「Journey幕張」にはリトグリのすべてが詰まっていると思う、という話
「Journey幕張」
映像を見るまでこの言葉がガオラーの中で、こんなにも多くの意味を含んで大切にされているものだとは、知りませんでした。
2022年7月24日、リトグリ第1章としての最終公演となった幕張メッセでのJourneyツアーファイナルです。
その場におらず、映像しか見てない僕が語るのはおこがましいのは百も承知ですが、でもやっぱり大好きすぎるので、語らせていただこうと思います。
ライブ映像作品としてはとても不思議な作品です。タイトルの通り、すべてが詰まっているとも思うし、少し引いてみれば他のライブ映像作品に比べて一番何も詰まっていないとも言えると思います。
いずれにせよ、多くのガオラーさんにとって「最も大切なライブの一つ」であることは間違いないと思います。
そして大前提として、僕ももれなく大好きで、大好きで、大好きで、いまだに見ては聴いては感動し、涙する、絶対に大事にしたいライブです。
※ガオラーとしてはまだ未熟者な僕ですので、なにか誤った記載があればご指摘ください。
何も詰まっていないJourney幕張
Journeyツアー、および、Journey幕張の概要について、少し長いですが、wikipediaを引用します。
あえて乱暴な言葉を使います。
たぶん、リトグリを知らない、好きでもない人から見たら、一番何も詰まってない映像作品かもしれません。
・それまでリードボーカルを多く担当している芹奈、manakaが不在じゃないか
・映像と録音に頼ってるじゃないか
・生の分厚いハーモニーの迫力が感じられないじゃないか
などなど。
他のライブ映像の方が、音楽的には見応えがある、と言われてしまうかもしれない、そんな可能性もある作品だと思います。
事実、それもあってなのか、リトグリの公式Youtubeチャンネルには多数のライブ映像がアップされていますが、Journeyのそれは一曲もアップされていません。
個人的な想像ですが、「新規のファンを獲得するには他のライブ映像のほうが適切だ」という判断かと思います。または「3人のリトグリサウンドは本来のリトグリサウンドと違うから誤解が生じる」などもあるかもしれません。
そういう僕だって「何も詰まっていないじゃないか」と当時は言っていたかもしれません。リトグリが3人になってしまったとき、「芹奈とmanakaがいないリトグリなんて、聴く価値あるのかな?」とか思ったことがありました。
そんな自分、本当に叱りたい。
書いているだけで、悔しくて、悔しくて、情けなくて、涙がでそうです。
でも、そう言いたくなる人を責めても仕方がないのもわかります。あの分厚いハーモニーを作るために「人数」は絶対に必要なもの。そして芹奈、manakaが最高なボーカリストであったことは、大多数が認める事実でもあるからです。
3人で行うライブには「リトグリの大切な要素」が欠けている、というのはある意味事実かもしれません。
すべてが詰まっているJourney幕張
でも・・・
だからこそ、すべてが詰まっている、と僕は思うんです。
UNLOCKツアーセミファイナル、10周年の映像の中で
という文字が出たとき、会場は温かい拍手に包まれました。
10年という歴史の中で「この時」はやはり特別なものなのだ、と思いました。
2年が経った2024年7月24日。多くのガオラーさんが、この日を思い出してポストしていました。
紹介したポストはほんの一部です。たくさんのガオラーさんがこの日を思い出し、愛に溢れたメッセージをポストしていました。
なぜ「すべてが詰まっている」のか。
「失うことでわかる」とはよく言ったものです。Journey幕張はこの「失うことでわかる」ということ自体を表現として力強く示したものだと思ったからです。
Journey幕張では3人ではできないことを映像と録音のサポートによって実現しています。でもそれは、「ガオラーのみんなは芹奈、manakaのことが好きなはず、出演できないならせめて映像くらいは」とか「卒業するんだし、せめてこのくらいのことは」といった情だけから生まれるような表現ではないと思います。
「それがないとリトグリができなかったから」ということだと思うのです。
一曲目、Jupiter。
アサヒさんは涙を流します。
表ではあまり泣かない印象のアサヒさん。それまでカメラが捉えたアサヒさんの涙は仲間を思う優しい涙であったり、自分への厳しさからきたものだったと思います。
でもこのときのJupiterの涙は違う。
正直、見ていて本当に辛いです。
「5人いないと、できないんだよ!!!!!
