歴史時代小説を書くために 其の三(歴史資料としての軍記物と日記)
こんにちは。其の三です。
さて、歴史資料には様々なものがあります。舞台とした時代の事物や行動や考え方などを再現するには、その時代に生きていた人が書いた日記や公的記録、世に広まった物語などを参考にするのが、基本になるでしょう。
「平家物語」や「太平記」、「応仁記」のような軍記物は、物語として面白く読める(聞ける)ように事件を加工していると考えられるため、事実と異なる部分や誇張がかなり入っています。
しかし、その誇張ぶりには、やはり当時の世評や感覚、ものの見方が表れており、参考にできる資料にもなります。
例えば、室町期で言えば、この「応仁記」の一節
「公事政道ヲモ知リ給ハザル青女房 比丘尼達 計ラヒトシテ酒宴淫楽ノ紛レニ申沙汰セラレ(将軍義政は、酒宴の折に青女房などが申し上げることを即断して沙汰してしまう)亦 伊勢貞親や鹿苑院ノ蔭凉軒ナンドト評定セラレケレバ……云々」
足利義政時代の将軍と幕府の実態、政策決定がこんな感じと思われてたんだろな、と想像させる一文です。
また、それに対して、公家や僧侶が書いた日記は、自分の身の回りの事件や見聞きした実際の風聞など、その時代にあった事実を書き残してくれているので、極めて信頼性の高い資料となります。
ちなみに、室町期の日記には、主に次のようなものがあります。
「経覚私要鈔」大乗院経覚(応永22年 1415~文明4年 1472 の日記)
「大乗院寺社雑事記」大乗院尋尊(宝徳2年 1450~大永7年 1527 の日記)
「建内記」万里小路時房(応永21年 1414~康正元年 1455の日記 欠落多)
「看聞日記」伏見宮貞成親王(応永23年 1416~文安5年 1448の日記)
これらの内「大乗院寺社雑事記」は、応仁の乱とその前後の事件や当時の大寺院門跡という立場からの感想・意見が逐一記述されており、その詳しさとボリュームにおいて、最も重要な資料と言えます。(呉座勇一さんの『応仁の乱ー戦国時代を生んだ大乱』は、経覚と尋尊の日記を主に扱っており、新書では珍しいベストセラーになりましたね)
大乗院というのは、奈良興福寺の塔頭で門跡寺院です。代々摂関家の子弟が入って、一乗院と交互に興福寺の別当職(寺のトップ)に就いていました。経覚は九条家、尋尊は一条家の出身(父は学者としても有名だった関白の一条兼良)です。
尋尊の「大乗院寺社雑事記」で名高いのは、次の一節
「就中天下ノ事 更ニ以テ目出度キ子細コレナシ 近国ニヲイテハ近江 三乃 尾張 遠江 三川 飛騨 能登 加賀 越前 大和 河内 此等ハ悉ク皆御下知(おんげち)〔将軍の命令〕ニ応ゼズ 年貢等一向進上セザル国共ナリ〔中略〕 ヨリテ日本国ハ悉ク以テ御下知ニ応ゼザルナリ」
〔文明九年十二月十日〕
11年続いた応仁の乱の完全終結が、西軍の大内政弘が京から撤兵した文明9年11月11日なので、その直後の感想がこれ。日本中ことごとく、将軍の命令なんか誰もきかなくなったわ、という感じだったんですね。
と、いうわけで、今回はここまでです。ではまた。