見出し画像

エンタメ異人伝 Vol.4 坂口博信 

坂口博信 知られざる少年時代


黒川ーーまず、ご出身のお話からうかがっていきたいと思います。ご出身は茨城ですね?

坂口 そうですね、茨城の日立市。両親は九州の出身です。おふくろは鹿児島県の知覧(ちらん)町っていう特攻隊基地があったところ。親父は熊本県の人吉市です。漫画家の井上雄彦さんが人吉の隣町の八代(やつしろ)市出身で、後の仕事でちょっと役に立ちました。やっぱり隣町っていうと、それだけで親近感がわくようなところがありますからね。両親が茨城にいたのは親父が日立製作所に勤めていたからです。その関係で僕も茨城で生まれ育ったという感じですね。

――日立という町は坂口さんにとってどんな場所でしたか?

坂口 う~ん、一番は海が近かったことかな。あそこは大洗とか平磯とか、けっこう有名どころの海岸があるじゃないですか。当時はウニとか普通にいたから獲って焼いて食べてました。僕の住んでいたところも駅の裏側が海で、よくひとりで行っていましたね。

――子供時代に特に好きだったものとか印象に残っていることはありますか?

坂口 マグロが好きでしたね。スーパーの隣に屋台みたいなのがズラーっと並んでいるんですよ。そこで労働者風のおじさんたちに交じってマグロ寿司を買って食べていました。

――そんなところにひとりで行っていたんですか?

坂口 おふくろが「(買い物をしている間)何かしていなさい」って言って、200円くらいだったかな? お小遣いをくれるわけです。で、スーパーの入口で分かれて、ひとりで200円を握りしめてオヤジたちをかき分けて「マグロくださーい」と。当時は2貫で50円だったので4回頼めるんです。それが好きでしようがなかった。「マグロのお寿司とお茶ってなんて合うんだ……」なんて思いながら食べていましたね。

――そんなことをされていたんですか。

坂口 やっていましたねえ、小学校1年生くらいの頃から。スーパーの名前が「供給」っていうんですよ。面白いでしょ? 多分、日立製作所が運営管理していたんじゃないかな。

――その頃に坂口さんの後々のクリエイティビティに影響を与えるようなものはありましたか? 例えば、ご両親に映画に連れていってもらったとか。

坂口 親父がよくカンフー映画に連れていってくれましたね。ジャッキー・チェンはおろか、まだブルース・リーも出てきていない頃です。カンフー映画が流行する前の超マイナーな作品で題名は忘れちゃいましたけど、内容は今でもよく覚えていますよ。豹とか鶴とか虎とか、いわゆる少林寺の型みたいなのがあるじゃないですか。それぞれの型を使う流派が4つくらいあって、その流派同士が戦うみたいなヤツです。

――その時代にそういう映画を見ていた人はすごく少ないと思いますよ。

坂口 多分、親父が好きだったんでしょうけど…、あんまりいないですよね。あれは楽しかったです。あと、僕は地層が好きで。茨城って地層が剥き出しになっている場所がけっこうあるんですよ。そこに行って掘ると、方解石(ほうかいせき)というちょっと水晶に似た石が出ることがあったんです。ただ、小学生が地層に来てひとりで石を掘っているなんて、一見しておかしなヤツだったんでしょうね。研究所の所員みたいな人が、僕を見つけると声をかけてくるんです。「ボク、ボク~、何やってるの~?」みたいなね。で、こんな石がいっぱい取れるから楽しいんだって言うと、「それ、方解石じゃないか。おじさんね、ちょっとそれが必要なんだ。次にきれいな石を持ってくるからね、それと交換しよう」って。

――え~、そんなことを言う大人がいたんですか。

坂口 そう。でも、本当に必要だったんだと思いますよ。それで、毎回石の標本を持ってきてくれるんです。水晶とか紫水晶とか、そんなに高いやつじゃないですけどね。方解石の大きさに応じて、その中から1対1とか1対2とかで交換して。そうやって石のコレクションをしていたんです。

――そういうこともおやりになっていたんですか。面白いことをされていましたね。

坂口 石が好きで好きでしょうがなかったですよ。昔、でっかいお米の袋があったじゃないですか。あれに貯めていくんですよ。玄関の物置みたいなところに置いていたんですけど、おふくろにしてみたらジャマでしょうがなかったんでしょうね。ある日突然消えていました。「僕の石どうしたの~」、「宝物なのに~」って泣き喚いたのをよく覚えています。

坂口氏のオフィスにて

■授業をサボってゲームとパチンコ三昧

 ――ゲームとかデジタルに関わるようになったのは高校生くらいからでしょうか?

坂口 そうですね。ちょうど「スペースインベーダー」が出たころかな。もちろん、熱中していましたよ。授業をサボって喫茶店に通って。『平安京エイリアン』(注1)とかもやったなあ。

注1)碁盤上の迷路で落とし穴を掘り、エイリアンを埋めることで倒していく。東京大学の科学サークルが1979年に開発したゲームでインベーダーゲームとともに人気となった。


――その頃、パチンコにもハマっていたとお聞きしましたが。

坂口 パチプロについて教わってね。まだパチスロなんかない時代で、しかも、コレ(手打ち)ですからね。確率じゃないから技術で出せるんです。1日平均5000円くらいは稼いでいたと思いますよ。そのお金で喫茶店に行って、おいしいコーヒーを飲んで『平安京エイリアン』をやって、映画を2本くらい見てっていうすごいリッチな高校生活をしていました。

――そもそも、そんなパチプロさんとどこで知り合ったんですか。

坂口 だって毎日パチンコ屋で顔を突き合わせていましたから。毎朝並んでいると「なんだ、高校生じゃないのか?」って声をかけられて、「いや、違いますよ」なんて言って。一応、私服の高校だったからバレなかったですけどね。そうすると「面白いやつだなあ」、「教えてやろうか、オレが」ってなっていくわけですよ。

――毎日パチンコ屋に行っていたんですか。学校はどうされていたんです?

