未来の知られざる名曲「Fragile」を語り尽くす
2024年8月7日。「ORIGAMI」のEPリリースとともに、カップリング曲「Fragile」がリリースされました。
作詞作曲は傘村トータさん。WikipediaによるとReoNaさんに多くの楽曲を提供しているようです。
この曲。リトグリの楽曲の中では非常に異質な感じで、配信直後、多くのガオラーさんがFragileに反応していました。
そして僕もその1人でした。
そんな異質なこの曲はリトグリの知られざる名曲になると思います。15周年でガオラーさんに「あの曲がまた聴きたい」のアンケートを取ったら上位になるような、そんな曲だと思います。
今回はFragileへのガオラーさんの反応、この曲の魅力、リトグリはなぜこの曲を歌うのか、という切り口で妄想たっぷりで語ります。
※曲への解釈やリトグリの活動に関しての考えは完全に僕の妄想ですのでご了承ください。
Fragileへのガオラーさんの反応
まずはリリース直後の僕の反応。
そのほかにも印象的な他ガオラーさんのコメントを貼らせていただきます。
まとめると
という曲なのではないでしょうか。
「Fragile」の魅力とは
さきほどご紹介したコメントがこの曲のすべてを物語っていると思います。が、もう少し僕の主観も交えて細かく語ります。
歌っているリトグリはもちろんですが、傘村トータさんの作詞・作曲の素晴らしさがこの曲には存分に発揮されていると思います。
ライブで聴いたら感動する曲
僕も真っ先にこれを思いました。他にも同じようなコメントをしている方を何人か見かけました。
「ライブ」で聴いたら感動する
そもそもこれはどういうことなんでしょうか。
スタジオ録音版では感動しないのでしょうか。
ノリノリな曲はライブならではの臨場感、パワーを感じやすいかもしれません。情熱的なバラードであれば、空間に声が響く感じ、ライブならではの緊張感やそこから生まれる切実さを表現として感じられるなどもあると思います。
もちろんこの曲にもそういう要素はありますが、Fragileの「ライブで聴いたら感動」は少し違う気がします。
それは「メンバーが目の前にいて歌っている」をリアルに感じられるか、という話なのだと思います。
この歌はメッセージ性が強いです。強すぎて痛いくらいに。だからこそ、そのメッセージをリトグリの6人が発していることを感じたい、6人がその言葉を発してくれるからありがたい、優しさを感じる。
現実の世界でも、「好き」の告白や、勇気をもって伝えなければいけない指摘、そういうコミュニケーションは「直接会って伝えたい」と考える人が多いように、このメッセージは録音ではなく直接会ってその言葉を聴きたい、と思う人が多いのではないでしょうか。
刺さる、自分の弱い部分、生きづらさに共感してくれる曲
僕は「刺さる」という言葉を多くのガオラーさんが言っているのを見て、とても共感しました。
特にそれを感じるのはBメロ。ストレート過ぎるくらいに「生きづらさ」を表現していて、しかもそれをMAYUとmiyouが自分に聞かせるように歌っていて。。。正直最初は歌を聴くのが辛いと思いました。
かれんがインタビューで語るように、この歌詞に共感できる人と共感できない人、大きく分かれるでしょう。
共感できる人にとっては・・・
「他人を責める」の「苦手」と表現した傘村トータさんのセンスが素晴らしいと思います。「苦手」というのは、「他人を責めたくない」という優しさだけではない、「他人を責めたらなにか言われるんじゃないか、怖い」「他人を責められるほど自分てすごくないよ」「他人を責めるような強いキャラじゃないからできないで、そんな勇気ない」というような、「したくない」だけではない、「できない」という意味が含まれている気がします。だからこそ、やり場のない感情を自分に向けてしまう。それが「弱い」自分であり、「辛い」結果なのではないでしょうか。
そんな自分のこと、十分知っているからこそどうにかしたい、でも実際はどうにかできない。
そんな他人と比べて弱い自分を、悩んでいるうちにどこかで許せなくなっているのかもしれません。
この短い歌詞の中に、こういったやるせなさを込めきっていると思います。
描かれている情景の美しさが聴き手の記憶に響く
「弱い」「辛い」だけでは終わらないのがこの曲。
「自分を見つめ直すときはある
でも、見つめ直したところで変わらないし、問題は解決はしないんだよな。。。
こんな自分・・・どうなってしまうのかな。」
こんなこと思ったこと、ありませんか?僕はあります。
Fragileは、それを思う瞬間を描写するところから始まるのです。
自分が弱くなっているとき、そんな自分を見つめ直すのはどういう場所でしょうか。どういう瞬間でしょうか。
どこかで一人になったとき?
