【読書記録】プロスペール・メリメ『カルメン/タマンゴ』
メリメ(1803〜1870)はフランスの作家で、両親ともに画家で知識人という家庭で育ちました。言語能力と知識欲が人一倍あり、教養人の集うサロンに足繁く通い、民俗学やヨーロッパ諸言語の研究に勤しみます。作家活動の傍ら、官吏として「歴史的記念物視察官」に登用され、フランス内外の資料の調査や研究を行いました。第二帝政期には元老院議員も務めています。
『タマンゴ』
『タマンゴ』はメリメが26歳の時の作品で、奴隷貿易と黒人の反乱の顛末を描いたものです。作品が発表された1829年当時のヨーロッパでは奴隷制廃止論が熱を帯びていましたが、法律で実際に禁止されるのはもう少し後のことでした。
一言で言うと、救いのない話です。こと小説においては、私はこのような悲劇的な作品の方が心に残ります。人それぞれ形は違えど、辛く悲しい出来事は生きている以上避けられないため、悲劇の方が人生の真理を表している気がするからです。
主人公のタマンゴは黒人ですが、ヨーロッパの白人たちに自分たちが捕まえてきた黒人を奴隷として売っていました。実際の奴隷貿易でも、長い歴史の中で白人が直接黒人を捕まえるのではなく、徐々に黒人が別の黒人を奴隷として商品にして白人に売っていくようになりました。奴隷制については白人=加害者、黒人=被害者と一口に言い切れません。
そんな黒人社会では優位に立つタマンゴが、結局は他の奴隷と同じような境遇に陥り、支配者である白人を殺したところで待っているのは絶望と死のみという非情な現実。
奴隷文学と言えばアメリカのフレデリック・ダグラスやハリエット・アン・ジェイコブズが有名で、私も大学時代に色々と勉強しましたが、この奴隷制という人間が犯した大きな過ちに触れる度に、いつも胸がつまらされます。
アメリカでの奴隷制については多少の知識はありますが、ヨーロッパ国内での奴隷貿易に関する小説や記録はあまり読んだことがなかったので、いくつか新鮮な部分もありました。
物語にあるように、奴隷として連れられる黒人は海を見たことがない内陸の出身であるから船の操縦法が分からないという点や、アフリカ人はヨーロッパの人間が船に乗ってくるところしか目にしないため、白人は水上で生活して土地も家も家畜も持たない人種だと信じているという点などは、言われてみれば当たり前のように感じますが、初めて気づかされることでした。
奴隷制の歴史が生んだ悲劇については色々と思うところがあるので、機会があればまた別で取り上げたいと思います。
『カルメン』
『カルメン』は1845年、メリメが42歳の時に発表されました。ビゼーによって1874年にオペラ化された作品として有名ですね。代表曲である「序曲」、「ハバネラ」、「闘牛士の歌」などは多くの人がどこかで一度は聞いたことがあると思います。
ただ、原作とオペラでは異なる点がいくつかあり、ここでは原作の方に話を絞っていきたいと思います。
作中では様々な事情を考慮した上で「ジプシー」、「ボヘミアン」という語が用いられていますが、これらは現代では差別的な意味合いを含むため、本稿では代わりに「ロマ」という呼称を用います。
「ロマ」とは9~10世紀頃にインドから他の地域へと流浪を余儀なくされた人々のことで、15世紀頃にはヨーロッパにも移住しています。作中のヒロインであるカルメンもこの「ロマ」の一人です。
カルメンは悪女と呼ぶのにふさわしい、非常に不思議な魅力をたたえた女性です。
最初にホセの前に現れた時は、短い真っ赤なスカートに穴あきの白いストッキング、紅色のリボン付きの赤い靴、肩が出るようにはだけてショールを掛け、ブラウスにアカシアの大きな花束を刺し、おまけにもう一輪アカシアの花を唇にくわえているという出で立ちでした。
髪は長く黒々と輝き、目は欲情と猛々しさを同時にたたえて切れ長で大きく、褐色の滑らかな肌に純白の歯の持ち主で、いかにも男性の目を引きそうな印象です。
一目見てホセは気に入らぬ女だと思いますが、二言三言交わした後、別れ際にくわえたアカシアの花を親指でピンと顔に投げつけられた後から、もうカルメンのことが頭から離れなくなります。そして、ここからあらすじに書いたような転落の人生が始まります。
カルメンにはガルシアという夫がおり、自分に言い寄ってくるホセには当初興味がありませんでした。しかし、ホセが嫉妬の末の決闘でガルシアを殺した後、カルメンは得意の占いで何度も「死ぬ時はホセと一緒」という結果が出るため、半ば諦め気味にホセを夫として認めます。
その後ホセはカルメンに、更生を促したりルーカスとの浮気を問いただしたりとあれこれ口出ししますが、自由きままな生活を信条とするカルメンは「おまえさん私を殺そうと思っているね。占いに出ているんだ。でもあたしゃ言いなりにはならないよ」と突っぱねます。
いよいよホセがナイフを手に迫ってきた時も、「殺すなら殺せばいい。でもカルメンはいつだって自由なのさ。カーリ(ロマの女という意味)に生まれたからには、カーリのままで死なせてもらうよ」と見事な啖呵を切ります。
最期まで誰の支配も受けず、自分の生きざまを貫く姿はとても鮮烈な印象を残します。未読の方にはぜひ本を手に取って、カルメンの危うい魅力を味わってみていただきたいです。
物語の後にはメリメ自身の作品の解説が独立した章としてついており、ロマの人々の特徴や言語についてなど、彼の民俗学的研究の成果を詳らかにしています。この解説の章は、評論家からは蛇足だと言われることが多いようですが、カルメンの人物造形の背景がわかるのでそれなりに楽しめました。
カルメンは流浪の民であるため、作中で様々な言語を操り、バスク出身のホセに対してはかなり上手なバスク語で話しかけます。
ちなみにバスク語は系統不明の言語で、世界で最も難しい言語の一つに数えられることもあります。私も大学でバスク語入門の授業を受けましたが、かなり難解でした。
故郷と母国語への愛が強いホセは、よその土地でバスク語を聞くと切なさに身震いすると言っています。こういう点でもカルメンに心をくすぐられているんですね。もちろんカルメンは男の心をつかむ術を心得ていますから、つねにホセより一枚上手です。
オペラの方も調べて見ると、どの公演もかなり自分の中のカルメン像が忠実に再現されている印象だったので、今度はそちらも楽しんでみたいと思います。