坂口 午前中は代返を頼んで午後から(笑)…。で、午後の授業が終わったらパチンコで稼いだお金を持って喫茶店に行って、映画を見て家に帰るみたいな。ヤバいよね。

――よく単位を取れましたよね。

坂口 ギリギリでしたよ。英語と化学で赤点を取ってあわや留年かってときがありました。先生に呼び出されて「お前どうすんだ」と。「すみません、もう1回やらして下さい」って言って、勉強して何とか点を取るみたいな。いや~、ヤバかったですよ。水戸一高というところに通っていたんですけど、そこは茨城で一番厳しい学校だったんですよ。制服がないとか、ユルいところはユルいんですけどね。

■バンド活動に熱中のあまり、退学の危機に…

――よくヘンな道にいきませんでしたね。

坂口 音楽、バンドでプロになるという夢がありましたからね。自分で作詞作曲して、いわゆる「サザンオールスターズ」的な存在になりたいと。当時はポプコン(注2)やEastWest(イーストウエスト)(注3)といったアマチュアミュージシャンのコンテストがあって、自分にもチャンスがあるんじゃないかと思ったんですよ。

注2)ヤマハポピュラーソングコンテストのこと。プロへの登竜門となっていた有名なコンテストで中島みゆき、八神純子、世良公則&ツイストなど多数の有名ミュージシャンを輩出した。

注3)同じくヤマハが主宰していたアマチュアバンドのコンテスト。サザンオールスターズ、シャネルズ、爆風スランプなどを輩出した。

――僕も同世代なのでよく分かります。中島みゆきとかサザンとか。チェッカーズとコンテスト出身でしたね。

坂口 もちろん、高校生でいけるとは思わないですけど、今からやっていれば大学で何とかなるんじゃないかと。そういう夢があったので、高校の後半は音楽ばっかりやっていたんですけど、練習しなきゃいけないからスタジオ代がかかるじゃないですか。ライブの会場代も必要になるし、楽器も買わなきゃいけないし。ちょっとこれは(お金が)回んないなと思ってライブを有料にしたんですよ。そうしたら、やっぱり高校生だから学校で問題になっちゃいましてね。あやうく退学になるところでした。

――問題になったということは、それだけお客さんが来たってことですよね。

坂口 けっこう来ましたね。隣の女子高の学園祭で自分のチケットを売ったりしましたからね。でも、そうしたら隣の女子高でも問題になっちゃって(笑)。「ウチの学園祭に来てチケットを売ったヤツがいる」…って。

――面白いですね。坂口さんは仕事のときと飲んでいるときで、テンションが全然違いますけど、そういうハジけている方が素顔に近いんでしょうか。

坂口 いやいやハジけていたわけじゃないです。真剣だったんですよ。真剣にスタジオで練習してライブをやって。別にチャラチャラしていたわけじゃなくて、本気で金が足りなくなったから有料化したわけです。じゃあ、どうやってチケットを売るかって考えたら、やっぱり学園祭とかの浮かれているときが一番売れるわけじゃないですか。だから、ビジネスなんですよ。いたって真面目、超真面目な話だったんです。目標はポプコンに出てプロですから。

――なるほど、いたって本気だったんですね。担当はギターとボーカルとかですか?

坂口 ギター、ピアノ、ボーカルですね。おふくろがピアノが大好きで、小さい頃から強制的にやらされていたんです。で、中学の頃におふくろと一緒にエレクトーンに転向して。あれが良かったですね。エレクトーンってコード進行を覚えるじゃないですか。あれで音楽の基本的な仕組みが分かって作詞作曲ができるようになって、それで楽しくなっちゃったんですよ。音楽って作れちゃうんだと思って。あれは面白かったですね。

――高校卒業後、一浪されたんですよね。

坂口 そりゃ、そんなことをしていて大学に入れるわけがないでしょ…。(笑)

ほぼほぼ音楽活動とパチンコと、あと映画と喫茶店でゲーム? そんなので大学に入れたら苦労しないですよ。

――でも、そのときはそのときで普通に大学を目指していたわけですよね。

坂口 いや、入れないと思っていたけど一応受けてみただけです。あのときはどこを受けたかなあ……やっぱり横国(横浜国立大学)だったような気がします。まあでもボロボロでしたよ。

――そうですか。では、一浪して予備校とかに行かれたんですか?

坂口 いや、予備校は行かずにずっと1年間、図書館でひとりきりで勉強していました。今でもそうですけど、なんか嫌いなんですよ。教室とか大勢で群れているのがイヤなんです。スクウェアを辞めたのもそこら辺が理由のひとつにあったと思います。だから、今のミスト(ウォーカー)も規模は小さいでしょ。

――そういえば、東京の大学ではなくて横国を選んだのは、東京に知り合いがたくさんいて、それに巻き込まれたくなかったからということをおっしゃっていましたね。

坂口 そうそう、それと一緒ですよ。仲間たちとツルみだすと、なんかそれが面倒くさくなる。そういう性質なんでしょうね。

■横浜国立大学と田中弘道との出会い


(写真 右 田中氏・左 坂口氏)

――では、横国に行かれてからはどうでしたか?

坂口 最初の2年間は音楽をやっていたんですが……まあ、ダメでしたよね。そんな簡単にいくもんじゃない。

――軽音楽部みたいなクラブに入っていたんですか。それとも個人活動でしたか?

坂口 高校時代の友達がたまたま湘南に住んでバンドをやっていたので、そこに参加する感じです。横浜の駅前に音楽教室みたいなのがあって、アマのミュージシャンのたまり場になっていたんですよ。そこにちょっと遊びに行って、たまに一緒に組んでみたいなことをやっていたんですけど、うまくいかなかったですね。自分のテクニックとか、その……分かるじゃないですか。無理かなって才能的にね。

――では、そこからゲームの方にバランスが移っていったわけですか。

坂口 田中弘道(注4)と大学でクラスメイトだったんですけど、僕のウチには風呂がなくて、ヤツのところにはあったので入りびたっていたんです。すると、あるときヤツの部屋になんか見たことのない「アップルII」の海賊基盤が置いてあって、「何これ?」となったわけです。それで、面白そうじゃんとなって「俺も作りたい」と。で、秋葉原に買いに行ったわけですが、どこで買おうかなあとか言っていたら田中が「ダメだよ、坂口。もっと裏通りに行くぞ」って。

注4)坂口氏とともに『ファイナルファンジー』シリーズなど数多くのゲーム開発に携わってきたゲームクリエイター。現在はガンホー・オンライン・エンターテイメント所属。

――もっと安いところに行くっていうことですか?

