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異彩の日に思う、鬱という“大人のたしなみ”が生む庭のかたちと傷の疼き

 今の社会で“鬱”を背負いながら生きること、もしくは一度もそれを背負わずに死ぬことは、結局どこへ行き着くのか。“ちがい”を語るとは本当に自分の傷を癒すことなのか、開くことなのか。「庭の話」に出てくる庭のような場所を、どのように守り、どのように育むのか、そんなことを中動態を軸に考えながら後世への最大遺物のために。

「鬱は大人のたしなみ」 - 世界の不条理を感受する力

 ライブやアートには、人々を一瞬にして熱狂させたり感動させる力がある。しかし、その魅力的な光の裏には、多様な影や見えない情景が織り込まれているのも事実だ。多くのライブを観ていて、昔は演じていて、そしてアートと触れて感じることは「鬱になったことのない人間の表現には限界があるのでは」という漠然とした感覚だった。

先日教えてもらった、リリー・フランキーさんが言う「鬱は大人のたしなみ」とは、単なる気分の沈みではなく、世界の不条理を過剰に感知できる情緒と精神の豊かさを指すのではないだろうかと思う。豊かさ。

「鬱は大人のたしなみですよ。それぐらいの感受性を持ってる人じゃないと俺は友達になりたくない。こんな腐った世の中では少々気が滅入らないと。社会はおかしい、政治は腐ってる、人間の信頼関係は崩壊してる、不安になる。正常でいるほうが難しい」

リリーフランキー 吉田豪のインタビューに答えて

この言葉は、世間の感覚を基準としてしまえばある種の「逆説的な成熟」を示唆している。もし腐敗や歪みを覚えるほど社会や政治や自分の身の回りが劣化していると感じるなら、敏感な人ほど気が滅入るのは至極当然だろう。それどころか、何も違和感を覚えずに「正常さ」を貫いている人間のほうが、実は歪んでいるのではないかという逆説が浮かび上がる。不条理に対する無関心、もしくは不動心こそが、むしろ危険であることもあり、中長期的なその人の環世界の存続を破滅へと追いやる要因になり得るのかもしれない。

こうした視点に立てば私も経験した「鬱」という状態は、社会の歪みや不条理を正確に捉える感受性の副産物なのかもしれない。つまり、世界の痛みに共振する力であり、それが倫理的問いの火種となることもあるからだ。しかし、これは経験したことのある人間にしか分からないし、なって良かったという単純な話でも二元論な結論もない。岡潔の言う「情緒」の豊かな人間というように自分は捉えているが、それが世間の病理に冒されやすいというなら人は「正常でいる」ことを自然に求めているようにさえ思えてしまう。

"ちがい"を語ることと、傷を開く行為の倫理

 今日は「異彩の日」(一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録とのこと、おめでたい)。翻って、二度と仕事としては関わらないかもと思いながらウォールデンの森を出たつもりが、偶にまたその森でまたスティグマと闘う程にはHERALBONYとそこに存在するアートと尊敬する作家さんたちと私も共にあろうとしています。同時に異彩という言葉を(言語で世界を知覚している我々の環世界では言語に意味を常に求めてしまう中で)考える日になりながら、その問いはリリーフランキーさんの言葉のように反芻されつつ。

それは、「誰も正常でない」社会で「正常さ」を求めてくる病理とどう闘うかを、今私がいる森のように技術ドリブンで突き破るものよりやや哲学的だからでしょうか。誰もがそれぞれ抱えているはずの「ちがい」を、わざわざ説明しなくても通じる場所があったらいいのにと思ってしまうことがある程度には世の中は正常でいられない場所だと思います。

異彩の日に綴られた尊敬する人の手記を読んでいて、家族を誇りに思っていた幼少期の記憶が、後に社会的なまなざしによって揺さぶられていく様が描かれていた。私自身の「鬱々しさ」とは少し異なる物語だが、そこには「社会の偏見が生む痛み」という共鳴点が存在する。それが「障害」という「違い」であるということらしい。

ぜひたくさんの人に、毎年この日「異彩の日」が、過去の記憶や感じていることを掬い上げて軽やかに表現できる日になったら嬉しいです。

異彩の日の手記にあったあとがき

ここで問われるのは、「ちがい」とは個に属するものなのか、それとも関係性のなかで生成するものなのかという根源的な問題だ。「私の違いはこれだ」と公言する時、同時に自分の傷の所在を宣言しているようにも思う。それはときにアイデンティティの誇りであり、また痛みそのものを開示する行為でもある。そして当たり前だが「ちがい」は他者がいなければ成り立たない価値観であり、他者の環世界を覗ける人間こそが感じられるものだ。

「ちがい」は、個の内面に閉じて完結する性質のものではなく、規範や権力といった社会の構造によって絶えず定義され、作り変えられる。フーコーが論じたように「正常性」を作り出すのは社会の規範であり、そこから外れたものを「異常」として異質化することで権力が機能する。それゆえ、「違い」を語り、公言することには倫理的責任が伴うように感じつつもそれを言葉の再定義として異彩と捉えられることは興味深い。

「私はこういう違いを持っている」 - この言葉は、単なる属性の表明ではなく、「自分はどこで痛みを背負い、どこに居場所を見出すのか」を世界へ問う行為かもしれない。その勇気ある開示が、他者にとっては同時に挑戦にもなり得る。「傷」の所在を可視化することこそが、「ちがい」を語ることの本質ではないかと思っている。

スティグマから歴史を遡り、「痛み」を言葉に変える行為

 当事者の痛みは、ときに自己の枠を超え、歴史へと連なる可能性を持つ。人は家族や仲間の「存在」を守れなかった無念を抱え、それを後悔だけでなく問いとしても引き受けなければならない場合がある。そうした「倫理的な課題」は、必ずしも個人の内面に留まらず、他者や社会への問いとして表出する。その問いと闘おうとする人たちが集うときに面白いものが生まれる。ここに庭の存在を思い出すのだ。

