黒沢清『Chime』はなにを説明しなかったのか? 【解説・批評】
観てきました。すごい映画でした。こんなふうに映像を「設計」できるものかと。
なにも説明せずただ見せることによって、他者の秘めたものはただ狂気と映る。そしてそこに本物の霊が紛れ込んでいる……。という映画なのだけど、その設計があまりにも巧みなので、初見では狂気と怪奇の見分けが容易にはつかない。
しかし想像を働かせて、すべての行動に意図があると仮定して観てみると、そこにストーリーや人間関係が浮かび上がってくる、という仕組みになっているのだ。すると物語の見え方がガラッと変わる。
もう少しはっきり書くと、この映画はあるひとつの事実を伏せている。そのことが観客に言葉では示されないために、すべての出来事が狂気として見える。しかし言葉では示されないが、それは完全に明示的に映像に表れている。
本稿ではその事実を補助線として読解することで、『Chime』作中の随所にある奇妙な違和感や不可解さの理由をひとつひとつ紐解いていく。そのプロセスを踏むことによって初めて、『Chine』がどのような構造で組立てられているのかがはっきりと浮かび上がってくるはずだ。
説明されなかった事実
単刀直入に書こう。
この映画で語られなかった事実、それは松岡と、彼に刺し殺された菱田明美が不倫関係にあったということだ。
なぜそう言い切れるのか、ということはいったん置いておく。そのように仮定して読解することによって、すべての言動に辻褄が合うのである。
ここに映画の構造の魔法がある。
映画ではまず初めに狂った田代が自殺する。その後に、松岡が明美を(なんの説明もされないまま)刺し殺す。そのため、まるで松岡が狂気に取り憑かれて明美を殺したかのように見える。あるいは明美の方も、狂気が伝染して奇妙な言動を取っているかのようにも見えるのである。
観客の目に映る明美の言動は奇妙だ。「なんでこんなことをしなきゃならないんですか?」「鶏の首がないのも気持ち悪い」「人間の頭に見えてきた」などと、およそ料理教室の生徒が先生に対して取るような態度とは思えない。
しかしこれは、彼女が不倫相手だと考えれば納得がいく。彼女の喋り方はどこか媚びるような、甘ったるい喋り方だ。これは二人の関係が、単なる先生と生徒ではないことを示している。
(この場面のセリフの違和感については後段でもう少し掘り下げる。)
家族関係の奇妙さの理由
この不倫関係を補助線とすると、妻や息子との食卓の奇妙さにも納得がいく。
明美と対面する場面の直前に、初めて自宅のシークエンスが挟まれる。松岡が帰宅すると、妻の春子が出迎える。一見平和な家庭の風景だが、ここにも大きな違和感がある。
目の前で生徒が首に包丁を突き立てるというショッキングな出来事があったにも関わらず、松岡はそんなことはおくびにも出さず、何事もなかったかのようにビストロ・アンビューの面接がうまくいった、と話すのである。
カメラが代わり、食卓が映る。ここでも不可解なことが連発する。息子の健一はやけにそっけない態度を取る。松岡が「熱中できるものがあるのはいいな」「でもほどほどにしとけよ」などとと言うと、息子はわざとらしく大声で笑い始める。すると春子は突然立ち上がり、大量の空き缶が入ったゴミ袋を外へ運んで、大きな音を立てながらカゴに移し替えはじめる。
この一連の出来事も、初見ではなにか狂気的なもののあらわれに見える。しかし松岡の不倫が、家庭内でもすでに公然の秘密になっているとしたら、どうか。
つまりこの家庭はすでに松岡の不倫によって崩壊しており、しかし誰もそれを口には出さず、家族の体裁を取り繕っているのだ。春子との関係は仮面夫婦である。
だとすれば妻の春子の行動も理解できる。我慢して仮面夫婦を続け、なんとか取り繕おうとしていてもふとしたときに我慢ならなくなって、叫ぶ代わりに大きな音を立ててゴミを片付けるふりをする。
長男にとっても、何食わぬ顔で父親の顔をしている松岡が馬鹿らしく、尊敬する気持ちなどかけらも無い。だからあのような態度を取るのである。
なぜ菱田明美を殺したのか?