坂口 そう。安くていいのを売ってるところがあるからって。当時の秋葉原はジャンク屋みたいなパーツ店だらけで、ちょっといかがわしい感じでしたから。表の店で5000円のものが裏では「現品限り500円」とかね。コンピューターってそういう世界なんだと思ったら楽しくなっちゃってね。

――ちなみに、田中さんとはどういう流れで友達になったんですか?

坂口 ヤツも浮いていたというかね…(笑)。ひとりきりでポツンとしていて、僕もそんな感じだったんですよ。大学っていわゆる先輩たちの過去のレポートをコピーしてきて、回し見して上手く良い成績を取る連中っているじゃないですか。でも、僕と田中は完全にはぐれていたのでそういう情報がない。で、「どうする俺たち?」みたいな感じで仲良くなったんです。

――そんな経緯だったんですか(笑)。それで、田中さんのところでPC、マイコンの手ほどきを受けて秋葉原に買いに行って自分でも揃えたということですね。

坂口 そうですね。パーツを揃えて自分で作って。ソフトも手に入るから、そうなると家にこもっちゃいますよね。エクセルの前身の「VisiCalc(ビジカルク)」(注5)とか面白かったですよ。それまで表計算なんてものが世の中に存在することすら知らなかったですから。それが、自分の家のパソコンでできちゃう。もちろん、すごい原始的ですよ…でも、多分これを日本で今知っている人はそんなにいないなって思うじゃないですか。しかも、僕らはアメリカの違法のものを手に入れていましたからね。当時はそっちのほうが情報が早かったんですよ。それでなんだか余計楽しくなっちゃいまして。

――やっぱり、そうなっちゃいますよね。

注5)1979年にアップルII向けに発売された世界初のパソコン向け表計算ソフト。


■スクウェアの前身 電友社にアルバイト入社


坂口 人工知能のLISP(リスプ)(注6)もあの頃アップルで動いたんですよ。リンゴとかオレンジとかを関連づけていくと人工知能になっていって、「リンゴは果物だよね」「あっ、他の果物、オレンジもあったよね」って勝手に言い出すの。簡単な人工知能なんだけど、それがまた面白くて。ゲームも『ウィザードリー』が来て、『ウルティマ』が来て、アドベンチャーゲームが来て。そういうソフトが次々に出てくるから、毎週カルチャーショックみたいな感じでした。当時はC言語もあまり知られていなかったですしね。学校ではまだフォートラン、コボル(注7)ですから。

注6)1950年代に登場したプログラミング言語。人工知能の研究・開発用として長年にわたって利用されてきた。

注7)どちらも最初期のプログラミング言語。

――ガチャガチャっとパンチングシートを読ませるみたいな感じですよね。

坂口 そう。こんな巨大なマシンが五ケタの足し算を15分かけてピロピロって答え出す。で、先生がすごいだろっていう。ヘタしたら大学教授ですらC言語のことを知らない、知ってはいても普段使っていないような時代でしたからね。だから、大学で授業を受けていて「バカじゃないの?」って思っていましたよ。時代はC言語だろって。そういう特殊な状況になると面白くなっちゃうじゃないですか。C言語を使える俺ってすごくねえ、みたいな。

――そうとうのめりこんでいたんですね。ちなみに大学での専攻は何だったんですか?

坂口 電子情報工学。いわゆる「弱電」(注8)系ですよ。それと、プログラミングを簡単に。当時はまだできたばかりだったんじゃないかな。だからフォートランみたいな原始的なことしかやっていなかったです。

注8)通信・エレクトロニクスなどを扱う電気工学部門の俗称。いわゆる発電や送電などに属する技術のことは「強電」という。

珍しい電友社時代のスナップ(前列向かって右2人目が田中氏、3人目坂口氏)

――その頃に電友社(注9)にアルバイトとして入ったんですよね。どうして電友社に入ろうと思われたんですか?

坂口 単純にお金が欲しかったの。だいたい僕の場合、「カネが欲しい」から始まる(笑)。とにかく、アップルの部品とか買うのにお金が足りないんですよ。いくら非正規品とはいっても、やっぱりある程度はかかりますから。それで、自分たちのスキルを活かせるところでバイトしようと。ナムコとかコナミとかもありましたけど、学生でアップルIIをちょっといじっただけの人間が、そんなところに行ったって相手にされるわけはないですからね。経験もまるでないわけですし。だから、求人誌で事務員募集をしていた電友社を見つけて。立ち上がったばかりのゲーム機器をレンタルする会社です、みたいな募集告知でね。

――電友社は最初はそういう会社だったんですか。

坂口 そうそう。美容室を居抜きで借りて、そこに当時のパソコンを並べて。日吉の慶應のすぐそばなんで、慶應の学生が来るだろうとオーナーの宮本さん(注10)は考えたんですね。優秀な子たちがたむろするようになったら、なんか作ろうぜってなるんじゃないかと。まず、そのたまり場を作ろうっていう会社だったんですよ。でも、慶應の学生はひとりも来なかったという(笑)。

――鈴木尚さん(注11)は違うんですか?

坂口 鈴木さんはプログラマーじゃなくて営業マンだから。そもそも彼は元BPSでヘンク(注12)のところで働いていたんですよ。それで光栄(現コーエーテクモゲームス)に行ったんだけど、宮本さんに誘われて電友社に入ったんです。だから、当時日吉を歩いていて光栄の襟川恵子(注13)さんを見かけたら鈴木さん「ヤバい」って言って隠れていましたよ。

注9)スクウェアの前身。1983年に徳島県の電気工事会社・電友社のソフト開発部門として設立された。

注10)株式会社スクウェア(現スクウェア・エニックス・ホールディングス)の創業者。1986年から91年まで社長を務めた。

注11)スクウェア創設メンバーのひとり。同社社長・会長を歴任し、デジキューブ設立などを主導した。

注12)ヘンク・ブラウアー・ロジャース。オランダ生まれのゲームクリエイターで『ザ・ブラックオニキス』などを手掛けた。

注13)ゲームクリエイターのシブサワ・コウこと襟川陽一氏の妻で現コーエーテクモホールディングス代表取締役会長。

――鈴木さんはそういう経緯だったんですね。それは知らなかったです。じゃあ本来見込んでいた慶應の理系はほとんど来ずに、坂口さんと田中さんとで……。


電友社でのゲーム開発は「デス・トラップ」から始まった


坂口 あと加藤君っていう、すごいバイク乗っている高校生の子がよく店に出入りしていたので、彼はちょっと変わった、天才プログラマーなんですよ。それで、絵描きさんは募集をかけて。それで作ったのが1作目の『デス・トラップ』です。