でもそれは、暗い部屋の中や、街の雑踏、会社の会議室で一人になったときではない。
一番自分を見つめ直すのは、美しい空を見たときではないでしょうか。
「あぁ、なんか現実の自分、馬鹿らしくなってきた。なにやってんだろ」
みたいな。生きづらさを抱える人にとって、誰しもが経験したことのある瞬間なのではないでしょうか。
なぜ美しい空を目にして、自分を見つめ直すのか。それは「本当は世界ってこういう美しいところなんだよな」と思うからだと思います。でも現実世界、その空の下の世界にはたくさんの事柄、モノ、人、情報が追加され、それらは複雑に絡み合っていて、強い人がそれをコントロールしているように見える。
自分ではそれはどうしようもできない。純粋でシンプルな、美しい世界が見えていても、それをそのまま現実に持ってくることはできない。
僕は美しい空を見たとき、そんなことを思います。
Fragileは「その瞬間」の「私」にタイムスリップさせるところから始まるのです。
メッセージを印象的にするためにアレンジ・歌唱にもさまざまな工夫がされている
これらの素晴らしい傘村トータさんのメッセージ性の強い歌詞。その世界観を実現するためのアレンジや歌唱の仕方は非常に巧みです。
歌唱の仕方はこちらのポストで細かく解説してくださっていますので、紹介します。
これでもまだ1番の部分だけ。
2番〜ラスサビまでも、たくさんの歌唱ポイントがあります。
このnoteでは少し別角度で、曲全体を通してのアレンジコンセプトをメインにお話したいと思います。傘村さんの意図とは違うかもしれませんが、あくまで「僕はこう受け取った」という話です。
簡単にいうと、冒頭に紹介したこのポストの方が言っていることです。
この曲のリスナーを「私」と表現するならば、Fragile全体には「『私』とリトグリ」というストーリーがあると思います。
最初は私は一人。
たまたま美しい景色を目にして、自分を見つめ直すと自分が嫌になる。
でも、だんだんとその景色を一緒にみて、一緒に自分を見つめ直してくれる存在(=リトグリ)が一人、また一人と増えていき
最後には私が見ている景色を6人が一緒に見てくれる
最初から最後まで悩み続ける曲なんだけど、最後には一緒に寄り添ってくれているように感じる
そんなストーリーを演出しているんだと思います。
ここの素朴なアサヒの歌唱で、まずは「私」が一人で見た美しい空が思い浮かびます。
1番、2番は基本的にはソロボーカルで歌うのがこの曲です。特に最初はリトグリ6人を一斉に感じることはなく、一人ひとりが出てきて歌うアレンジになっています。サビ頭など、ところどころでハーモニーを聴かせるところもありますが、印象としてはソロが多いイメージになっていると思います。
しかし、全体を見ると、徐々に人が増えていきます。
そっと寄り添ってくれる人が徐々に増えるように・・・。
1番のサビの冒頭は3和音、2番のサビ冒頭はタブ下も加わって4和音、そしてラスサビ冒頭はたぶん同じパートもかぶせて6人で歌っている(?)。徐々に「私」のまわりにリトグリが増えていきます。
人数という表現以外にも、Bメロのハモは、1番はMAYUのメロディに被せるのはオクターブ上ユニゾン(誰だろう?結海?)で少し寂しい感じ→「生きてきた」だけ3和音、なのに対して、2番のmiyouメロディに被せるのは3度ハモ。想いが強く増していくような表現。「私」にリトグリが近寄ってきてくれるかのように。
そしてギターソロ、初期の椎名林檎を思わせるようなギターソロが、この曲の世界観をうまく描いています。
ハードに叫ぶようなギターサウンド(自分の頭のなかのぐちゃぐちゃさ)と淡々と進行するピアノの単調なリズム(何事もなかったかのように進む社会)が合わさって、なんとも言えない切なさとやるせなさを感じます。
そうして、美しい空を見たときの「私」の心情に、徐々に寄り添い始める予感を感じさせ・・・
ここからクライマックスまでのドラマが感動的です。
「私」が目の前で見ている美しい世界を肯定するかのように、優しく、その情景をアサヒ→MAYU→miyou→かれんが歌っていきます。
そして、なんといっても結海のこの部分
こんなにシャウトせずに叫ぶ歌い方があるでしょうか・・・
これまでの結海があまり見せなかったビブラートを思い切りかけて、絞り出すような声色にした情熱的な歌い方、バンドも思い切り8部音符の連打で畳み掛けて、この世界観の核へと「私」の背中を力強く押して・・・と思った瞬間!!!
