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エッセイ。3

201009 

今日は朝からインターンだった。

今さっきまで、気の抜けたサイダーみたいに、信じられないくらいだらだらしていた。

私は、もともと、人と会ったり、何かの作業を集中してしばらくやったりすると、エネルギーの充電に、またおんなじくらいの時間を費やさなくてはならない。

これは、かなり、自分にとっては、悩みの種なのだが、、

まあ、そういう人間もいるということだ。
あまり、自分を責めないようにしておこう。

そんな痴話話はさておき。

今日のインターンは、二日間あるうちの一日目で、今日の話を聞いて、興味が出たら、次も予約してください、ということだった。

初めてのメーカー系のインターン。

とっても、影響力の大きい仕事。
誰もが知っているようなインフラを手掛け、世界の経済、産業界を引っ張る仕事。

とても魅力的だ。
モノづくりの大切さは、この社会では、なかなか見えにくい。

でも、材料をとってくる人がいて、それぞれの部品を作る人がいて、それを組みてる人がいて、それを運ぶ人がいて、それを売る人がいて。また、それらの仕組みを作る人がいて。 それをコンサルする人がいて。 それを宣伝する人がいて。 それをする人材を集める人がいて。

そう考えると、仕事って深いと思った。 
どこかの歯車が抜け落ちたら、すべてが回らなくなる。
全く、うまくできている。

そして、今日の企業は、その、多くを自社で行う、一気通貫型の企業だ。
メーカーも企業によって、色(商品の種類ではなく、どの工程に力を入れているか)が全く異なることを知った。

さて。
前置きが長くなったが、何を書きたいかと言うと、
好きなこと、情熱を持てること、それを仕事にするには、どうすればいいのだろう、という、多くの人間が抱える問いだ。

いま、日本では、仕事を情熱持って、スキなことに取り組めている人は、約6%だそうで、世界でも、かなり下位に位置する。

この事実をきくと、これから仕事をするであろう人間にとっては、先に待っているのは、永遠と好きでないことが続く地獄に誘い込まれるような絶望だろう。

かくいう私も、その一人だ。
想像という範囲内でしかない。が、自分が続けられる、本当にやりたい仕事は何だろうか、それをクリアにしないと、就活しても意味がないようにさえ、思う、そんな気持ち悪さがある。

もちろん、やってみなきゃわからない。
仮説を検証しなくてはならない。

しかし、リスク回避型人間にしては、人生でやりたいことをはっきりさせるのに、リスクを冒すのが怖いとも思うのだ。

私は、このブログでは、どこまでも、正直だ。

だから、誰がどう言おうと、自分がしっくりくる、これだ!と思うことしか、仕事にしたいと思わない、それが今の気持ちだ。(だった。)

じゃあ、それが何なのか。

それを選ぶことをしているか、選択肢を検証しているか、と言われれば、怠惰な自分は、それをずっとしてこなかった。

結局、自分は何にも情熱を持てない人間なのではないか、と怖くなることは常だ。銀のスプーンのように、熱しやすく、冷めやすい。

だから、自分は人生を通して、自分の「一貫性」を探してきた、そんな気がする。もっと言えば、自分が何者なのか。自分の中でずっと変わらない、constantは何なのか。何が自分を、自分たらしめるのか。

そして、それが、働くことの中にも見出したいと、思っている。

ただ、考えても、考えても、なかなか、そんなものは見つからないんじゃないか、と最近は思う。

色んな情報がある。
さっき、上で書いたように、仕事も、数えきれないほどの、セクションがある。関わり方がある。

その中から、選ぶのは、大変なことだ。選択肢があるのは、贅沢かもしれない。

でも、選択肢の多さに関わらず、我々は、自分の意志で、選ばなくてはいけない。

だから、自分は、これからも、自分の一貫性を探していきたい。

一貫性なんていらないという人もいる。

「仕事は仕事、金を稼ぐもの」と、割り切っている人の方が、仕事に幻想をもつ人よりも、結果的に、成長するし、業績もよいというデータがあるらしい。

たしかに、このデータの意味するところも分かる。
もしかして、正論を言えば、仕事は、やっていくうちに初めて、成長を感じられるのかもしれない。

そういった、仕事に対する幻想は、期待値を高くし、それが現実に存在しないと気づくと、人は絶望する。

だから、「仕事は、仕事」マインドは、すべてのことを、あきらめた、投げやりなものでは、本質的には、ないのだと思うのだ。

仕事は、仕事。幻想は、つまり、「楽しいが仕事であるべき」「仕事は、楽しいものもあるはず」といった類のことは、人間がつくりだすものなのかもしれない。でも、その中で、自分の人生を現実で「体験」していく。だから、何が起きても、動じない。

人生の選択は外の情報に振り回され、他人に、決めてもらうものであるべきではない。

情熱にも、将来への警告にも、偉い人が言ったことにも、頭の中の表面的な”スキ”にも、惑わされないようにしなくてはならない。

例えば、ケーキが大好きで、ケーキ屋でバイトしていたとする。
でも、その人は、ケーキを食べることが好きだった。だから、ケーキを売ることが楽しくなかった。

また、その逆もあるかもしれない。

だから、自分が、本質的に、何を求めているというのは、表面の裏側に眠っている。

試行を繰り返して、仮説を検証していくしかないのだ。
検証して、自分の深いところにある、何かを拾い集めなくてはならないのだ。

ここまでの、話は割と、一般的に認知されている概念だと、思う。

だから、同時に、私自身が感じていることを書いて、この冗長な文を終わりにする。未熟な若者の、たわごとだと思って、読んでもらって構わない。

私が感じるのは、この情報が溢れた、どこか息苦しい社会で、多くの人が、私の言う、自分の深いところにあるものを、いま、この瞬間に見つけなくてはならない、と思っているのではないか、ということだ。

たしかに、人はいつ死ぬかわからない。
今から、小一時間で、ミサイルが落ちてきて、死ぬかもしれないし、雨で、転んで、頭を打つといった、些細なことで、死ぬかもしれないし。

だから、生き急ぐ気持ちはわかる。自分も、最近は、周りを見て、焦ることばかりだ。

でも、自分の一貫性・大切なもの・信念、そんなものが、たかが20年やそこらで見つかってたまるものか、または、80年やそこらの人生で、見つかるものなのか。

私にも、わからない。自分が未熟なのはわかっている。しかし、同時に、それを見つけるスピードは、バラバラであって構わないし、人生のconstantは、人によって大小、実利的・哲学的、etc、 なんでも構わないはずだ。
それは、一つじゃないかもしれないし、見つかったと思っても、後で違ったと気づくかもしれない。

だから、要するに、これは、自分が、自分に向き合って、人生をかけて、抽出していく作業なのかもしれない。

だから、例えば、仕事が、人生の時間で大きなウェイトを占めても、それは、仕事でしかなくて、それ以上ではないはずで。

でも、自分が何かに振り回され、焦り、それを必要以上に美化したり、卑下したりすると、苦しくなる気がする。

だから、なにか、物事に期待を抱くだけではいけない。
自分が、自分のペースで、すべての人生の事柄から、何かを拾い集めなくてはならない。そう、私は思う。

そう思うことで、自分を保っているだけに思えるかもしれないが、
少なくとも、自分にとって、こういう考え方は、大事なことだと思っている。

最後に、私の祖母が言っていた言葉を記しておく。

自分が正しいと思うことには、はっきりと誇りを持ちなさい。
同時に、人生は、常に学びです。だから、どんな些細なことからも、学びを得る姿勢を忘れるな。


 







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