――それだけの少人数でよく作れましたね。

坂口 アドベンチャーゲームですからね。どういう仕組みで動いているかはコピープロテクトを外して解明していましたから。

――またすごい話になってきましたね(笑)。

坂口 いや、だってプロテクトを外さないと海賊版が手に入らないじゃないですか。それに、そういうハッキングをやっているうちに内部構造が分かってくるんですよ。全部16進数でダンプ(注13)していて、「ここはプログラムだ」、「ここはデータだ」とか。で、ディスクは「セクター」といって何層かに分かれているんですけど、ときどきそこの何層目かに「クッ」って読みにいったりするんですよ。なので、フタを開けてそこに方眼紙を貼って針の動きを見るんです。

注13)必要なデータをファイルや画面などにまとめて出力すること。

――なるほど~。

坂口 方眼紙を貼らないと正確に分からないですからね。で、「今、セクター12を読みにいったよね、田中」、「行った、行った。12調べてみよう」なんて言いながら調べてみたらコードが書いてある。それで、そのコードを消すとコピーできるようになるんです(笑)。

――すごい! そういうことをやられていたんですか。いい時代でしたね。ちなみに、大学はどうされたんですか?

坂口 当時、国立は8年までしか在籍できなかったんですが、一応、籍は残していました。その頃はまだゲームデザインなんて言葉はなくて、ゲームはアルバイトが作るか、あるいはエニックスがやっていたコンテストみたいなもので当選した作品を商品化するか。チュンソフトの中村光一さん(注14)の『ドアドア』なんかそうですね。つまり、プロの作り手が存在しない時代だったんですよ。実際、「ゲームを作って食っていく」と言ったら、親父やおふくろも「はあ?」って感じでしたから。「それ、職業じゃないでしょ。あんた一生アルバイトで暮らすつもり?」みたいなね。

注14)サウンドノベルシリーズや『トルネコの大冒険』などを手掛けたゲームクリエイター。現株式会社スパイク・チュンソフト代表取締役会長。

――そんな話をされたていたんですか。

坂口 しましたね。でも、そんなの許してくれるわけないじゃないですか。ですから、留年する形で一応籍だけは残して。ゲームを作って暮らしていくっていうのは無理かなと自分も少し思っていたわけですよ。だから、いつかもう1回大学に戻って勉強し直すというのもアリかなと考えていましたね。とはいっても、後半はほとんど行っていなかったです。『デス・トラップ』が出たら、次へ次へとなってビジネスになっていきましたからね。

――電友社がある時点でスクウェアになったわけですか。

坂口 もともと電友社はオーナーの親父さんの会社だったんですよ。四国電力の子会社に電友社っていうのがあって、電友社スクウェアはその東京支社みたいな形だったんです。だから、立ち上げ時は四国銀行さんがメインバンクだったんです。それで、ある程度目途がついたので四銀からお金を借りて宮本さんが自分で立ち上げたんじゃなかったかな? その段階で電友社スクウェアが株式会社スクウェアになったわけです。

今改めて明かされるスクウェア社名の由来とは

――なぜ「スクウェア」という名前になったんでしょうか。

(写真前列 左現ガンホーOE人見氏、シリコンスタジオ梶谷氏 後列左 現ガンホーOE田中氏)

坂口 これがもう最低なんですよね。(笑)

当時の社報とかにはオーナーが「みんなが集まるスクウェア」を意味するとか書いてあるんだけど全然違いますよ。僕が「なんでスクウェアって付けたんですか」って聞いたら、「ああ、俺なあスクウェアグリップ(ゴルフクラブの握り方のひとつ)やねん。自分の好きなグリップだから“スクウェア”」みたいな(笑)。それ、社報に書かないんですかって聞いたら、「恥ずかしいから、ちょっと違うのにせえへん?」とか言うので、「じゃあ広場とかにしちゃいますか」、「いいね。そういうことにしとこうよ」って。だから多分、社名にはなんの思い入れもなかったと思いますよ。

――ホントですか? そうなんだ。すごいエピソードですね、それは。

坂口 そんなもんですよ、当時は。

ここで同席していたミストウォーカーの広報氏がウィキペディアの記事をチェック。そこにはスクウェアの社名は「スクウェアグリップ」に由来していて「ゴルフでは飛球線に対して90度に正対している状態を指す。問題に対して逃げ腰ではなく、直視していく企業体を目指す意味で名付けられた」と書かれていたのだが……。

坂口 そんなことオーナーから聞いたことない! ウソだよ、全然違うよ。「僕が好きなのはスクウェアグリップや~」って言っていたもん!

電友社時代からスクウェアへ歴史の変遷

――ハハハハ。でも、その当時からどんどん横に広がっていったわけですよね。例えば、田中さんは一緒にアルバイトをしていたわけですし、植松伸夫さん(注15)も音楽を作れる人がいると紹介されたんですよね?

注15)『ファイナルファンタジー』シリーズや『クロノトリガー』などの音楽を手掛けたゲーム音楽作曲家。

坂口 そうですね。当時雇っていたグラフィックカーのひとりが植松さんと知り合いで、たまたま日吉で音楽活動をしていたので紹介してもらったという感じですね。植松さんも音楽では食えていなくて、レンタルレコード店でバイトするみたいな生活をしていたんで。

――その頃の営業的なことって鈴木さんが担当されていたんですか? 

