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生かされている気づき
齢50を超えると同年代の友人が大病したり、久しぶりの同窓会に行くと大半の人が血圧を下げる薬を服用していたり・・歳をとったな・・と感じる機会が増えます。
20年ほど前の中学校の同窓会で久しぶりに会った友人が胃ガンを闘病の末、克服し、あと数年再発しなければがんサバイバーだ!と当時、言っていました。
その友人は克服後4年ほど経過したところで再発し、転移が見られ再び闘病生活に入ったのでした。医者からも完治が困難で、3年後生存率が極めて低いなど受け入れがたい現実を突きつけられ、久しぶりにメールを送った際に上記の内容を告げられ、会っておきたい友人や同窓生を集めるのに私も一躍かっていました。
そして会いたい友人と会い、行きたい場所に行き、動ける間に動いて、ある時(遠方に住んでいるので)亡くなった知らせがきたのでした。
他人がやり残したこと
私は、もともと運動が苦手で走ったりするのは嫌いでした。そんな私がフルマラソンや10キロ、ハーフといったマラソンの大会に時折出場するようになったのは亡くなった友人と飲み交わした際に、
「日本一高いところから日本を見下ろしたい」
(富士山に登頂したい)
といった願いを聞いて、
「だったら元気なうちに一緒に登ろう!」
といった話から、山登りが出来る体力づくりを兼ねて、日々ランニングを始めたのがきっかけでした。
毎日ランニングを続けているとタイムが気になったり、富士山に登るためだけに走るのがもったいないのでは?と思い始めてえひめマラソンにエントリーしたのがそもそものきっかけでした。
残念ながら富士山は友人の体力が戻ることがなく(抗がん剤のタイミングもあり)一緒に登ることができなくなり、その友人とも親しい私の親友と一緒に登りました。土砂降りの雨で景色を楽しむことは出来ませんでしたが、友人が富士山から見える景色を見たいと言っていなければ恐らく富士山に登ることはなかったと思います。
富士山山頂の記憶は鮮明に残っています。
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生かされている気づき
亡くなった友人のお父さん、お母さんとは未だに連絡をいただいたりして交流があります。
そのお母さんから (私の)同級生が最近人工透析を始めて、透析をし始めた同級生のお母さんが悩んでいる・・といったことを教えてくれました。
私にできることなど無いとわかっているのですが、連絡をいただいた翌日の朝、透析を始めた友人の親を訪ねました。
不摂生や食生活の乱れ等で検診結果が芳しくないのを放置し続けた結果、人工透析しか選択肢が無かった・・といった話にはじまり、色々な話を約1時間程度傾聴しました。
数日後には私の自宅を訪ねてきてくれて、母にたいそうお礼を言っていたと聞きました。
人工透析をしている人は決して少数ではないし、健康に暮らしている人もいるので、透析=早死 と早合点するのは問題がありますが、親の気持ち、本人の気持ちを考えると(もし自分が透析をする立場になったとしても)そんなデータの話ではない事はよく理解できます。
今まで食べていた美味しい食事に制限がかかったり、透析を受ける前と受けた後の倦怠感が(個人差はあるようですが)苦痛だったり、今までと同じ生活をしていくことが困難であるケースが多いと聞きます。
亡くなった友人、透析を受けることになった友人、そんな友人の姿を目の当たりにするたびに、つくづく健康や命があることが当たり前でないことに気づかされます。
今年も12月にハーフマラソン大会に出走しようとエントリーしました。
先日は33回目の400ml献血をしてきました。
常備薬もかかりつけ医もない状態で日々が過ごせている事が齢50にして当たり前ではない「ありがたい」、そして「生かされている」ことに気づけた今日このごろです。