ゴから始まる虫

午前1時、玄関の扉を開け電気をつけた。今日は地元の同窓会を早抜けして終電で帰ってきたのだ。リュックと手荷物を玄関脇の鏡の前に置き、廊下(兼キッチンスペース)から居室に移動しようとしたとき、視界の隅に黒い影をとらえた。
いきなり話が脱線するが、私は視界が広いことが自慢である。夜中に電線の上を歩くハクビシンを見つけたり、街中のビルの石材にアンモナイトの化石を見出したり、沖縄をドライブしている際に数十年に一度しか開花しないリュウゼツランの花を発見したりできる。リュウゼツランを見つけた際は、わざわざ車を引き返し写真を撮らせてもらった。

沖縄県某所のリュウゼツラン
奥にも生えている

舞台は深夜の自宅に戻る――
黒い影は視界の右下で、壁の膝くらいの高さの位置から床に移動する。
「俺でなきゃ見逃しちゃうね」
黒い影が移動したあたりにじっと目を凝らすと、壁と床の角に、奴がいた。

どちらかというと虫は平気な方で、大きめの蛾でも素手で捕まえることができるし、家に4センチくらいのクモが出ても気に留めることはない。人通りが多い場所に幼虫が落ちているのを見かけたら、拾いあげて近くの茂みなり樹木なりに移動させている。唯一苦手な昆虫といえば今自宅で対峙している奴くらいなものである。理由はうまく説明できないが、家の中であの俊足で移動してほしくないし、友人や恋人を家に招き入れることもあるので、そういうタイミングでこの不潔な印象を与える虫が出てくることは避けたい。やはり今仕留める必要があると考えた。

奴とにらみ合う。奴から視線を逸らさないように、とりあえず帰宅の際に郵便受けから取り出した区報だよりを丸めて、筒状になったそれの端の方を握る。本当は殺虫スプレーを持っているが、今私が立っている位置から三歩ほど移動したシンク上の戸棚から取り出す必要がある。しかも取り出す瞬間に奴に背を向けなければならず、背を向けている間に見逃すことだけは避けたかった。ゆえに今持っている区報だよりで奴と戦う必要があったが、あまり気が進まなかった。なぜならば、区報だよりで仕留めた後の始末を想像すると、仕留めるという決断は鈍った。

ずっと目が合っている。気がする。正確には数千個の個眼から形成される複眼を持つため、個眼のどれか一つとは目が合っている。そんな生物学的な考察とは別に、相手の焦点が、私の目に合っている。私も視線を返す。
ずっと「はっけよい」の状態のまま、いつまでたっても「残った」と宣う行司は不在の相撲。体格差でいえば圧倒的にこちらが有利だが、スピードは相手に利があるし、戦う相手によってはその茶色い光沢をもった見た目だけで土俵から押し出すことも容易だろう。
相手の姿をよく観察する。左右の触角が別々に、滑らかに動いている。ダウジングに用いるLロッドみたいだな、と思ったが、昆虫にとっての触角は周りの状況を知覚するために使われているという点で、ほとんどダウジングのLロッドとかなり似ている。何かを用途と見た目が似ている他のもので例えるのはあまり意味がないなと思った。

完全に余談だが、人間が「ダウジング」の存在を知るのはポケモンシリーズかドラえもんのどっちかだと確信している。前者は「ダウジングマシン」、後者は「ここほれワイヤー」が出てくる回。

一対の触角はそれぞれ別々に、上下左右に動いている。ただ揺らすだけとか、円を描くとか、そういう単純な動きではないようだ。機械で触角の繊細な動きを再現するには片方につき上下軸、左右軸の分でモーターが2つ必要になるな、と思った。
よく見ると意外と整った形をしている。光沢を持った翅が全身を覆い隠し、顔は小顔である。体と同じくらい長い触角は、地面を撫でるほど長い髪の平安時代の美女像を思い浮かばせた。そう考えると全身を覆う翅は十二単か。突然こいつの雌雄が気になった。メスだろうか。