坂口 いや、宮本さんよりも年上の斎藤さんという方がいらしたんですよ。その斎藤さんがナンバーツーで鈴木さんがその部下という感じです。車の販売をやっているヤナセにいたバリバリの営業マンでね。その斎藤さんと宮本さんが任天堂や問屋さんとの交渉をしていましたね。

――そのあと、会社が日吉から銀座に移ったわけですよね。場所柄がまた全然違いますけど何か思い出はありますか。

坂口 銀座は近くに御飯を食べるところなかったから、銀座松屋の上のレストラン街とかに行っていたんですよ。銀座アスターとか入っていて、けっこう安くて美味しかったの。でも、僕らみんな汚い恰好をしていましたからね。しかも、徹夜しているから臭い。そんな異臭を放つ短パンTシャツサンダル軍団が、「どうするよメシ」とか言いながら銀座の街を歩いているわけです(笑)。だから、銀座のマダムたちが「アンタたち何なの?」って顔をするんですよ。

――それは確かに浮きますよね。

坂口 当時のオフィスは東銀座駅を階段を登ってすぐのところ、昭和通り沿いにありましたからね。裏に行けばすぐ歌舞伎座で、表に出ればもう銀座のメイン通りですよ。行き場がない(笑)。

――それは回りからしたら違和感ありますよね。

坂口 ありますよねえ。僕らも意味不明だったもんね。「なんでここ?」みたいな。

――やっぱり当時はそんな感じだったんですか。泊まり込みとか徹夜とかして……。

坂口 そうですね。当時はビーチベットを使っていました。普段は畳んで机の下に入れておくわけですよ。それで、夜眠くなるとガチャガチャってやって寝るんですけど、ビーチベッドってけっこう腰のあたりがたわんでくるんですよね。

――なりますよね。腰を痛めませんでしたか?

坂口 痛かったけど若かったですらね。今、そんなことをやったら一晩でもうボロボロですよ。だから、いまだにビーチベットを見ると「おっ」と思ってしまいますね。

――銀座にいたのは2年くらいでしたか。そのあと御徒町ですよね。やはり会社の経営的にキツくなっていたのでしょうか。

坂口 完全にそうですね。ファミコンで何作か出していましたが、どれもヒットしなかったですから。オーナーとしてはそこでヒット作が生まれると思っていたんでしょうけど、かなり資金的に苦しくなって、家賃が月2000万円から10分の1の月200万円のところに。

――ええっ? そんなに高かったんですか!?

坂口 銀座だったら月2000万円くらいしますよ。だって、ビル1棟借りしていましたから。バブルがはじけて、とある会社が出たあとのちょっといわくつきの物件だったんですが、小さいながらもけっこういいビルで、すごいリッチでしたよ。最上階はなんかシャンデリアがバーンとあって周りにはソファーが置かれていて、そこで社員は宴会ができるみたいな。

――でも、当時で月2000万の家賃ってすごい金額ですよね? 当然、坂口さんたち社員がいて販管費がかかっているわけだから単純に月4、5000万円は必要になるわけですよね。

坂口 かなり利益を出さないとやっていけないですよね。だから無理で月200万の御徒町に移ったんです。でも、そこも広かったんですよ? 

――御徒町時代はどうでしたか? よく床で寝ていて女性のスタッフから嫌がられたという話をされていましたが。

坂口 それは日吉の頃です。狭かったから掃除のときジャマだったんですよ、イスで寝ているヤツらが。日吉ではキャスターのついたイスを4つくらい並べて寝ていたんです。「スタイリー、スタイリー」とか言いながらね。読んでいる人は分かんないだろうな、これ(笑)。

――大丈夫です。昭和の人は分かりますよ(笑)。

坂口 それで、掃除できないからどかしたいんだけど、汚いから触りたくなかったんでしょうね。掃除機の先端で椅子をクッと押すんですよ。そうするとキャスター付きのイスなのでコロコロ動くわけです。「坂口、ジャマ」とか言いながらね。でも、さすがに銀座・御徒町の頃は、一応僕も部長とかになっていましたからそういう扱いはなかったですよ。


ファイナルではなかったファイナルファンタジー

――青春ですね。そんな中、『ファイナルファンタジー』(以下『FF』)シリーズの開発が始まるわけですが、『ドラゴンクエスト』(以下『ドラクエ』)を打倒するため。もしくは『ドラクエ』に一泡吹かせるために『FF』という世界観を作られたとおっしゃられていましたよね。

坂口 PC時代にRPGを作っていて、しかも『ウィザードリィ』や『ウルティマ』が大好きでやり込んでいたわけですが、当時のファミコンはセーブできなかったですからね。RPGは無理だろうと考えていたんです。いちいちゲームをアタマからやるとかありえないですからね…。

――そうですね。

坂口 それで、あきらめていたところに『ドラクエ』が復活の呪文でやってきたから、これは発明だと思って…というか、ちょっと悔しい思いもありましたよね。自分たちでもRPGを作れたのに、アタマから出来ないと決めてかかったがために先を越されて、向こうはいきなり……もちろん鳥山明さんのキャラクターイラストなどの存在も大きかったと思いますが、大ヒットしたわけじゃないですか。

そういういろいろな悔しさが重なって。やっぱり僕らもRPGを作ろうよって。そういう気運ですよね。もちろん、『ドラクエ』をいきなり超えるなんて無理だとは思っていましたよ。向こうは週刊少年ジャンプ(以下「ジャンプ」)がバックについていて、鳥山明さんが参加しているわけですからね。でも、いつか並べるような。できたら超えられるようになりたいよねっていう。目標としては一番分かりやすいですからね。

――これを最後に辞めようくらいの気持ちだったから「ファイナル」と命名したと言われていますが、これは本当なんですか?

坂口 いやいや、全然違います。だって最初のタイトル候補は『ファイティングファンタジー』だったんですから。『ドラクエ』と差別化したいっていう気持ちがあったんですよ。『ドラゴンクエスト』で『ドラクエ』だから、僕らは何でもいいけどアルファベットで略されるようにしたかったんです。略し方すら変えたかったんですよ。だから「ファイファン」と言われるのはいまだにイヤですね。

――そんなこだわりがあったんですね。

坂口 『ドラクエ』と同じことは一切やらないっていうのがコンセプトでしたからね。じゃあアルファベットで何がいいかとなったとき「DD(ディーディー)」とかだと読みづらいじゃないですか。それで、「FF(エフエフ)」がいいんじゃないかと。「FF」ってF1ぽくて何かちょっとかっこいいじゃないですか。で、「FF」になるワード探しから始まったんです。片一方は「ファンタジー」でいいねとなったんですけど、これも最初はいろいろありましてね。というのも当時のアメリカではアダルト系ゲームに「ファンタジー」とついていることが多かったんですよ。「何とかファンタシィ」みたいなね。

――そうなんですか?