このような松岡の立場を踏まえて、もう一度明美を刺し殺す場面を振り返ってみると、残されていた不可解さもすべて解消される。
先ほども触れたように、明美のセリフは奇妙だ。「なんでこんなことしなきゃならないんですか? 理屈で説明してもらわないと」などと言う。自分から料理教室に来ているはずなのに、こんなことを言うのはおかしい、と観客は感じるはずである。この言動も初見では狂気的なものに見える。
しかしこれが、明美の素直な本心なのだとしたらどうだろう?
そもそも松岡の行動に不可解なところがある。この手の料理教室で、身まるごとの鶏肉を解体させたりするだろうか? 他の生徒たちに対する授業では、そこまでレベルの高いことをさせているようには見えなかった。
また、なぜこの場面に登場するのが松岡と明美の二人だけなのだろうか。普段の授業と違い、この場面だけ大勢の生徒も他のスタッフらしき人物たちもおらず、人の気配もない。
つまりこういうことだ。明美はこの日、松岡に呼び出されたのである。松岡は他の人が来ない休みの日もしくは時間帯を狙って、二人きりで個人授業をするシチュエーションを自ら作ったのだ。
明美の視点では、なぜか不倫相手から呼び出されて一対一で料理のレッスンをすることになり、何の説明も無いまま鶏肉を捌くところから料理を作れと指示をされた、ということになる。
そう考えると「なんでこんなことしなきゃならないんですか? 理屈で説明してもらわないと納得できない」というセリフは不可解でもなんでもない、筋の通ったセリフに聞こえるはずだ。
松岡は瞬間的な衝動に駆られて明美を殺したのではなく、計画的に彼女を呼び出して殺したのである。そのことを示す証拠はほかにもいくつも映っている。
彼女が背を向けたとき、流れるように包丁を手に取り背中に突き立てるまでの一連の動作には迷いがなかった。また、死体を入れるための寝袋が都合よく料理教室にあるというのもおかしい。
さらには、建物を出ると、線路沿いの道にいつもはないオレンジの車が停まっている。松岡はその車に明美を積んで、河原の土手へ埋めに行くのである。これらはすべて、松岡の犯行が計画的だったことを示している。
いつもは青いシャツなのにこの日だけ赤いシャツを着ているのも、ひょっとしたら血を浴びることを気にして目立たない色を選んだのではないかとも思える。
不倫がすでに家族にバレているのだとしたら、現在の松岡と明美の関係は、無邪気に密会するような単純な関係ではないだろう。説明されない以上、詳細は推測する他ないが、妥当な線としては、明美が松岡に離婚を要求しているとか、あるいはもともとパパ活的な関係で、不倫を公にされるという弱みを握られて脅迫されているとか、そんなところだろう。
とはいえ、そこの詳細は問題ではない。いずれにせよ、痴情のもつれだけではこの凶行は起こらなかっただろう。物語は、そこに全く関係のない田代という本当の精神異常者が現れたことによって始まったのだから。
外部から突然あらわれる他者の狂気
田代はどう見ても統合失調症である。「チャイムのような、人の声ではないが叫んでいるような、自分を呼んでいるような」幻聴が聞こえると言い、さらには自分の脳が機械に交換されたという妄想を信じて、それを示そうと自分の首に包丁を突き立てて死んだ。
この出来事は松岡にとって心的外傷を負ってもおかしくない衝撃的なものだったはずだ。
ポイントは、この時点では松岡の家庭の事情が明かされていないため、実は既に松岡が精神的ストレスを抱えていることが観客にはわからない、という点である。
そのため観客の目には、普通の料理教室の先生だった松岡が田代の狂気に接触したことをきっかけに不可解な言動をするようになり、やがて完全に狂気に取り憑かれて、殺人を犯す、というようなストーリーに見えてしまう。
しかし実際はそうではなく、松岡はもともと精神的ストレスを抱えており、明美を殺す動機として十分な前提があった。そこへ田代の自死というトラウマ的な出来事が後押ししたのである。
松岡は田代の言葉に蝕まれ、チャイムのような幻聴が聞こえ始める。ただしそれは田代の聞いていたのと同じものが松岡にも聞こえてきたというよりは、松岡自身が抑圧していた負の感情が、自分にもコントロールできない幻聴として聞こえてきてしまった、ということではないだろうか。