スティグマの超克とは、「沈黙の領域」に埋もれていた痛みを公的に言葉として転換し、歴史へ編み込む行為にほかならない。語ることで傷は再び疼くかもしれないし、他者の視線によって痛みが再生産される恐れもある。それでも、人は語らざるを得ない。語られない痛みは、存在しなかったことにされ、社会のどこからも認識されなくなってしまうからだ。

だからこそ「語りにくい傷」を言葉にすることは、社会や文化の「歴史」に接続する行為でもある。それが、当事者が自らの痛みを超克し、新たな物語を紡ぎ出すための鍵となるのではないだろうか。そうしたことを毎日やっていればそれは私がどん底を経験したように、リリーフランキーさんが言うような「大人のたしなみ」を自然と通っていくのだろう。

公共と私的の余白としての痛みを語る「庭」

 このような苦痛や当事者性を共有し合う場として、私は「庭」という宇野さんの提起するメタファーを持ち出したい。村社会のように凝り固まったコミュニティでもなく、かといって完全に公共性が行き届く空間でもない。あくまで私的な部分と公共的な部分が折り重なり合う「中間的な領域」としての「庭」である。

この「庭」はメルロ=ポンティの「知覚の現象学」の論点を思い出させる。身体は世界と相互作用しながら意味を獲得していく。同じように、痛みもまた他者との関係のなかで共有され、社会的に形を得る。たとえば、家族の障害について率直に語れたり、トラウマを告白しても凍りつくことのない空間があるとする。その場所が機能することで「痛み」は孤立を免れ、「語り得るもの」へと変わる。その上でそれが人間同士の環世界で成り立つものでもなく、そこに自然があり、手仕事があり、モノやコトも存在する。告白する相手が人間でなくても良い様々な環世界が絡み合ったり離れたりする場所。それが私がいう「庭」の具体的イメージになっている。

正常でいられない情緒を火種として灰になり続ける

 鬱や痛みといった存在は、世間一般の歯車に乗り続けていると一見ただの「不幸」と映りがちだが、実は人間や根本的な関係性を変える「火種」となり得ると思う。身体は永遠ではない以上、限られた時間の中で新たな言葉や行動、記憶をアートへと昇華することには大きな意味がある。そこで残される「鬱」や「痛み」や「傷」は、後世への最大遺物として、倫理的感受性を継承する可能性を持っているのではないだろうか。敢えて関係性を捉えて「ちがい」を言語化するのであれば、それは「大人のたしなみ」にまで至る程考えて、感じ、行動し、孤独を覚え、ロドスで手を差し伸べられてまた関係性に戻るその繰り返しをしなければ見えないものがある。

社会が腐っていると嘆くだけではなく、「生きているだけでいいよ」と本気で言える場がどれほどあるのかを問い続けたい。違いを語ることの痛みも含めて引き受ける「庭」の存在があるなら、鬱々とした感受性は決して暗闇で終わらないだろう。むしろ、それこそが誰かの環世界を変える一つの行為になり得る。「ちがい」を受け入れられない人間も全て愛しながら、誰にも期待せず、大人のたしなみを理解できない人間とは傷つけ合いながら、それでも一年に一回くらいは誰かの「ちがい」を、規範や権力といった社会の構造によって絶えず定義され作り変えられてきた一つのスティグマとして、憑依させることができればそれは豊かだろう。

だからこそ、語ることには意味がある。傷が疼くとしても、私たちは言葉に乗せる。そのときに必要なのは、誰かが聞いてくれる“場”であり、必ずしも人間だけが聴衆でなくてもいい。森や音楽、アートや植物など、さまざまな環世界と接しながら痛みを形にしてゆく。私がときどきライブを思い出すのは、ステージ上で声を張り上げたり音を刻んだりした瞬間と真剣に相対する瞬間に、自分の内部に潜む不条理と対峙できる気がするからだ。

いつかまたライブをする日も想像しつつ、最近は音楽を作ったりレコードを再生しながら物理的な波動としての音を享受し、その中で植物との関係性の中だけで昔の人と本というメディアを通じて対話する日が多い。

今日は前述した「あとがき」を眺めながら、MUKUというタイトルでアルバムを組み立ててみる。そこには規範や権力や鬱陶しい他者の正義感も入らない淡々とした機械的な営みがある。「」で言葉を括るやつは嫌いだという誰かのどこかの言葉を思い出しながら、その「ちがい」すらも許容できない人間が「大人のたしなみ」を覚えた時に庭を作れるだけの人間ではありたい。

「鬱」を感受性の証しとして、大人のたしなみの一つと呼ぶなら、それは何かと折り合いをつけたり、何も感じないふりをしたりする態度とは正反対だ。理不尽や悲しみ、荒んだ政治、崩壊しかけの人間関係… そうしたものに対して、無意識に蓋をしないでいようとする決意ともいえる。辛いけれど、そこでこそ私たちの“情緒”が活かされる。少なくとも私は、この情緒に支えられてきた。

誰に向けた文章でもないが、もしこれを誰かが覗き込むことがあれば、「そんな感受性があるなら、あなたは十分に大人なんだ」と伝えたい。あるいは、自分自身に対してもそう言いきかせたいのかもしれない。

違いを受けとめ、憂鬱すらも糧とする成熟こそが、「大人のたしなみ」なのではないだろうか。それこそが豊かさだと私は思う。

豊かなちがいを受け入れる、それだけでいい。
そして、それだけでは足りない規範の中で闘っていく。
情緒が鬱を引き起こすなら、私は大人のたしなみを誇りたい。

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