坂口 そうなんですよ。「坂口バカなんじゃないの?」「気が狂ってる」って言われましたから。まあでも最終的には「いいよもう、“ファンタジー”で!」となったんですけどね(笑)。で、もう片一方は最初「ファイティング」だったんです。でも、海外に「ファイティングファンタジー」っていうボードゲームがすでにあって、商標を取られちゃっていたんですよ。それで、「どうする?」、「“ファイナル”でいいんじゃない?」と。そういう経緯です。単に「FF」になるようにしたかっただけです。

――ええ~、でも世間の人は……。

坂口 だから社名の「スクウェア」の由来と一緒です。すべて後付け。とはいってもプロジェクトが背水の陣的だったのも確かです。だから、エピソードになりやすいんでしょうね。「なるほど~」ってなるじゃないですか。僕は「そうじゃない」っていろんなところで言っているんです。この「ファイティングファンタジー」の話も何回かしているんですけど、なかなか広まってくれない。世の中そんなもんですよ。

世界観を創ることの面白さと何かが降ってくる瞬間

――以前に黒川塾にゲストでお越しいただいたときに、「世界観を作るのが面白い」とおっしゃられていましたが、それは今でも変わらないですか。

坂口 自分が作ったゲームを実際にプレイしているとき、いい意味で「あれ? ちょっとやっちゃったかもしれない」っていう瞬間があるんですよ。「天才じゃない?」と思えるというか、何か降ってくる瞬間があるんですけど、たいていそれはキャラクターとかシナリオとか世界観絡みのものが、戦闘システムと合致してうまく流れたときです。多分、自分は世界観とかシナリオがないと、そういった瞬間を感じられないタイプだと思いますね。実際、アクションゲームとかだと、あまり感じられないですから。そこのカンがないというか、「これだ」と思える感性がないというのかな。だから、いいアクションゲームを作れないんでしょうね。好きっていうよりも多分自分のタイプがそっちなんですよ。

――文学的と言うと差しさわりあるかもしれないですが、やはり自分の世界観の中ですべてを完結させたいという思いがすごく強いんでしょうか? 

坂口 単にシナリオが良ければいいという問題ではないんですよ。なんていうのかな。今まではただの絵で、システムの中で戦っていただけなのに、その瞬間に画面の中でキャラクターや世界観が生きている気がしてくるんですよ。何かこう自分の手を離れてゲーム世界の中で息づき出すというか。

――命が灯るみたいな。

坂口 そう、魂が宿ったというかね。そこが楽しいんです。そこを目安にしているから、どうしても世界観とかシナリオみたいなものが存在しないと作れないんですよ。ユーザーもそうなればなるほど、「いや、なんかこのキャラクター好きです」みたいにめり込んでいくじゃないですか。ここがヒットするかどうかに連動しているんです。もちろん、そんな瞬間はそう簡単には降ってはこないですよ? 逆に、システムがジャマをしてなかなかのめりこめなかったりしますし。

坂口博信的ディープラーニング考察とその可能性

――ゲームの作り方でいうと、今AIがすごく注目されていいますよね。スクウェア・エニックスさんもかなり研究していて、ゲームの中に取り込んでいますが、坂口さんが作られているゲームでも、自分が操っている主人公が独自のAI的な思考を持ったり動いたりしていくのでしょうか?

坂口 AIっていうのは使いようなので……過去の事例をディープラーニング(注16)みたいにわーっと調べてやらせると人を超えるような……将棋とかそうですよね。人が差さないような手を打ったりしてくる。そこに面白さが存在するので、要所要所で使えばいいと思うんですよ。だけど、ゲームの場合はこのタイミングで、たまたま何か……例えば成長曲線が何かのミスでカクっとなっちゃっていたのが、「あれっ、これ良くない?」と。シナリオやキャラクター的にはかえって良いみたいな、そういうのは多分無理だと思います。

注16)人工知能を活用したコンピューターによる機械学習技術のひとつ。

――なるほど、確かに。

坂口 ホントにディープラーニング的なものでとことん掘り下げていけばやれるでしょうが、ゲームの中のキャラクターのふるまいとシステムの関連性は難しいと思うんですよ。将棋とかだったら同じ盤面上で同じルールだから、それに対してディープラーニングはできる。でも、ゲームは土台が違いすぎちゃってディープラーニングしづらいんじゃないかな?

ディープラーニングするほど事例もないしね。しかも、自分でシナリオを作り出して、ここで何か「感動した」っていうのを数値化してAIで感じ取れるようにしなきゃならないしね。そこまではまだいけないんじゃないかなと思うんですよ。それができるようになったとしても、その人工知能が作ったものに対してユーザーが感じる感情ってまた変わりますよね。ディープラーニングで作ったものを嫌悪する可能性だってあるわけだから、じゃあ、今度はまたそれをディープラーニングしなきゃならない。これはもう完全なイタチごっこになるわけですよ。

――そうか、そこまで考えなければいけないんですね。

坂口 多分、無限ループに入ってしまうので、それはやれない気がしますね。そういう意味では人間が関わらないと作れないものってのはまだまだ存在していて、将来的には分からないですが、今のところAIはまだ限定的にうまく使っていくという形になる気がしますね。

鳥嶋和彦との出会いが人生とゲームを変えた


写真右鳥嶋氏

――先ほどの『ドラクエ』の話に戻るんですけど、当時のジャンプ編集者の鳥嶋和彦さんとの出会いというのも、いろいろな意味で大きかったと思います。やはり、かなり影響されましたか?

坂口 鳥ちゃんは師匠ですからね。本人にもそう言っていますし、鳥嶋さんと出会ってなかったらちょっと違っていたでしょうね。

――どんな感じに違っていたと思いますか?

