人生の区切りを迎えて#18 誰かに施したら見返りを求めたくなる?
■どんなに強く思っても同じにはなれない
ある別れがあった。
色恋の話ではないが、私にとってはこの10年以上を捧げてきた人だ。いや、それは一方的な想いであって、相手にどれだけ届いていたのか、響いていたのか、分からなかった。
できれば同じ気持ちであってほしいと思っていたが、その人は“私”ではなかった。そう、一人の人格を持った人間であって、私とすべて一緒ではない。それでも惚れたものの弱みか、そうであってほしい、そうあるべきだ、に変わっていく自分の心境が手に取るように分かった。まるで恋愛物語のようだが、私自身がそんなに恋愛事情に詳しいわけではないが、それに酷似していることは否定できない。
最後の最後まで、その人柄同様にやさしい言葉をかけられ、普通を装いながらその場を後にした。あまり失恋した経験はないが、いや、そもそもそういう恋愛経験が少ないのだが、そういう場面を経験した人たちは、こういう気持ちになるのだろうと思った。
■火中の栗を拾うことに躊躇いもなく
最初の出会いは、むしろ相手からのアプローチが積極的で、私にとってその領域は別世界であって、とても私などが足を踏み入れるところではなかった。だが、一方で、家族を養わなければならない私にとって、これ以上ない機会であり、できるできないではなく、やるしかないと決断したというのが真実だ。
家族や友人も、私の判断に疑問を呈したが、もう一度、すべてを学び直して、必要とされる人間になろうと夢中になった。すると不思議なことに、仕事や人間関係などで好き嫌いを言っていた私が、むしろ火中の栗を拾うことに躊躇いもなく、求められる人間になろうと努力することができた。
たぶん、その人に認められることが、自分にとってこの上なく喜びであり、誇りであり、楽しみでもあったからだろう。そういう青春真っ只中で小躍りする自分がいた。
■誰のせいにすることもできないこと
時は流れ、自分としては“同志”になったつもりになり、いつしかその人と距離を取るようになった。ただ、距離を取るといっても、近からず遠からずの関係の中で、違う道を少しずつ歩むことになった。たぶん、長年付き添った夫婦が、恋愛関係からこういう関係に発展するようなものだろうか。私にとって、新たな仲間との目標が少しずつ形になってきたことも、その関係性に大きく影を落とす結果になった。
反省を込めて言うが、私に驕りがあったのだと思う。いくら努力しても埋められないものはある。私には自分という武器しかなかった。相手には複数の確約された武器が揃っていた。つまりいくらでも選択肢はあったのだ。私には限られたものしか持たされていなかったことに気がついた。
これまでの人生を振り返れば、絶対的なものはどこにもないことは一目瞭然だったし、誰もそれを犯すことはできないことはわかっていたのに、一番身近でわかっていたはずの自分が、それに気が付かなかったなんて、誰のせいにすることもできず、ただ茫然とするばかりだ。
ここ数日経って思うのは、人間というのは愚かで、何度も同じことを繰り返す馬鹿者であるということ。でもそれを忘れずに上手くやる人なんてどこにもいないことも知っている。嬉しい時は喜び、悲しい時は嘆く。その人間らしさが私らしさならば、残された人生の中で上手くやるチャンスをもう一度与えてほしいと願う。この経験をした上で、また同じことを繰り返すのか、自分を使った実験を是非ともしてみたいから。
———編集後記———
“失恋”の時が早く訪れてよかった。
もう3年遅かったら立ち直れなかったかも。
そう考えると神様が与えてくれた残りの人生は
もう一度挑戦する体力と気力が残された。
30代半ばでも同じ失敗をしている。
今となっては失敗どころか
次なる自分のステージを築くためには必要な
経験だったと胸を張って言えるのだが。
その時も家に引きこもり
ただひたすらキーボードを叩いて
自分の気持ちを文字にして書き溜めた。
それがnoteに書き連ねた<あの頃のジブン>だ。
それと同じような時間が20数年の時を経て
再びジブンにやってきたということだ。
人間はいくつ歳を重ねても
生きることは上手にならないし
今度こそはと儚い夢を追い続ける愚者である。
でもその出来損ないが
人生は一本道ではないことを教えてくれるし
何度でもやり直せるのだと言っているようだ。
その気持ちが衰えないジブンに感謝しつつ
また明日からいや今日から
歩き出そうと強く強く思うのであった。