誰もが事情を抱えており、それを表には出さずに暮らしている。松岡もそうだった。そこに外部から突然現れた田代という人物の狂気に晒されたことによって、彼の中のなにかが変わってしまったのである。
松岡の奇妙な言動の理由
松岡がもともと家庭崩壊のストレスを抱えていたという補助線によって、ビストロ・アンビューの人たちとの面談の奇妙さも理解することができる。
一度目の面談は、松岡とビストロの関係者らしき人物の一対一だ。ここで松岡は、自分が料理のプロフェッショナルであることを流暢に語る。この時点では、観客は松岡のセリフを疑う理由がない。これは彼のパーソナリティを説明するセリフだ、と理解するはずである。
しかしこの場面にも不意に違和感が生まれる。シェフに就任したら料理教室はどうするのか、と問われた松岡は「やめますよもちろん」と即答する。しかし相手は、前回は料理教室にプライドを持っていると言っていたはずだ、と指摘するのだ。すると松岡は「変な妄想に囚われていたのかな」と言うのである。
二度目の面談の場面では、ビストロのオーナーも同席し、一対二の面談となる。松岡は他のシーンと比べるとまるで別人にでもなったかのように、より饒舌に身振りを交えて語る。しかし「必死ですよ、わずかなチャンスがあれば食らいついていきます」「未来に何の心配もない」「余裕です」「私は運だけはいい」などと彼がここで語るのは、ここまでの論を踏まえれば、全て実際の彼とは真逆の虚勢に過ぎないことは明白である。
彼の言動は壊れてしまった人生をなんとか修復しようとする必死さのあらわれだし、また現実否認的な誇大妄想のあらわれでもある。松岡は自分のことを天才シェフのように語るが、現実にはただの料理教室の先生に過ぎない。小学生のときに自分の口に合うフレンチだけを作って食べていた日もあったと言うが、本当にそんな天才ならばそもそもこんなちっぽけな料理教室の先生として働いているはずがない。オーナーに「自分の話ばかりしている」と言われあっさりと面談を打ち切られてしまうのも、彼のそうした部分を見抜かれたからに過ぎない。
しかし初見の観客には、そこまでの背景を掴むことができない。だからこの松岡の人の変わりようも、ある種の狂気のように観客の目には映るのである。
初見では不可解に聞こえるセリフは他にもあり、例えば田代が自死したあと警察の大槻が訪ねてくる場面で、松岡は「料理をする人は誰でも、負の感情を抑えるためにキッチンに立ちます。だからこんな物騒なものがあっても心穏やかでいられる」と語る。大槻が「松岡先生自身も?」と問うと、松岡は「ええ、そうです」と答える。
このセリフはどう考えてもなにか含みがあるのだが、そこにある違和感がなんなのか掴みにくい。しかし観終わってから考えれば、これは松岡が自分の負の感情を自覚していて、かつそれを意識的に料理で気を紛らせていることをはっきりと示しているセリフである。
このように、この映画では不可解な言動にもすべて理由がある。意図的にそれを隠すことによって、表面上に現れる奇妙な不可解さは、狂気的なものとして観客の目に映るのである。
そこに霊まで現れる
ここまで考えたときに、じゃああれは何だったのか? となるのが、死んだはずの菱田明美が料理教室にやってきたと聞かされるシークエンスである。教室の中に入ってみると、そこには椅子が不自然な向きにポツンと残されている。女性スタッフは、「そこに菱田さんがさっきまで座っていた」「後ろ向きだったから顔はよくわからなかったんですけど」と言う。
そしてそのあと、ギィと椅子が軋みながら動くような音が鳴り、振り返った女性スタッフが悲鳴をあげ、必死の様子で逃げ去っていく。続いてまた物音がして、椅子を見ていた松岡の顔も恐怖に歪み、ガタガタと震えながら悲鳴を上げる。松岡の視線の先は映らない。
ここで観客は惑わされる。これ以前の出来事は、初見の観客にとっては背景がわからないが故に、すべて奇妙で不可解な狂気のように見えていた。そしてここでもまた、松岡たちの視線の先が映されないが故に、観客は彼らが本当に菱田明美の霊を見たのか、それともこれもある種の狂気なのか、はっきりと判断がつかないのである。
