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わがままな食事

 フレデリック・ワイズマン監督の『至福のレストラン 三つ星トロワグロ』(2023)を観に行きました。(以下、『トロワグロ』と表記)これは、フランスの自然豊かな村ウーシュにあるレストラン「Troisgros」が親子3代に渡って55年間もミシュランの三つ星を維持することができるのは何故なのか、その秘密に迫るドキュメンタリーです。ワイズマン監督の映画は他に、『ボクシング・ジム』(2021)を観たことがありますが、かれのドキュメンタリーにはナレーションがなく、そこに存在する人々の行為と語りの場面が連綿と続くのみです。『トロワグロ』も例外ではありませんでしたが、材料調達やメニュー決定におけるメイン・シェフたちの相談→厨房の様子(新人シェフたちの育成)→接客係やソムリエを含んだレストランと客との交流という、レストランという場所がもつ時間(とき)のリズムをよく感じられる構成でした。また最終盤に、メイン・シェフと客が世代交代について語る場面が挿入されており、三つ星レストランであり続けたこれまでの55年とこれからについて想像させるように仕向けられました。映画全体は240分あるので、途中で5分間の「休憩」があります。インド映画『RRR』(2022)を思い出し、クスッとしました。

 「Troirgros」というレストラン名を聞いて、まずは「3(Trois)」と「太った人(gros)」に分解してみました。オーナー・シェフには3人の子供がいて、それぞれがレストランの仕事を引き継いでいます。なるほど、それを意味しているのかと思っていたら、単に名前の姓でした。辻調理師専門学校のブログには当該レストランの訪問記があり、日本においても料理のプロを目指す人たちにとっては、よく知られた名前なのでしょう。私は本当に何も知らない……とスマホの検索結果を眺めながら、愕然としました。この映画はあらゆる意味において、鑑賞者を謙虚にすると思います。

 メイン・シェフたちがメニューを決める際に議論となっていたのは、仕入れる可能性のある魚が「川魚」か「淡水魚」か、です。旬には当てはまるか、十分な量が仕入れられるか等、多くのことに配慮していました。
 新人シェフが、(牛の)脳ミソの血抜きが不十分だと指摘されていました。「血管が詰まっていて、大変なことになるぞ!」と。厨房奥のテーブルにメイン・シェフと横並びに座って、「血抜き」の方法について記述されている本を読み比べています。そのうち1冊は『ラルース百科事典』で驚きました。「困ったことがあったらこれを読め、大体の答えが書いてある」と言うメイン・シェフの語調は想像していたよりずっと穏やかではありますが、創造することのなかには予め「答え」が与えられているような基礎、あるいは技術があるのだと実感させられました。私は「自力で」理解したいという思いがとても強いのですが、既にある知識を生かそうとしないのは都合の悪いことのように思えました。
 三つ星レストランにやって来る客は、どんな人達なのか気になっていました。私は、祖父母と一緒にフレンチ・レストランを訪れたことがありますが、味付けについて色々とケチをつける彼らに辟易とした記憶があります。何故こちらの味覚のほうが正しいと思えるのか…!という疑問を感じずにはいられないのです。ところが、トロワグロにやって来る客のなんと「わがまま」なことか…!食材の好き嫌い、デザートのクリーム量、ワインのコルク臭を指摘した上でのボトル交換、「シェフを呼んでくれ」等と、とにかく喋りまくるのです。料理を1皿ずつスマホで撮っている姿はとても今どきなのですが…。そして更に驚くのは接客係の言葉「何なりとお申しつけ下さい、こちらからメニューの変更をお願いすることもありますから、お互い様です」や、そのオーダーを伝えられたシェフの淡々とした態度「変更できるよ、カエルは食べられたら良いんだけど」です。メイン・シェフは、客に「厨房を見て欲しい」と言います。手前から奥まで遮るものがないスッキリとした厨房を自慢したい、そして安心してもらいたいという意図があるらしいです。「調理するシェフたちは、客の顔でテーブルを覚えます」「私たちの料理は完成してはいるけれど、お客さまとのコミュニケーションによって再構成されるものだ」
 接客係がオーナー・シェフに、ある料理についてクレームが入るかも知れないという危惧を伝える場面がありました。また食材調達先(ぶどう農家、チーズ工房、酪農家など)のスタッフも、その食材の魅力と生産方法のこだわりについてよく話しました。私が「わがまま」と感じてきたものが覆されるようでした。最近寝る前に聞いているラジオ「岸政彦の20分休み」で、岸さんが「仕事というのは、ぶつからないといけない」と話していたのを思い出しました。たとえばシェフと客のどちらかが、一方の話を聞くに値しないと考えてしまったら、この関係性は破綻します。レストランは商売だから、という言い方もできるとは思うのですが、今日のところは「美食」の共同性と対話の可能性を信じて、筆を置きます。

 

 

 

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