・・・・・・
といきなりバンドが消え(すべての煩わしいもの、悩んで苦しかった世界が一瞬で消え)て、「私」とリトグリ6人だけの世界が現れます。
リトグリが揃って(オクターブユニゾンで)この言葉をそっと歌うのです。
(あぁ、書いてて泣きそう)
最後(ラスサビ)ではもう一度、6人と一緒に美しい空を見ます。まだ迷いながら悩みながらいても、強さと温かさを感じるように。そしてクライマックス、
で、「私」の現実世界にリトグリが現れる気がします。
「今、一緒に見てるよ!」と再確認するように。
「脆い」はユニゾンで弱さを強さに変えるように、「自分でも」はハモを展開して厚く温かく包み込むように。
そして
かれん、miyouが両端から包み込むようそっと歌って幕を閉じる。
ライブ演出まで想定して、徹底的に作り込まれた歌割りを感じます。
今回文章を書くにあたって細かく書きましたが、初めて聴いたときにもなんとなくこういう世界を想像ができるから、「ライブで聴いたら感動する」にもつながるのかもしれません。
リトグリはなぜこの曲を歌うのか
僕は、この曲はリトグリらしくない、と思いました。
もう少しいうと、「これまでのリトグリらしくない」ということです。
「リトグリの曲ってどんな曲?」
って聞かれたら
「元気になる曲」
「応援歌」
みたいなものが似合うのではないでしょうか。
それをもう少し細かくいうと、「いつもは元気にやれているけど、少し落ち込んだり前向きになれないときに再出発する曲」というようなものだと思っています。
「いつも元気にやれているけど」がベースにある曲が多いと思うんです。
それはそれで大切だし、多くの人にとって意味があると思います。
でもこの曲は違う。
「いつも元気にやれていない」がベースにあると思います。
それか、「いつも表面的には元気にやれているけど、ずっとなにかにもやもやしている」という感じかな。
いずれにせよ、「+1を+10にする」というより、「−10を−10のまま受け止める」というような曲です。
そしてここにこそ、リトグリの今があると思います。
この8月でミカが20歳になることで、リトグリは全員が20代のグループになります。かつては全員が10代のグループだったところから、リトグリ自身も、ガオラーも歳を重ねました。リトグリの歌は同年代にもっとも響く歌だと思うので、今のリスナーのメインターゲットは20代だと思っています。
社会にでて、荒波に揉まれ、「いつも元気に」とはいられなくなった、そんな人達に寄り添う曲なのではないでしょうか。
もっというと、そのなかでも特に、ガオラーのみんなに送る曲でもあるように感じます。
前回のnote
で書いたのですが、ガオラーのみなさんは優しすぎる。でも、どこか優しすぎたり、愛が強すぎたり、正義感がとても強かったり、美しいものを美しいといえたり。でもその純粋さ故に、現実の社会ではうまくいかないこともあるのでは?と心配になるときもあります。
かくいう僕も、現実の世界でうまくいかないことがたくさんあるし、もう10年も昔ですが、29歳、前の会社に務めていたとき、メンタルが完全に崩壊していたときもありました。当時はほったらかしにしたけど、今思うとやばかった。会社で弱い立場になり、自分ではなにもかもが上手くできないと感じ、友人もいなく、楽しい時間もない、そんな状況でした。
この言葉を聴いて、始発で会社に向かう電車から見た、東京湾からビル群を照らす朝日を見たときのことを思い出しました。
「目の前の世界はとても美しいのがわかるのに・・・自分の生きる世界は・・・全部壊れてしまえばいい、むしろそんな自分が壊れてしまえばいい」と思っていた。
あのときの自分が「Fragile」を聴いていたら・・・
どんなに救われたかと思います。
もしかしたら、ガオラーのみなさんのなかにも、状況は違えど苦しんだ方、苦しんでいる方、いるのではないでしょうか。
この曲は、そんなガオラーの方がいつも全力で注いでいる愛を、6人が全力で返してくれている歌なのではないでしょうか。
ライブで共に泣きましょう。
全力で愛を注ぎ、全力で愛を感じて。