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無知の知

インフルエンス(influence、影響):冬になると流行する感染症「インフルエンザ」の語源となっています。
インフルエンザ:ルネサンス期のイタリアで、占星術士が風邪症状の流行と冬の星の動きを結びつけ、「インフルエンツァ(影響)」と名づけたのが始まり。日本へは、幕末になってオランダからインフルエンザという言葉が入ってきましたが、これに「流行性感冒」の訳を当てます。
世界最初のパンデミック(世界的流行)=1918~1919年に大流行した「スペインかぜ」はインフルエンザが原因。感染者は全世界(人口20億人弱)で6億人を数え、世界中で4000万人以上の人が命を落としています。また、第一次世界大戦(1914~1918年)で亡くなった人の数より多かったというのですから驚きです。


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インフルエンサー: influence(影響)を与える人。

人気のユーチューバーで、今や有名なインフルエンサーとなったメンタリスト DaiGo が「ホームレスの命はどうでもいい。必要ない命」と言ったようですね。炎上したことに反論して「そんなに助けたいなら身銭を切って助けたらいい」とも。そして、 メンタリスト DaiGo を堀江モンが擁護した模様。

確かに彼らは機能主義的に見れば、学習能力における勝ち組。また、メンタリスト DaiGo は多額納税者であることを誇示していますし、堀江モンとともに成功者の部類に入ります。つまり、彼らは知的そして、物質的に満たされている上級国民

でも、何かが欠けている。

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『小論文を学ぶ』 261ページ~

・・・・「教養」を積むことと「専門的知識」を積むことの違いを根拠にして、社会はどのような知を求めているのかを洗い直す作業である。・・・・近代以降、西洋文明はしだいに教養教育から専門教育へと大きくその流を映してきた。・・・・実用性機能性という観点から知が問い直され、役に立たない知は不要という判断がそこに働きはじめたのである。・・・・

彼らは高学歴かもしれませんが、ソクラテスの「無知の知」を知らない、すなわち「自分がいかにわかっていないか」を自覚できていない、と推測されます。そして、インモラルな学習者(笑)。


192ページ~

・・・・単なる教科や科目ごとの分断された知識でしかなく、スペシャリティ(専門性)を重視するものばかりであることと軌を一にしている。・・・・
-本来、道徳(モラル)というものは、少なくとも相応の学歴をもつ者にとっては、学問内容をどのように世に還元するかという学問的モラルが第一に考えられなければならないことである。ところが実際には、学問内容を “心の問題” と分断したうえで、学問スペシャル(特殊)な知に矮小化してしまっている。・・・・

たとえば、こんなことを考えてみよう。「生物」の学習において「老化」が生体の機能不全の長期的過程だと学べば、「老化=役立たずになること」との等式が自然に出来上がる。その直後に「道徳」の時間と称して「お年寄りを大切にしましょう」と習ったとして、果たして道徳(モラル)は身につくものかどうか。そこには単なる “胡散臭さ” が漂うことになる。「ウソ言うな」というのが正直な感受性だろうが、それを言うとセンセイに睨まれるので、学習者は適当な模範解答を用意して表面ヅラだけ整えようとする。

これは端的にインモラル(不道徳)の学習である。道徳を個別科学の問題と切り分けてしまうと、このようなことが起こるのである。・・・・

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『小論文を学ぶ』 181ページ~

いのちの問題ーターミナル・ケアとクオリティ・オブ・ライフ:  そうした科学の「機能主義」的価値観は非常に強いものだし、われわれも知らず知らずのうちにそうした価値観を自然に受け入れているのが実情だが、一方で、機能主義だけでは人間のいのちの問題を考えるには不十分ではないかとの疑問も提示されるようになってきている。

従来、医療分野ではキュア(cure、治療)の方法ばかり探究されてきたが、その機能主義的発想がいま問い直されつつある。人々はキュアだけでは結局は人間は救われないこと、すなわち一方でケア(care、看護)の観点が必要であることに気づきはじめている。生体の機能を十全に保つことだけが医療ではなく、患者のその時どきの心や患者の人生の意味を大切にすることが最終的に求められることであることを人々は認識しはじめているのである。