坂口 『IV』からキャラクターとかシナリオ、特にキャラクターを重要視するようになりましたが、これは鳥嶋さんの助言のおかげです。ジャンプ編集部はマンガをどうやって面白くしていくかっていう確固たる方法論を持っているプロなわけですよ。そんな彼らからすると当時のゲームっていうのはやっぱり稚拙に映ったんでしょうね。

でも、僕らからすると「キャラクターが存在しなくても楽しめるのがゲームなんだ」と言いたくなるところもあるわけです。そういうゲームはいっぱいありますからね。だから、鳥嶋さんの言っていることは極端だなという気もしました。ただ、僕が作りたかったものはさっきから話しているとおりストーリーや世界観が存在するもので、キャラクターは切っても切れないものですからね。それで、一度ちゃんと勉強させてもらおうと。実際、『FF』の『IV』、『V』、『VI』の変化というのは、『VII』とかも含めて鳥嶋さんのおかげですよね。

――すごい影響というか、坂口さんにとってはいい出会いだったわけですね。

坂口 まあ、よかったですね。でも、やっぱり最初にあったのは『ドラクエ』です。『ドラクエ』って鳥嶋さんが影のプロデューサーなんですよ。僕と田中弘道が海賊版の『ウィザードリィ』や『ウルティマ』を遊んでいた時代に、鳥嶋さんも堀井雄二さんとやっていたんですよ。もちろん、彼らは正規版でしょうけどね(笑)。で、これは面白いとなって「堀井君、鳥山明に絵を描かせるから僕たちも作ろうよ」となって『ドラクエ』が出来た。だから、同時期に同じようなものを見ていたんですよね。

もちろん、ジャンプの袋とじに出ればヒットするというのもありました。当時のジャンプの袋とじってテレビCMなんかよりもはるかにマーケティング効果があったんです。それは『ドラクエ』のおかげというのもあったんですけどね。『ドラクエ』のマル秘情報が入っていたから、みんなむさぼるように買って袋とじを開けていたわけですから。

だから、僕はどうしてもあそこで『FF』を扱ってほしくて。それは『ドラクエ』と肩を並べるという意味でも、ジャンプ編集部に認めてもらうっていう意味でもね。単にアドバイスを受けるだけじゃなく、そういう部分もあって鳥嶋さんに営業していた感じです。でも『FFIV』を編集部に見せにいったらねえ。「みんな集まれー。すごいぞ、今度の“ドラクエ”は」とか言われて。「お前ら、死ね!」って思いましたね。(笑)

――アハハハハハ。

坂口 だから『FF』ですって言ったら「“エフエフ”って何?」「“ドラクエ”じゃないの? じゃあいいや」って編集部散り散りみたいな。そんなでしたよ。某ゲーム雑誌さんも『FFII』とか『III』の頃かな? ロムカセットを持って編集部に行ったら、副編集長の方が「申し訳ない。ドラクエの対抗馬になるものは扱うわけにはいかないんですよ」と門前払いですよ。見てもくれなかったですからね。

――そんなこと言われたんですか? うわ~。

坂口 いや、なかなか厳しかったです。結局、ジャンプでも最初に載ったのは『VI』ですからね。『IV』と『V』は散々見てもらったし、キャラクター性が強くなっていたじゃないですか。自分としても満足できるものだったし、鳥嶋さんもそこはホメてくれたわけですよ。「頑張ったじゃん」と。でも、「じゃあ載せてよ」って言ったら、「それとこれとは別」みたいな。

「クロノトリガー」の実現は「FFⅥ」の成功によるもの


――シビアですねえ。

坂口 そりゃそうでしょう。一応、向こうは『ドラクエ』チームだもん。だから『VI』でやっとですよ。まあ、『V』で認めてもらった感じですよね。『VI』はさらに頑張ったから、これはまあ扱おうと。だから、『クロノトリガー』はけっこう早かったですよ。もう、僕らの技術力とか認めてもらっていましたから。鳥山明さんとご一緒できるのはうれしかったですね。『ドクタースランプ』のアラレちゃんの頃から大ファンでホント夢でしたからね、鳥山明さんと仕事をするのは。

――坂口さんから提案されたんですね。一緒にやりたいと。

坂口 ええ。そうしたらシナリオは堀井さんにみたいな話になり。じゃあ3人が集まったらすごいですねって。だから、鳥山さんと仕事がしたいというのが最初でしたね。

――ジャンプの誌面にあれが出たときはトリハダがたちましたよ。いきなり巻頭のグラビアで「夢のチーム発進!」みたいな感じで。ところで、最初に鳥嶋さんのところにどうやって営業に行ったんですか。「会いたいんですけど」みたいな感じで?

(写真:坂口氏と植松氏の対談記事 この頃から坂口氏のメディア露出が増えた)

坂口 いやいや、ジャンプは読売広告社と繋がっていたじゃないですか。(この部分の表現をどうしましょうか_?)その繋がりで連絡が来たんですよ。「集英社の鳥嶋さんって人が呼んでる」って。で、行ってみたら、広~い会議室に鳥嶋さんがひとりポツンと座っていて。「君が坂口クンか。今からボクはね、君が作っているゲームがなぜダメなのか言っていくね」って、そこから延々2時間くらい『FFIII』の悪口。

――うわ~、そんなだったんですか!?

坂口 「こうでああで、キャラクターが立ってない」、「バランスもここが悪い」、「なんかどうも独りよがりの匂いがしてくるんだよね。や~な匂いがしてくるんだ」とか。「はあ……」とか言って聞いていましたけど「バッカじゃないの、コイツ」と内心思いましたよ。

――でも、それだけやり込んでいたわけですよね、あの人は。

坂口 とも思いました。その時点で『FF』は「これは出てくる」と思ってくれてはいたんでしょうね。そうじゃなきゃ言わないですから、鳥嶋さんは……。

――ですよね。それにしてもすごい人ですね。

坂口 ゲーム大好きだから。まあ、でも袋とじがあったから食らいつけたところもありますよね。あんまり言われちゃうと、人間ちょっと会いたくないってなるじゃないですか。でも、どうしても袋とじに載せたかったから、「仕方ない。行くか編集部」って感じでした。それで、また文句言われてガクっみたいな。しかも、載せてくれない、またダメって(笑)。