額を汗が伝った。今更気づいたが、この家は熱気がこもっていて相当暑い。視線を落とすと、腕に冷却剤――汗が滲んでいる。鼻息で腕に生えた産毛がなびく。ちょっと涼しい。早く窓を開けるかエアコンを稼働させるかしたいが今目を離すわけには――

いない。

視界が広いとかいうのは嘘です。嘘だったっぽい。

自分の足元を見る。いない。

そうなれば自分とは反対方向に逃げたに違いない。

奴がいた場所から少し奥にあるごみ箱を区報だよりでたたく。
奴はごみ箱の下から出てきてもっと奥にあるラックの方に逃げる。
ラックには掃除用具、文房具、ドライバーなどの雑多なものが置いてある。モノが多く、ここに隠れたなら厄介だ。

ラックを区報だよりでたたく。
何もない。
もう一度。
何もない。

完全に見失った。が、膠着状態は終わった。シンク上の戸棚から殺虫スプレーを取り出す。

ラックの周辺にスプレーをかける。ラックの下も念入りに。
それでも出てこない。

見えなくなったなら存在しないのと同じだ、と開き直って殺虫スプレーと区報だよりを持ったまま居室に入る。
居室と廊下を区切るドアを閉める。居室に入られたらたまらん。(ここで南アメリカに生息するサルの一種、タマリンを連想する。)

エアコンの電源をON。涼しい。
思ったより体が汗でビショビショなので、シャワーを浴びることにした。
風呂場は廊下を通る必要がある。
先に居室で全裸になり、片手に殺虫スプレーを持つ。
そっと廊下へつながるドアを開け、上下左右に奴がいないことを確認する。
素早く風呂場に移動する。(素早く居室のドアを閉める。居室に入られたらたまらん。(あなたもタマリンを連想する。))

念のため風呂場に何もいないか確認する。壁床天井白いので、侵入者がいないことはすぐわかった。さっとシャワーを浴び、風呂場のドアを開ける。風呂場から頭だけ出し、頭を360度回転させて上下左右に奴がいないか確認する。

いる。

天井になんかいる。が、風呂場出てすぐのところに殺虫スプレーがある。スプレーを手に取る。腕を標的まで伸ばす。目標めがけて噴射。終わりはあっけない。天井からコロンと落ち、数秒ジタバタしたのち動かなくなった。

体を拭き服を着て、居室からティッシュを2,3枚持ってくる。
ゴンドワナトコバシリがちゃんと死んだか確認し、ティッシュでつまみ、そのティッシュを丸めて捨てた。

居室に戻り、腹部のハッチを開けて充電ソケットを取り出す。
充電満タンだったらビームで仕留められたのに。と思いながら充電ソケットをコンセントに差し込む。
ゴンドワナトコバシリはおよそ2億、1億年前の中生代から姿を変えていないらしい。居室のタイムテレビをつけ、中生代のストリートビューを見る。大きな恐竜を探すのは容易いが、小さな虫なんて見つかるわけがない。馬鹿らしくなって3分程で見るのをやめてしまった。

時計を見ると午前3時だった。今日はせっかく同窓会の2次会を早抜けして帰ってきたのに。同窓会に最後まで残って始発で帰ってきてもよかったな、とちょっと後悔した。アンドロイドも後悔くらいするのだ。

スリープマシンに横になると、同窓会のことを思い出した。ハードウェアを更新して100年前とは全く顔が変わっていて、最後まで誰だか分らない個体もいたが、総合的に楽しい空間だった。また同窓会があるとすれば100年後だが、今から楽しみになっていた。もうゴンドワナトコバシリのことは思い出さなかった。


ざっくり1億年前のゴキブリ
ゴンドワナトコバシリとは関係ない
北九州市立いのちのたび博物館蔵


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