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自分の肩書きに不安を抱かない日なんて永遠に来ない

この記事の下書きが書かれた日は「2016年2月2日」だった。4年も前だ。しかしこの問はまだ私についてまわっている。

元来、十分準備をしてから望みたいほうだ。胸を張って言えるタイミングが来てから言いたい。あやふやなまま矢面に立つのはいやだ。「正解」が欲しい。

でも結局用意された正解なんかないし、正解は、ほとんどが無駄になるかもしれない膨大な努力を経て自力で見つけなければならない。その事実には毎回絶望する。そんなこと忘れてコーヒー飲んでぼうっとしてたい。でもそれじゃだめだ。

確固たる気持ちなんかあるわけない。鼓舞しないとやってられない。

「自分よりふさわしい人がいる」と思うとき

この仕事は自分に向いてないかも、自分よりふさわしい人が社内にいるような気がする、と考え始める。

でも、向いてるってなんだ? 向いてなかったらなんなんだ?

「自分に向いてるかどうか」という発想は捨てる。クオリティを担保してくれる人よりも、どうにかやりきって手数を増やしてくれる人のほうが重宝されるのである。

ときおり頭をよぎる。

「いや、私は私にしかできないことをしたい」

そんなことを言う前に、お前は自分の存在意義をつくりだせているのかと。それができてないなら、とにかく目の前のことをやらなければならない。

インハウスの意義について

“インハウス”エディターと名乗っている。インハウスとあえていっているのは、職種の役割に対する弱気の現れでもある。デザイナーやエンジニアや営業に”インハウス”はつかない。つかないのは、インハウスが当たり前だからだ(当然、その職種の人たちの努力や成果はいまもあり続けているわけで、それに対する尊敬の気持ちは忘れていない)。

存在が当たり前じゃないからインハウスなのだ。それはつまり、「外注しても同じ結果だ」と思われたらインハウスで抱えられている意味はないということ。

だからインハウスの意義は自分でつくらないといけない。

インハウスの意義っていったい何? 例えば、

・早いこと
・ドメイン知識やユーザーインサイトを持っていること
・プロダクトの仕様・想い・内部事情を考慮したアウトプットが可能なこと

これは最低限。たぶんもっとある。それを見つけて実績を積まなければならない。

お前はチャレンジを楽しめているか?

不安を抱えるのは逆に成長している・成長できる環境にいるということでもある。ちょっとでもやれそうなら「できる」と言っていい。チャレンジを続ける限り、不安が無くなる日は来ない。しかしそんな毎日は楽しいのだろうか?

楽しむ余裕はない。ないけど、走り出したらなんか楽しいときもある。そのかすかな楽しみを掴みにいくために、毎日せいいっぱい走っている気がする。

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