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【雑記】ミラノ日記 DAY6 教会「ミサ」

日曜日。
実際日本人が観光に来た時に注意しないといけない一番の様日ではあると思う。
ほとんどのお店は閉まり、本来の観光ポテンシャルを発揮できない日である。

ただ、イタリアはミラノ。観光地も観光地。結構お店は開いていて
思った以上に活気だったところもあった。

だが、妻と話していて、日曜日は比較的ゆっくりしたいと言うことと
日曜日には必ず行われるキリスト教の説法、「ミサ」に行きたいと言うことだったので
一番都合の良さそうなミサを選んでいくことにした。
※ミラノ大聖堂なででもやっているが、あまりにも人が多そう+面倒臭そうと言うことで自分たちは別の教会をチョイスした。多分観光的にはミラノ大聖堂のミサを受けたほうがいいだろうと思われる。

さて、妻と立ち寄った教会はまたもやブレラ地区。
自分も程よいくらいの大きさで、また内装が美しいと思った場所でもあった。


サンマルコ教会

僕はキリスト教とと言うわけでは無いものの、妻はキリスト教で、大学でキリスト教を勉強していた神学者のようなものである。
よって観光も結構教会によっているし、自分も過去にプロテスタントの行事やミサには何度も参加したことがあった。

あまり日本の人には馴染みがないかもしれないが、お寺の説法くらいの感じがプロテスタントのミサである。正直非常に日常的で、ありきたりな感じなのだ。

いくらカトリックだからといって、ここに大差ないだろう。そう思ってミサに参加してみたが、

どうやらカトリックのミサは全く違うものらしい。

一言で言えば荘厳。もう一言加えるなら非常に儀式的。
もしもあなたが宗教に対してひどくアレルギーを持ち合わせていないのであれば
教会への観光は、ミサの参加をぜひ含めて欲しい。

非常に美しく、また素晴らしいものだった。


主催者側の人数や役割の多さ

カトリックのミサは教会によるのだろうが人数がそもそもプロテスタントとは違う。
コーラス、司祭、司祭見習い?などなど結構人が関わっており、着ている衣装も含めて非常に荘厳だ。
彼らそれぞれが役割を持っており、中には途中でベルを鳴らすだけのような役職の人までいた。
プロテスタントのミサだとそんなことほぼなく、大体司祭1人、補助で数人、パイプオルガンの演奏で1人くらいの印象だ。
10人くらいいるって言うのが初めてでこんなに関わってるんだな〜とまずそこから驚いた

儀式(お作法)の多さ

カトリックはプロテスタントと全く違うところを上げるとするならば
間違いなくこれだ。
お作法が多い。それは信徒たちではなく、司祭たちである。
まず入場と呼ぶべきだろうか、から始まるし
各フェーズで行われる司祭の所作や動作が存在している。
またお布施をした後に司祭が御礼の詔の様なことを言ったり
晩餐を行ったり(パンを信徒に分け与えるというキリストの所作を真似ている行為)
聖杯?っぽいのに水を入れて飲んだりと
非常にお作法が多い。
なんというか、抹茶や歴史ある武道などにも通じるマナー的な
何かをリスペクトし、敬うためにルールが敷かれているような印象だ。
服や装飾の華美さとこの儀式の多さがとても荘厳であり、美しいと感じる。
また先ほど書いた通り神やお布施をした信徒に対する感謝を感じられるような所作。
これらがわかりやすいので全体を通して何をしようとしてるのかも、なんと言うかわかりやすい。
ただちょっと権威的な背景を感じてもしまう。詰まるところ儀式の多さはわかりやすさにつながっているが、同時に権威性も強調されている感じである。
ミサを受ける信徒は明らかに「受け手」であり、立場が同じように全く見えない。
ここも、なんと言うかキリスト教がどう扱われてきたのか考察というか、考えを馳せる余白がある感じがする。

信徒の熱心さ

これは流石にここだけの話かもしれない。
ただ、参加者は結構いて、それも結構熱心な方々が多かった。
すごくしっかり祈られるかたが多く
また、十字架を持っている人たちもいた。

僕は本当に宗教に熱心な方、神を愛すると公言している方々には
共通の笑顔というのがあると思う。
なんというか、こればっかりは文字ですら表現ができない特殊な領域だ。
アガペースマイルというべきか、モナリザの笑顔の感じを
さらに朗らかにしているけど崩れすぎていないというか。
とにかく精神的に超充実している感じの笑顔ではある。

僕は人生で出会った中で最も美しいと感じた女性に
この笑顔をぶち当てられて、
当時ドン引きしてしまって鳥肌が立ちまくった経験がある。
本当に美しいひとのアガペースマイルは、ちょっと次元が違う。