もう、、、できないんだよ!!!!!」
というような、強烈な悲しみ、寂しさの叫びを、そして無力感を感じました。
それでも。
それでも、3人はライブを最後までやり遂げます。「リトグリ」という名に恥じないクオリティで。
芹奈、manakaの登場を期待していたかもしれない幕張メッセの大観衆に向けて、芹奈、manakaが登場しないことを知っていても元気を送り続けます。
リトグリの音楽を表す言葉の一つとして「応援」というものがあると思います。一番応援されなきゃいけない3人は、最後まで応援することを辞めなかった。たとえそれが、少しいびつな形でも、普段とは違う形になっても、「いつも通り」にガオラーさんを元気づけるためにたくさん工夫をしてくれていることが、ものすごい力で伝わってきました。
リトグリのクオリティとは何なのか。
リトグリが歌う歌とは何なのか。
なぜそれを実現するために5人、ないしは6人が必要なのか。
2人を失った状態での3人がどうにかしてそれを伝えようとしたとき、奇跡のようなパワーが発揮され、強烈に伝わった。
それがJourney幕張だと思います。
全力REALLIFE
Journey幕張のセトリで好きな曲というと、これもまたいろいろな意見があるでしょう。
僕は、というと、アンコールのラスト「全力REALLIFE」です。(そしてダブルアンコールへ続きます)
僕はこの「全力REALLIFE」が歌われたとき、すでにリトグリ第二章は始まっていたのではないか、と思っています。
もう芹奈さん、manakaさんは登場しないと決まっていたなかで、この歌詞を“全力で“歌う3人を見ると、その力強さに驚かされます。
そして2024年の「今」、この歌詞を見ると、彼女たち3人の信念を感じます。
パシフィコFanfare Finalや、ガーデンシアターUNLOCK Finalの“あの“感動をすでにイメージしていたかのような、そんな気にさえさせてくれます。
でも実際、当時はそんなリアルな希望、輝かしい未来を想像はできなかったはず。
きっと3人が想像していた希望はとてもぼんやりとした小さな光で、本当にあるのかどうかすらわからないような、見るのを諦めたら消えてしまいそうなものだったに違いありません。
逆にリアルに想像できていたことは絶望ばかりだったと思います。
芹奈さん、manakaさんが抜けてしまったことへのファンの失望。
多くのファンの離別。
パフォーマンスクオリティ低下への不安。
世間からの新体制に対する不満の言葉。
そのなかで「なりたい自分(たち)」を持ち続けることがいかに難しかったでしょうか。メンバーの口からは言っていないけど、「バカにされた」ともいえる鋭利な言葉もあったでしょう。芹奈さん、manakaさんへの回顧は、ときに新体制を「笑う」ようにも感じられたかもしれない。
そういう「向かい風を切って」、「あとちょっと」「あとちょっと」と6人で努力しつづけたであろう2023年。
UNLOCK Finalで「最高の瞬間をみんなと駆け抜けてるから」って言いながら、「嬉しくって泣いたんだ」になれたこと、当時想像できたでしょうか。
困難な状況が眼の前にあるのはわかっていても、
ぼんやりと先にある小さな光を信じて力強く歌い始めた。
それがこの「全力REALLIFE」だと、僕は思います。
「Journey幕張」にはリトグリのすべてが詰まっていると思います。
過去も未来も。
その真ん中にあるのが、「Journey幕張」なのだと、思います。
※トップ画像はこちらからお借りしました。