。
「かように外国人官吏の数が過大で、しかも土民官吏が薄給なので、結局インドシナ人は『野放図な個人主義』の陷穽に落ち込んでしまった。簡単に此の変化の依って来る所以のものを明確にすることができる。土民たちの伝統的背景を尊重すべき政治上の職務からは追い払い、僅かな金で働くことをすら拒んだので、比較的進取の気性に富む人間は商業関係の職業に就き、自分の財産を積み、国の中に新しい力-金力を導入した。この力が極度の個人主義を生む源となったのである。(中略)外国人が此の集団的紐帯を緩めた結果、政治に興味を持たない大衆は其の祖先と同様な振る舞いに及んで、その精力を直接に個人的な富の獲得に集注した。」
これは、当時の仏印だけに当てはまるものではない様です。要するに、過度な資本主義が行き過ぎた結果、貧富の差が広まると、『野放図な個人主義』に走り、大衆は富の獲得に走る。』というのは、繰り返される社会崩壊への始まりではないでしょうか。。
以上、エンニス氏によるフランス極東植民地運営の分析、負の部分をご紹介しました。最後に、別の角度から、外国人駐在への注意喚起とも思える記述を発見しましたので、ご紹介します。これは、松本信廣先生の『仏印民族の系統と性格』という昭和15年発行冊子の中の論文です。
「多くの人々は、仏印を論ずる場合その土着民族のみに着眼し、その支配階級たる仏人に対しては之を本国人と同一視して、植民地仏人の特異性について観察するもの少なきは遺憾である。(中略)ジオーレギベリィと云う仏人は、熱帯植民地の不適応性を指摘して左の如き衰弱諸徴候を挙げている。身体的徴候としては、⑴腹部肥満、⑵筋肉委縮、内臓下垂、⑶脂肪過多、⑷植民地的体躯、蛙型、⑸白髪、禿げ頭、⑹動脈硬化、精神的特徴としては、⑴うぬ惚れ、⑵誇大妄想癖、⑶神経過敏、⑷被害妄想症、⑸道徳的麻痺、⑹健忘症、⑺知覚力障害、⑻恐怖症、⑼意志力の麻痺、⑽エチール中毒、⑾心的障害、⑿性的風俗の弛緩及び倒錯等々。こういう諸原因から白人は非常に困憊しやすく、結局早老か又は早死の何れにか辿りつくと著者は結論し、若し仏国民が(第2次)世界大戦に当り、ヴェルダン(第一次大戦の激戦地)に流した清き血を永久に維持し、祖国を守らんとするならば民族の心身を結局衰頽せしむる熱帯植民地を放棄せよと論じておるのである。」
と、この⇧身体的特徴は、現代人なら結構当て嵌まってしまうような気がしますが、、、ベトナム駐在の長くなった方はどうぞご注意下さい。。。。松本先生も、最後はこのように〆られています。⇩
「あの俊敏なフランス人も仏印にあっては必ずしも風土の影響に抗し得ないのである。此の点は、我々日本人と雖もその恐れなしとしない。」