しかしすべての言動に理由や因果関係があったことがはっきりした今、ここで何が起こっていたのかも明確になったはずだ。このとき、菱田明美の霊は実際に現れていたのである。(あとから振り返ってこのことに思い至ったとき、すごくぞっとした。)
ラストシーンの意味
二度目のビストロ・アンビューとの面談でシェフとして採用される話が破談になり、縋りつこうとしていた希望が潰えたあと、自宅の場面。ここからラストまでは一連のシークエンスである。
松岡が新聞を読んでいると、息子の健一がやってきて、20万円を無心する。松岡が説教しようとすると、健一は「じゃあいい」と二階へ上がっていく。
あとから松岡が二階へ上がって行こうとする直前、キッチンに置かれた包丁が目に留まる。松岡が健一の背後に立つと、健一はニヤリと笑みを浮かべながら振り返る。
松岡が階段を降りてくる途中、また幻聴の低いチャイムの音が聞こえる。田代から松岡へと伝染し、明美を殺すことに走らせたあのチャイムである。その音がここで聞こえるということは、このとき松岡が息子に対して殺意を抱いたと理解するのが自然だろう。その殺意を押し殺すように、ゆっくりと彼は階段を降りてくる。
ここでダイニングにかかったすだれの奥の部屋が一瞬映る。そこは整頓されたダイニングとはかけ離れた散らかりようだ。これも家庭がすでに壊れていることの痕跡であり、同時に、表面上だけ正気を取り繕っている人間が見えないところに狂気を押し隠していることを見事に端的に示しているショットである。
そして不意にインターホンのチャイムが鳴る。通話画面はノイズまみれで誰がいるのかわからない。
監督インタビューによれば、本作は「幽霊の怖さ」「自分が人を殺してしまうのではないかという怖さ」「警察に逮捕されるのではないか。法律、秩序が自分にひたひたと近付いてくる怖さ」という三大怖いものを盛り込んだ作品なのだという。ラストシーンはそれがまさに凝集する。自分が息子を殺してしまうかもしれない、という恐怖を抱いているときに、突然鳴ったチャイム。警察が来たのか、それとも霊が来たのか……。
インターホンを切ったあと松岡がダイニングテーブルに伏せて泣き叫んでいると、再度チャイムが鳴る。松岡は立ち上がり玄関へ近づく。今度は決心し勢いよく扉を開けると、しかしそこには誰もいない。
ここから激しいノイズのような音が聞こえ始める。画面はこれまでのデジタルの映像から、青みがかったフィルムの映像に変わる。カット代わりも、あえて最大限の不自然さを詰め込んだような違和感のある繋ぎ方である。三脚撮影から手持ちに変わり、フレームアウトしたのに次のショットでは板付きで立っている。これは要するにラストシーンなので映像的な違和感をこれでもかと詰め込んで恐怖を演出しているということなのだろう。
松岡は表通りまで出て、左右を振り返り、誰もいないことを確認する。(このときカメラが手ブレしながら背後を振り返って誰もいないことを示すのも、ものすごく違和感のあるカメラワークである。)
霊も、そして警察もいないことを確認した松岡は、自宅へと戻る。ドアを開け、玄関に踏み入れる前に立ち止まり、表情がアップで映る。
ドアを閉めると、激しいノイズは鳴り止み、最後に玄関のドアが映り、ゆっくりカメラが下がっていって映画が終わる。
想像の余地を残す終わり方ではあるが、やはりこれは、これから松岡が息子を殺す可能性を示唆していると言えるだろう。
前出のインタビューで黒沢監督は以下のように述べている。
この発言も、まだこれから何かが起こるのに映画が終わってしまう、と読み取ることができる。
また、黒沢監督の『叫』では、不良に育ってしまった息子の教育失敗を悔やむ父が、金を無心されたあと「全て無かったことにする」ために息子を殺すというエピソードが登場する。この類似が意図的な引用か無意識的な類似かは断定できないが、いずれにせよこのシチュエーションは父が息子へ殺意を抱いてしまうことを示唆していると言ってよいだろう。
インターホンのチャイムを鳴らしたのは誰だったのか? という疑問が最後に残る。ノイズや違和感を詰め込んだ撮影・編集の意図を考えると、このとき来ていたのはやはり霊だったのかもしれない。
