居ても良い場所(#シロクマ文芸部)
※少し修正しました。
「レモンからーい!」と顔をしかめ、いきなり大きな声で叫ぶ琴音。
琴音が握りしめているくし切りされたレモンを乱暴に奪い取り、「食べちゃダメ!」と、思わず手を上げそうになる。
心底怖いのは、私の中の凶器だ。
琴音は3歳の誕生日を迎えたばかりで、まだ完全にオムツも取れていない。なのにイヤイヤ期に突入したようで、服を着せるのもオムツを履かせるのも「ヤダッーー!自分でするー」と、一事が万事すんなりと済ませることが出来ない。毎日時間に追われ自分の事は二の次で、ほとほと疲れ果てていた。
だから休日のランチくらい、手抜きしてゆっくり外食で…といきたいところだが、母子家庭である私には子どもを預けるあても経済力もない。
とはいえ密室のアパートで、このまま二人きりでいたら息が詰まる。
少しでも育児ストレスを解消したくて、琴音を自転車のチャイルドシートに乗せ、海辺の街を目指し当てもなく走った。琴音も風を受けて移り行く景色を眺めることが嬉しいらしく大人しい。
どのくらい走っただろう、海辺の幹線道路沿いの小さな喫茶店を見つけ昼食をとることにした。
子ども連れなので、トイレに近いテーブル席に座る。
「琴音、何食べたい?」
メニュー表を見せると、「これ食べたーい」と、レモンタルトを指差した。ホイップクリームと、イチゴやマスカットなどの果物と一緒に、レモンのくし切りも添えられていた。
本当はスイーツではなく、オムライスやスパゲティのような食事を食べさせたかったが、これはダメと言うと琴音はきっと駄々をこねだすに違いない。
アアー モウ ナンデモイイ_____
静かに食事を楽しんで、浜辺で少し遊ばせたらアパートに戻ろう。琴音も疲れてすんなり昼寝をしてくれるだろうから、そうしたらつかの間の自由時間を手に入ることができる。そんな淡い期待を抱いていたところに、今まで味わったことがなかったレモンの酸味に琴音が驚いて「レモンからーい!」と騒ぎ出した。今までの鬱屈した育児のストレスで、レモンを奪い取る手に力が入り、きっと表情も幼子に向けるには強ばっていたのだろう。琴音は堰を切ったように泣き出してしまった。
ナニモカモ オシマイダ_____
琴音は一度泣き出すとなかなか泣き止まない。
他のお客さんたちの視線が気に掛かり、食事もほどほどに泣き止まない琴音を抱いて、お店を出ようと会計のレシートを手に取った時、店長らしきグレイヘアを綺麗に整えた女性が急いで走り寄ってきた。
そして手にしていたアイスディッシャーで、琴音のレモンタルトの脇にレモンシャーベットを盛りつけてくれた。
「すみません、小さなお子さんにはレモンシャーベットをサービスしているのを忘れていました」
現金なもので、シャーベットを見るなり琴音は泣き止み、私の顔色を伺いながら口に運んで食べ始めた。
メニューにはレモンシャーベットのサービスのことなど、どこにも書いてなかった。確かめるように女性に視線を向けると「私にも孫がいるんですが、ひとりで子守なんて無理です。誤魔化しながら、時に手抜きをしてやり過ごしています。でも責任のあるママは大変ですよね」
ありきたりな慰め言葉だ。その続きはきっと、いつまでもこんな時期は続かないわよとか、抱かせてくれるのも今のうちとか、そのうち笑い話になるわよとか____。そんな言葉は聞き飽きた。
「今日は良く来て下さいました。ゆっくりして行って下さいね。一人で頑張っている方は大歓迎です」
アイスディッシャーを両手で持ち、グレイヘアの女性は琴音に優しく微笑みながら奥の厨房へ戻って行った。
私は冷静を保つ為、食べかけのオムライスを食べようとするが、喉の奥で涙が咽び飲み込むことが出来ない。
私にひとつ、つかの間でも肩の荷を下ろせる安らぎの場所が与えられたような気がした。女性の言葉がゆっくりと体の中でぬくもりを増してゆく。
ココニ イテモ イイノカナ?_____
「美味しい」とニコニコ顔でタルトを頬張る琴音が、尚いっそう愛おしく抱きしめたくなった。