話を戻すと、そういった笑顔を持っている人たちに出会った。
カトリックには隣人に対して「幸福を」的なことを言うフェーズがあり
その時に周りの参加者に声をかけるということをするのだが
そこで周りの人たちがそんな感じを笑顔を振りまいていて
熱心な方なんだな。と感じた。

日本だとどうしても宗教に熱心であることはネガティブに捉えられがちだが
実際のところは付き合い方なだけなのだろうと思う。
こういった優しい人たちに出会うといつもそう考えてしまう。

妻も、ここでのミサでそう言う人が多いことについて良い印象を持ったみたいだった。

光や音の美しさ

僕はこれに本当に感動した。
コーラス隊の歌の響き、鈴の響き。
ドーム上になった空間で反響して
若干増幅された音が信徒側に響き渡る。

現代は仕方がないがスピーカーを使っていて
そのスピーカーが古く雑音が入っていなければ
僕は突然涙を流したかもしれないくらい
音がスッと入ってきた。
また、自分たちが参加したのは夕方ごろ。
16時半からである。

10月はちょうど夏至も終わっており
日の上り方、落ち方が日本とにてきている時間だ。
ミサが進んでいる途中から、太陽が沈んできて
入り口の上にある、巨大な窓から光が差し込み、
祭壇を美しく照らす。

もちろんそんなことがなくともライトで照らされるが
柔らかい天然の光によって照らされた祭壇の荘厳さはもっと美しく。
ただただ美しく。
ただ立ち尽くした時があった。

建物として、ここまで考えられて作られているものなのかと感動したのと同時に
DAY3にも思ったこと。作り手の真摯さをものすごく感じる一面だった。


スマホではどうしようもなかったのだが
この祭壇にあたる光がとてつもなく荘厳で美しかった。

人と教会の美しさを感じるミサ

もちろん、プロテスタントも同じように教会は荘厳で、
素晴らしい教会はたくさんある。
実際ハンブルクの聖ミヒャエル教会のオルガンの演奏にも感動はした。

だが、こうやってカトリックのミサに参加して思うことは
キリスト教としての積み重ね、人が作り上げた文化の結晶
そして人が織りなす儀式の厚さ。参加している人たちの幸福さ。

何層にも重なって感じることのできる、言葉に表しずらい
そんな素晴らしさだった。

実際、カトリックはかなり政治利用されていたんだろう。
この教会の荘厳さや司祭の振る舞いには間違いなく権威が関わっており
ぶっちゃけ暗に「お前たちじゃわかんないだろうから、僕たちがわかりやすくキリスト教の素晴らしさを表現しとくね。だから僕たちを敬ってね」みたいな雰囲気も感じ取れる。

プロテスタントのミサからこのカトリックのミサを見たら、
少し馬鹿馬鹿しいと思うところも結構ある。
そんなことで神の意図の何が読み取れるんだろう。と思える感じ。
聖書と関係ない、忖度が入った無駄な儀式の集合体で、
余計に権威づけしているだけじゃないかと。

ただ、それは体勢やルールを作る空中戦を行っているお偉いさんだけであって
この教会を作り、関わった人々。現場で教えをとく人たちは、昔からずっと真摯であったに違いない。
そうでないと、こんなにも信徒側と司祭側の見える景色に差が出るなんて考えられない。
とにかく、司祭側から見る景色は、信徒に集中できるように設計されているし
司祭達も跪き、祈る。

様々な人が関わり、ミサという儀式を何層にも織りなして表現している。
イタリア、カトリックはなぜこうも人の重厚さを感じることが多いのだろうか。

そして、こうやって権威も信仰心も何もかもごっちゃになっているようなこの状況を見て、時代が進み、技術と共に知識が広がった結果プロテスタントが受け入れられたのもすごく納得できるし
これだけの内容になっていれば、負の部分である権威の癒着や十字軍などを行っていたというのにも納得がいく。
そして、ある意味無駄とも言える華美な装飾が儀式の数々は、本当の神にとってどう思うのだろうか。と思いを馳せてみたり、
現代になり、宗教には昔のようなパワーは無くなっていて、イデオロギーや個人主義の方が幅を利かせている(妻と自分の考え)状態で神は何を思うんだろうか。とも考えてみる。
ただ、なんだかんだ言って、争いながらも、
無駄な解釈が入っていようが「産めよ・増やせよ」の結果、
ここまで非キリスト教の人間が感動するに至る結晶を生み出している。
科学が発達した今ですら信仰され続けているのだから、まあ、満足しているんじゃないんだろうか。

