知の巨人
昨日は血の話でしたが、今日は知の話(笑)。
いつもインスピレーションを与えてくれる五輪さん。
五輪さん、書を書く how to に飽き足らず、いつも漢字の what を考える知的な方。
ということで、前回のオイラの記事の続きです。
古代中国の王朝は、成立した順に 夏 ⇒ 殷(商) ⇒ 周 。王朝の始祖である神聖王は、神と同格であり、神話の神の直系者。各地の部族の首長は王室に職能的に奉仕させられ、職能的部族は図象をもって自己を標示しました。殷代の青銅器に、その図象を銘文とするものが多くあるのは、そのため。
天命思想による道徳国家たる周と違って、神政国家である殷では甲骨文に残されている占卜(せんぼく)の方法がそのまま政治理念であり、王の神聖性を保持する手段。
青銅器は紀元前2000年頃には、すでに製造されていましたが、その頃はまだ、文字が書かれていません。紀元前1500年頃、王は神託を得るために加工した亀の腹側の甲羅や鹿・牛の骨に火をあて、表面にできたヒビの入り方で占いを行いました。この占卜の過程と結果を記したのが甲骨文なのです。
漢字の体系ができたのは殷の時代であり、紀元前1300年頃(殷中期)になると、青銅器にも文字が入ります。そして、周の代(紀元前1000年頃)には、青銅器制作の由来や目的を文字(金文 きんぶん)にして鋳込むようになります。
周が衰え、群雄割拠となった春秋戦国時代は、紀元前770年から秦に統一される紀元前221年まで続きます。秦の始皇帝は、それまで多様化された戦国文字を刻石碑を建立したり、度量衡標準器に文字を鋳込んで配布することで、篆書(てんしょ)による文字の統一を行います。
時代とともに、文字を手書きする必要性が増すと、篆書の単純化・簡素化が行われ、隷書(れいしょ)が生まれます。その後も、文字は進化し、南北朝から隋にかけての5~10世紀、楷書(かいしょ)や行書、草書などの書体が誕生。
甲骨文が発見されたのは、清代末期の1899年。1910年に福井で生まれた白川静先生は小学校卒業後、弁護士事務所で住み込みで働きながら夜学に通い、33歳の時に立命館大学を卒業した苦労人。
古代王権の条件は文字を持つこと。エジプトではヒエログリフ、オリエントでは楔形文字、そして、中国では甲骨文字です。日本の王権でも文字を持つところでしたが、先に中国から来てしまったので、仕方なしに使うことにした、と白川静先生は言います。「決して、こちらから頂いたと卑下するな」とも。
日本人は中国人の使わない方法で漢字を使いました。音をもつ中国の漢字を日本語で読み下す訓。つまり、漢字ではなく、読み砕かれて国字になったのだ、と先生は言います。その証拠に、訓読は中国にはありません。
中国はレンガを積むようにポツンポツンとした言い方。一方、曲がりくねって、腰をねじるような表現豊かに読めるのが、日本語。国語の表現力が高いのは漢字をうまく使ったからだ、と先生は言います。
先生は、殷代の甲骨文や周代の金文の研究にまい進され、後漢の許慎(きょしん)による文字学の聖典である『説文解字』の文字解釈を大きく塗り替えた知の巨人。西周の青銅器の銘文を読み解き漢字の本質を究めることで、古代中国の社会と文化を解明し、東洋文化の良さを知ろうとした白川静先生は2006年、96歳でその生涯を閉じます。
白川静先生と同じ日本に生まれた幸運に感謝して、合掌。
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