「今夜はカレー」の幸せと「大きな政府+管理社会」の未来
先ほど妻からLINEが来て「今夜はカレー」と書いてありました。小学生からおっさんに至るまで、私にとっては最上級の幸福な言葉です。今日のオンライン会議→オンライン講義の疲れが吹っ飛ぶ魔法の言葉。授業中にLINEが来なくて良かったです。もし授業中にLINEに気づいたらニヤニヤしてしまうところでした。危ない、危ない。しかし「今夜はカレー」って言葉は凄いな。その日にどんな嫌なことがあっても全てを塗り潰して幸せにしてくれるパワーワードです。
思えば、小学生の時、超が3個ついても足りないくらいのド田舎に住んでいました。近くに商店と呼べるものがない集落だったので、毎週日曜日に車で町まで買い出しに出ていました。そのため、土曜日の夕飯は必ずカレーでした(冷蔵庫の整理だと思う)。幸せだった。ちょっと都会にすむようになってからは、朝に家を出る時に「今夜はカレー」という言葉を聞いた時の朝のワクワク感が最高でした。
一人暮らしを始めてからは、いつでもカレーが選べるようになりました。今夜はカレーが食べたいな、と思えば学食で食べてもいいし、夜にどこかで食べてもいいし、自宅で作ってもいいし、いつでもカレーを食べられる、そういう生活でした。結婚して子供が出来て、今はこうやってLINEで「今夜はカレー」とお告げが来る時代になりました。やはりカレーに関しては、自分で選択するよりも「今夜はカレー」と告げられる方が幸せを感じます。なぜでしょうね。不思議です。
さて、そんなパワーワードを聞いた幸せな状態で書くのはアレなのですが、新型コロナに関する個人的な記憶をここに残しておこうと思います。ここから先にカレーは出てきませんので、カレー以外に興味の無い方は読み飛ばして下さい。
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私は理系の大学教員で、政治学は素人です。そういう前提条件があるのですが、今回のコロナ騒動でひとつ不思議に感じていることがあるので、ここに記録として残しておこうという試みです。
私は、日本は「公務員を減らせ」「公務員の給料を減らせ」「公務員は役立たずだ」と罵るヒトが多いという印象を持っていました。税金を納めるようになってからも「税金を取りすぎだ」「税金泥棒」「税金の無駄」などなど税金に対する文句を沢山聞いてきました。それはつまりのところ、みんなは「小さな政府」を求めているのだと思っていました。政府の関与するところを可能な限り減らして、かかるお金を少なくする。民営化にしろ、法人化にしろ、護送船団を辞めて政府の関与を少なくして、企業や個人の自由度や選択肢を上げていく。それが、この国の一般的な人達が望んでいるものなんだろうと、ずっと思ってきました。もちろん、社会保障費が半端なく増大したために小さな政府を目指しつつも増税せざるを得ず、関与する部分を減らす=自立できそうなところは自立してもらう、という側面から出てきた選択であったろうとも思います。でも、この20年間に見てきた聖域なき構造改革、大阪の橋本知事、新自由主義政策に対する世論の反応などを見てきて、この国は小さな政府を目指して少しずつ進んでいるのだろうと潮流を感じていました。
でも今回の新型コロナ騒動での世論を見ていると、今は「小さな政府」など誰も望んでいないのでは?という矛盾を感じています。民間も、地方自治体も、個人も、国が国が国が国が国が、の大合唱。それが正しいとか悪いとか言っているのではなく、そもそも皆が望んでいるのは「大きな政府」であって、護送船団なのではないかと感じたのです。さらに近年に勢いを高めてきている(ように感じている)平等主義を政府に求め続けたら、目指すところは社会主義になっちゃうのでは?と、なんだかモヤモヤする矛盾を感じたわけです。私は政治学は素人なので、きっと何かの思考プロセスが間違っているのだろうと思いますが、なんともいえないモヤモヤを感じました。うまく表現できているか分かりませんが。社会とは、こういう風に「大きな政府」と「小さな政府」の間を振り子のように振れていくものなのだろうか、とも思っています。
そういえば今回の新型コロナ騒動の途中で妻と喧嘩したことがありました。それは私の住む県でも感染者が出始めた頃です。毎日のように感染者の数が積み上げられている中で、妻が
「マスクの売っている場所を全て国が管理して情報をアプリで共有出来るようにして欲しい」
「海外のように新型コロナ陽性患者の行動履歴をアプリで共有して、自分が近づいたかどうかが分かるようにして欲しい」
「どうして日本はこんなに遅れてる?」
と宣うので、私がつい「本当に、本当に、それを望むの?」と聞き返したところからゴングが鳴り響いてしまいました。私は上記の作戦は個人も商店も国に管理されることを意味している、日本人は中国のことをあれやこれやと揶揄してきたのに掌を返すように国が全てを管理することを望むのはおかしいじゃないか、と反論したのですが、妻も譲らず「管理されなくても出来るはず」、やがては「非常時だから個人が管理されるのも仕方ない」と宣うので、
「じゃぁ、もし○○(←妻の名前)さんが感染した時は、全ての行動履歴を嘘偽りなく国に差し出すんだよね?」
と聞いたら「それは嫌だ」と答えるのです。そりゃ、嫌ですよ。誰だって自分のプライベートで知られたくないことの一つや二つはあるものです。ラブホテルに入ったとか、知らない他人の家で何時間も滞在していたとか、パートに行っていたのはウソだったとか、そんな履歴を出せるはずもないです。他人の個人情報は欲しくても、自分の個人情報は出したくない。矛盾だと思うのですが、これがグローバリズムという言葉に踊らされ続けた一般的な感覚なんだろうとも思ったのです。
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というように、今回の新型コロナ騒動で私が個人的に不思議だったのは、今まであまり大きな声とならなかった、こういう意見が平然と当たり前のように全面に出てくるようになったことです。これが、この国の未来にどういう影響を与えるのか私には分かりませんが、なんとなく、これを書き記しておきたいなと思いました。今度、古本屋で「1984」を買ってきて、本棚の妻のスペースにそっと置いておこうと思います。
さて、ここから先にカレーは出てきませんと言いつつ、もう一度カレーの話です。ここまで書いて「自分で選択するよりも「今夜はカレー」と告げられる方が幸せを感じる」理由がわかりました。それは一人じゃないからですね。思い出せば、結婚前後で妻と二人だけで暮らしていた時は私がカレーを作っていましたが、あの時も相当にウキウキしていました。思い出しました。やはり「愛する人や家族と食べるカレー」に幸せを感じるのですよ。間違いない。というわけで、今夜はカレーなのでウキウキしながら帰りたいと思います。