イタリアに来てから、感動しっぱなしである。


英語でのミサだったため、フィリピン系の人の割合が多めだったらしい

ぜひミサも参加してほしい。観光と日常の違いを楽しんでほしい

教会は、もちろん観光資源や芸術的な価値からも貴重ではあるが
ぜひとも日常的な部分も経験してほしい。
ただ見回すだけの教会と、実際に使われている教会を見た上での観光は
ここまで違うものなのかと驚いた。

あれだけ素晴らしい建物の本質は、ミサや日々悩める信徒達との交流であって
ただ写真を撮るためのインスタスポットとして設計されたわけではないことを
これでもかと感じることができた。

また、もしいくならカトリックの方がいいと思う。
あの荘厳さはプロテスタントには残念ながらない。
どちらも悪いわけではないが、日本人として素直に感動しやすいのは
間違いなくカトリックだと断言する。

プロテスタントは先に結構知識がある人がいくと面白いかもしれない。
カトリックよりも聖書に関して深堀されており、また司教と信徒の距離が近いので
聖書の内容や解釈に対しての議論なんかもやりやすいとのこと(妻談)

最低限のマナーは守ってもらう必要はあると思うが、基本的にどんな人でも教会はウェルカムであるため、軽い気持ちで構わない。行ってみてほしい。

最後に、ミサでの説法の内容

また、これは別にカトリックだろうがプロテスタントだろうが関係ないが
ミサにはお寺の説法に近い、聖書の言葉を引用して司祭が解釈を入れて教えを解くというフェーズが存在する。
今回のテーマはなぜか本当に偶然ながら仕事がテーマだった。

以下に、今回説法で使われた原文を載せておく。

【マタイによる福音書第20:1~16】

20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。

20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。

20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、

20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。

20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。

20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、

20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。

20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。

20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。

20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。

20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。

20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

マタイによる福音書第20:1~16

この内容を、司祭が説くには
「労働とは、なんのためにあるのか」だった。
この「ぶどう園の労働者のたとえ」では
働いた時間に対する正当な対価が支払われていないと
労働者達は文句を言うが
家の主人は全員に平等に与えたいと言うことを言う。

この平等とは何かを考えるために、
労働とは元々なんのために行うものなのかを考えないといけない。

人は、労働しないと対価を貰えない。
対価を貰えなければ、生活ができない。

労働をすれば、対価をもらえ
対価(富)を持って、生活を営むことができる。

ただ、生活を営むことは、最終的に富さえあれば
労働しなくても良くなるわけだ。
ただ富を得るためには、労働をしなければならない。

では、労働とは、この富を得るための手段であり
富があると言うことは、自由を得ることと同じだと
司教は解いていた。

ここでいう「平等」と言うのは神の国(天国)のことであり
また自由を得ると言うことのメタファーでもあるとのことだ。

だからこそ、「正当な対価」と言う目先のためではなく
「自由を得られる」という目的のために
他者と比較し妬むのではなく、己の目的のために日々を過ごしなさいと言うことだった。

さて。こちら僕はいい考え方だな〜と思ったが
多くの人はこの説法に対して結構疑問を持つ内容ではあるかなと思った。

ただ、僕も直面している今のこの労働の話は、まさしくその通りだと思う。
自分がドイツで生きていき、自立して生活するためには
労働が必要不可欠である。
ただ、ビジネスを起こして成功している起業家の人たちは
労働を通じて自分のやりたいこと(自由)を勝ち得ており
辛いこともあるだろうが労働というものに対して
そこまで対価を求めている人をあまり見たことはない。

もちろん、いいものを持っていたりするが
そんなに物欲がない人間の方が多い。それも必要だから持っていたりするって人の方が多い印象だ。
それよりも会社を通じて自由に社会でやりたいことをやれる環境を楽しんでいる人が多いのだ。

このぶどう農園のたとえで言うならば、僕はただ仕事がなく立っているだけの人なのだろう。
ただこの話と違うところは、自分はすでに他者に語りかけられるほどの最低限の能力はあり、また自ら働かせてくれという意思があると言うことである。

自分が気にしないといけないことは、この後や今富を持っているさまざまな知人や友達などに嫉妬せず、ただ自分が自由に、そして幸せに生きていくために
しっかりとやるべきことをやっていくことが必要であると言うことだ。

宗教がある生活というのは、もちろん付き合い方によるだろう。盲目的に信じすぎてはいけないのだろうが、きっと人の人生を鮮やかにするきっかけにはなるのだろうなと改めて感じた。


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