ターミナル・ケア(末期医療)ということばがあるが、これは単なる機能主義的な医療技術の問題ではなく、人間の生きる意味を積極的に見出す精神面の救済を意味している。人として生き、人として死んでゆくということはどういうことなのか、それを単なる生命の長短の問題ではなく、人生論・人間論として考えはじめていると言っていいだろう。

かつてギリシア時代には、人間の命というものを表すための概念が二つあった。一つはビオスー英語のバイオという言葉はここから出てくるーであり、これは身体的で物質的な生命を表した。もう一つはゾーエーであり、これは霊魂の生きざまを表すための命ー日本語の「○○にいのちを賭ける」という場合のいのちーを表している。人間は単なる物質的な命を生きているわけではなく、精神的あるいは霊魂的な「生きがい」の主体としての “いのち” を生きているという発想がギリシア時代の人びとの人生論の原点にあった。・・・・

人間にとって望ましい生き方とは「善く生きること」であると説いたソクラテスを引き合いに出すまでもなく、人間の生は単なる身体的な苦しみや痛みを避けて快や楽だけを追求するためにあるのではないという考え方は、ギリシア時代ばかりでなく、少なくとも近代以前までの人々のあいだでは一般的なものであった。身体的な快楽(=苦痛の除去)は、魂の充実と言う、人生の最終的な目的のための手段にすぎないということは、分別のある人間ならば誰でも分かっていたことである。

しかし、近代医学の発達とともに、人びとの意識も、いつしか生命(いのち)の問題を人生論の問題としてではなく、臓器や生体の物質的機能の問題として受け止める考え方を受け入れてしまったのである。いまやわれわれは医者にかかるとき、「どこが悪いか」を機能的に説明し、機能的な治療を期待している。・・・・

-また、このことに関して、少年による殺人事件が起こるたびに学校現場で称えられる「いのちの大切さ」を教えると言って実際に教えている内容は、単なる生物のメカニズム(機能)であったり原子論的世界観を前提にした普遍的人権論であったりする。

いのちの問題を物質論に矮小化したり権利論に抽象化することは、無益なだけでなく大変に危険なことでもある。いま教育者はそうした殺人少年と共犯関係にあるといっていいー。
だが、こうした機能主義的な発想も、・・・・


183ページ~

 自殺ほう助と自己決定権ー人間の共同体に求められるもの: 安楽死や尊厳死の問題は・・・・だが、実際に生命維持装置をはずすのは家族ではなく医者であり、QOL(生命の質)を問題にしはじめると「生きるに値しない生命」という社会的基準を誘発し、いろいろなかたちで人間淘汰の道が開かれてしまう危険性がつきまとうのではないかとの危惧も生まれる。優生学的な視点から人間に優劣をつける発想にもつながりなねないという危惧である。こうしたところから尊厳死を容認することに二の足を踏むことになるのである。・・・・

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『小論文を学ぶ』を読めば、メンタリスト Dai Go の発言から4つの問題が浮かび上がるはず。

1.教養教育の欠如。

2.道徳教育の欠如。

3.いのちの問題を物質論に矮小化したり権利論に抽象化することは、無益なだけでなく大変に危険なこと。

4.優生学的な視点の全否定から、尊厳死死刑制度に対する滑り坂論法および思考停止に帰結する危険性。

https://note.com/gashin_syoutan/n/n153637fac5c5

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「知らない」よりも罪深いのは、「知らないことを知らない」こと。

教養を身につけ、道徳(モラル)を身にまとう覚悟もなく、適当な模範解答で表面ヅラだけ整えようとする謝罪など、「胡散臭いぞ ウソ言うな」ですよね。それとも、仮面の下に「みすみす収入の道を閉ざすバカはいないさ」って舌を出している姿が透けて見えるのはオイラだけ(笑)?

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