ここも解釈の余地を残すが、ポイントは、「幽霊の怖さ」「自分が人を殺してしまうのではないかという怖さ」「警察に逮捕されるのではないかという怖さ」はどれも解消されたわけではなく、まだ温存されており、この先にもっと破滅的な恐怖の予感を残したまま映画が終わるということだ。
因果関係が逆転して見える構造
ここまでで、作中の一見不可解に見える行動にあらかた解釈を与えることができただろう。それを踏まえて、この作品の全体的な構造を俯瞰しておきたい。明美を殺すまでの経緯を本来の時系列順で並べると、以下のようになる。
明美と不倫
↓
家庭崩壊・精神的ストレス
↓
田代の狂気
↓
明美を殺す
しかし、作中の場面として情報が提示される順番は、以下のような並びになっている。
田代の狂気
↓
家庭の違和感(実は崩壊を取り繕っている)
↓
明美(ここで初めて登場)を殺す
つまりどういうことか。映画内で示される出来事の順番は、松岡の経験している因果関係とは完全に逆転している。そのために、極めて背景が理解しづらくなっているのである。
とはいえ、まったくわからないように作っているわけではない。先ほども触れたように、殺される前の明美の態度は、狂気という先入観なしに見れば、性的な関係をもった相手への媚びるような態度に見える。しかしシーン順の妙によって、それは狂気のように見えてしまう。
狂気と正気が見分けがつかなくされたところに、怪奇現象としての本当の霊が持ち込まれる。かくして、なにが正気で狂気で怪奇かがわからなくなる。
理解できないことがなによりも怖い。とはいえ、理屈も何もない、めちゃくちゃであるがゆえの理解不能なものは別に怖くはない。きっと何かあるんだろうと感じさせるのにそれが理解できないとき、人はその先を予測することができず、恐怖を感じるのだ。
まとめ : 知らないからこそ生まれる怖さ
最後に「松岡と明美が不倫関係に合った」という仮定に基づく解釈の妥当性について言及しなければならない。正直に言えば、この解釈は作中で明言されていない以上、「このように読解できる」という話でしかない。
しかし実のところ、この解釈が当たっているかどうか、というのはさほど問題ではない。
私は「この解釈こそが隠された本当のストーリーなのだ!」と主張したいわけではない。重要なのは、この映画の奇妙さや不可解さは、ただいたずらに奇妙で不可解な「絶対に理解不可能なもの」として作られているわけではない、ということだ。
事情や背景が見えなければ、問題を抱えた人間の言動は、他人の目には狂気のように映る。そのような「他者の理解できなさ」に対してこそ人は恐怖する。それをストーリーではなく、作品の構造によって語っていることが、この作品の特に優れている点なのである。一見不可解に見える登場人物たちの言動には、見えない事情や背景がきちんと設定されている。しかしそれを意図的に隠すことによって、「わからない」という恐怖を作り出すことこそが、この映画の本質なのである。
ホラー映画は「観客を怖がらせる」ことが目的であるという点で、特殊なジャンルである。その意味では、観客は起こっていることのすべてを理解する必要すらない。怖がってさえもらえれば、ホラー映画として成立する。
背景を補完して見れば筋の通ったストーリーに見える出来事が、情報の欠落によって、すべてが狂気的で理解できない怖さとして観客の目に映る。それをここまで構造的に実践した映画を、私は他に観たことがない。この点で、『Chime』は新しいホラーの可能性を切り開いたのではないだろうか。
観客の目線で言えば、「奇妙な違和感があり、その裏にはおそらく何かあるんだろうけど、それが何だかわからないため、展開が不可解で予測できなくて怖い」という体験である。観客は関係性の裏側を知ることのないまま映画が終わる。知らないからこそ怖い。それでオッケーなのである。
正気に見える人が実は壊れかけていて必死で表面を取り繕っているだけかもしれない。ある一面しか知らない人が裏では全然違う顔を持っていたり、家の中では経緯を知らなければ狂気としか見えないような行動をしていたりする。そういう「わからなさ」を垣間見るとき、人は他人に恐怖を抱く。それは現実にもそこかしこに潜んでいる、確かな手触りのある恐怖なのである。