執着について
執着というとイメージとしては持っていないほうが良いと捉えている人は多い様に思う。
拘りという言葉に対しては場合によって良くも悪くも捉えられるがこと執着となると、あまり良い印象で捉えられない。
ただ、私はこの執着は人が健全な精神を保って生きるためには欠かせないものであるように思う。
僧侶の方であれば執着しないよう生きている方も多いかと思うが、その生き方に対する執着であり、それは私の捉え方としては良いことの様にも思われる。
何に執着し、何に執着していないかに対する自覚は難しい。
執着している本人は執着だと思わずに執着しているからだ。
ただ、私は自覚的に執着をする様に勤めている。
つまりは執着できていないことと同義なのだが。
勝ち、個人的な成功、満ち足りた日々を求めて生きるということはほとんど無かった。
少なくとも記憶している範囲ではそう言ったものは歳を経るごとに捨てていった。
小学生ぐらいから捨てている自分に自覚がある。
そんな生き方でも悲しんだら腹が立つことはある。
そこで私はこういった対象をなるべく無くす様にする活動に執着しようと考えてみた。
その行き着く先が今であり、外部環境による機会の不平等を無くすことである。
純粋に腹が立ち、悲しさを覚える。
ここに執着しようとすることはそのまま生きる理由となり、前を向いて日々を過ごしていく糧になる。
だから"やりたいことがない"、"毎日つまらない"という人はいったん感情を解き放ってみて、その感情が動く先を対象に生きるというのも一つなのかもしれない。
レールから外れて自分の精神的安定を得ることになるだろう。
※短期的金銭的不安定に打ち勝つぐらいの執着対象が必要だが。