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生と死を支える

生と死

人は皆、死すべき定めであり、かつ死とともにある。60兆の細胞のうち、1日4千万もの細胞が生死を繰り返しているのであるから、人はみな生と死を同時に体験している。しかし、私を含めて多くの人は、死をわが身のこととして捉えてはいないであろう。身近な人の死が学びの契機にはなったとしても、死という"stigma"を真摯に受け止め、生き方を改めることができるのは少数派ではなかろうか。

医療従事者にとっての死とは

医療従事者にとって、患者を死から遠ざけることは最重要課題である。しかしながら、終末期を迎えた患者と対峙するとき、私たちの思考は鈍り感情は揺さぶられ無力感に打ちのめされる。萎えてしまった心自信のない姿を、患者・家族に露呈することに羞恥心を覚えることもある。患者から発せられる実存的苦悩に対して、返す言葉すらみつけられなかった経験はないだろうか。ここに、自らが死すべき定めでありながら、患者の死に直面することを避けたいという矛盾が顕現化してくる。

我々がなすべきことは、死に向かう過程を医学的に把握し、患者・家族へ伝え、朧気ながらでも自らの死生観を問い続け、我々の存在そのものが患者を癒しうることを想起し、それらを丁寧に実践することではないだろうか。米国の外科医アトゥール・ガワンデは、こう述べている。

医療従事者としての私たちの責任は人を人として扱うことだ。人は一度きりしか死ねない。死の経験から学ぶことはありえない。難しい話し合いに前向きに取り組む医師や看護師が必要だ。今まで見てきたことを伝え、来るべきものに対する備えを手伝ってくれるような専門家である。

答えの出ない問い

正解があることを前提に生きてきた我々は、答えの出ない問いに直面すると葛藤が生じる。しかし、拙速な解決を求めず、その問いに関心を抱いたまま宙ぶらりんの状態を維持することを25歳で夭折した詩人ジョン・キーツは「ネガティブ・ケイパビリティ」というポジティブな考え方へと昇華させた。この概念こそが、生と死を支えようとする我々を救ってくれるものではないだろうか。

良い死とは何か

我々にとっての良い死あるいは望ましい死とはなにか。臨床研究の結果からは、多くの日本人は以下のような場合に”good death”であると考えることがわかっている。

・苦痛がない
・望んだ場所で過ごす
・医療者を信頼できる
・希望や楽しみがある
・負担にならない
・家族と良い関係でいる
・自分のことが自分でできる
・落ち着いた環境である
・人として大事にされる
・心残りがない

しかし、ここで忘れてはならないことは、主役はあくまでも患者さんであることだ。医療人類学者にして禅僧でもあるジョアン・ハリファックス老師は、『Being with Dying』の中で以下のような警鐘を鳴らしている。

・良い死も悪い死もない
・死にゆくプロセスと共にあることは、ただ死にゆくプロセスと共にあるということ
・それぞれの人が自分なりの死を迎える
・どのように死んでいくべきかということにまつわる概念、考え、期待を手放す

死のメタファー(metaphor)

死は避けがたく、一度の人生で一度きりのものである。生きながら死へ向かう過程は、誰かに支えてもらわなければならない。そのプロセスをどこで誰に支えてもらいたいのか、時々は考えておくのも悪くはない。「縁起でもない」と退けたくなるのであれば、愛すべき故人は今どこにいて何をしているのかを思い出してみてはどうだろうか。自分なりの死生観を育んでおくことは、自分のためでも他者のためでも大切なことであろう。印象に残るメタファーは、明晰夢の研究者スチーブン・ラバージの言葉だ。なんとも言えない優しさに充ちたメタファーであり、"stigma"から解放されるような気がするのは私だけであろうか。

自分はずうっと落ちていく雪のようなもので、最後に海にポチャンと溶けて自分がなくなってしまう。そして最後に自分は海だったと思い出す。


大坂 巌(おおさか いわお)
社会医療法人石川記念会HITO病院 緩和ケア内科 部長。
1995年千葉大学医学部卒業。静岡県立静岡がんセンター緩和医療科(2002~2018)を経て、愛媛県で病棟、外来、在宅にて適切な時期に最適な緩和ケアを提供することを模索中。
社会医療法人石川記念会HITO病院
人が真ん中になると、医療は変わる。


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