――僕も記憶がありますけど、みんなジャンプ編集部には苦労させられましたよね。

坂口 いや~厳しい編集部でしたね、あそこは。だいたい門前払いだったでしょ。

――でも、『クロノトリガー』もそうですけど、その後はジャンプとすごく緊密な関係になりましたよね。

坂口 『FFVI』のときだったかな、『Vジャンプ』を出したじゃないですか。あれが大きかったですよね。鳥嶋さんとしても従来のゲーム雑誌とは違う形のゲーム誌を出すというところで勝負に出た部分があったでしょうから。そのときの僕らと目的が合ったというか、事前に教えてくれたらいろいろアレするから情報をくださいよ、みたいな話で。そうなっちゃうともう仲間ですよね。で、『FFVII』のときはスクウェアが勝負のタイミングでしたから。スクウェアが不安なときに鳥嶋さんたちが助けてくれたみたいな。それぞれの勝負のタイミングで助け合うというか、あの時代はそういう感じですよね。

プレイステーション参入はスクウェアにとって賭けでもあった……

 

 ――プレイステーションへの参入はやはり不安があったんですか。

坂口 スクウェアが勢力図を引っくり返したみたいに言われますけど、当時はやっぱり不安でしたよ。これでスクウェアがダメになっていくんじゃないかっていう。ただ、もうカセットロムでは作れなかったですからね。(データが)入り切らない。NINTENDO64がカセットでいくとなった時点でこれはもうどうしようもなかったんです。全部切り刻んだすごい簡単なものなんか『VII』で作りたくなかったですから。だって作れるって分かっちゃったんですからね。そうなったら、もうクリエイターとしては行くしかないですよ。

――戻れないですよね。ただ、『VII』、『VIII』くらいのタイミングで作り方が変わったこともあって組織が肥大化していきましたよね。どう思われていましたか?

坂口 たまたま当時のアートディレクターのひとりだった直良(有祐)(注17)と飲む機会があって、そのときにも話したんですけど『VII』は当初「ほんわかで2Dでやりましょう」みたいなノリだったんですよ。特に背景画は。でも、僕はそこもCGでやれると思っていたんで、「見たこともない絵をやりたいんだよ!」みたいな話をしたらしいんですよね。

何かそういう目標値があれば、組織が肥大化してもまとまるんですよ。そういう意味では大変じゃなかったですね。非常に明確な目標がありましたから。逆に、いくら儲けようとか絶対ヒットさせてやるとか、それだけだとバラけがちです。

注17)アートディレクターとして『ファイナルファンタジー』シリーズなどの開発に参加。2016年にスクウェア・エニックスを退社してフリーに。

――なるほど、新しいものを作ろうと。

坂口 はい。それで、本当にちょっとずつ出来上がってくると、「確かにこれはなかったね」って自分たちで思えてくるじゃないですか。そうやって自分たちでドキドキできれば自然とチームは意気が上がっていきますよね。

――SCE(現SIE)さんからのバックアップもかなり強いものがあったんですよね。

坂口 技術的なバックアップはもちろんですが、広告面でのバックアップもありがたかったですね。最初の「開発始動!」みたいなテレビコマーシャルがあったじゃないですか。当時、ああいうテレビコマーシャルは滅多になかったですからね。

入交正一郎さんの気功とセガとの関係値

――セガ(現セガ)との交渉についておたずねしてもいいですか。入交(昭一郎)(注18)さんとお会いになっていたんですよね。

坂口 そこ突っ込んできます?(笑) 入交さんがハワイに会いに来られたのはドリームキャスト(以下「ドリキャス」)のときですね。そういえばウチの娘が5歳くらいのときに入交さんの気功で虫歯を治してもらったんですよ。あの人、気功をやるじゃないですか。食事中に娘もいたんですが、「ちょっとおいで」って言って何かすーってやって。そうしたら痛みが消えちゃったみたいなんですよ。

注18)本田技研を経てセガに入社。研究開発・生産部門を担当し、社長としてドリームキャスト開発を指揮した。

――それで虫歯が治るんですか?

坂口 だって5歳の子だからウソはつかないじゃないですか。それに完全に治ったわけじゃなくて、痛みがなくなっただけですよ。神経がなんらかの形でやわらいで痛みがなくなったみたいなことだと思うんですけどね。だから、完全に信じているわけじゃないですけど、それくらいはありそうじゃないですか。まあ、とにかくそういう恩があるんですけどね(笑)。

――セガ・サターンの時代からセガからはオファーがあったと思うんですけど、あまり魅力を感じませんでしたか。

(写真は2003年)

坂口 う~ん、やはり肝心なところのスペック部分ですよね。僕らにしたら「ここがポイントじゃないか」っていうのがあるわけですよ。そこにコストをかけるんだったら、こっちでしょっていう。でも、僕らの言うことは聞いてくれないですからね。そうすると、僕らも営業されても「いや、だってセガはソフトを作る側の意見とか、どうせ聞いてくれないじゃない」となっちゃうんですよ。組んでもいいことはないかなと。それが大きかったです。

任天堂さんはかなり僕らの要望を聞いてくれましたから。ファミコンやスーパーファミコンのカセットにはMMCチップという特殊なチップが入っていたんですが、けっこうウチの提案や仕様に合わせて作ってくれましたからね。やっぱり、そういうバックアップがないと、なかなかソフトの力だけでは続編が飛躍的にアップしていかないんです。セガさんは、そこがちょっとね。逆に言うと、僕がこだわるのはそこだけですよ。プレステに行ったのもそのせいですから。

――SCEさんもそこはできる限り応えましょうと。

坂口 そうですね。プレイステーションはそんな感じですよね。ディスクのアクセススピードとか気になっていたので、「10秒待たされたらアウトだろ」と最初から目標値を決めたり、かなり技術的なことをいろいろやってくれましたから。ドリキャス対プレステ2ではメディアも判断基準になりましたね。ドリキャスはCD-ROM(注19)だったじゃないですか。

注19)ドリームキャストはGD-ROMというCD-ROMを発展させた独自規格の光ディスクメディアを採用していた。

――そうでしたね。

坂口 今、考えてみたらありえないでしょ? しかも、DVDの映画をプレステ2は再生できるのにドリキャスはできない。DVDプレイヤーは将来的に量産されるのが見越されていたから、コスト的には赤字でも搭載することができたはずなんです。僕はそこ、入交さんに力説しましたから。

――それはハワイでですか?

坂口 いや、それは日本のセガのオフィスで鳥のそぼろ弁かなんか食いながら。でも、却下でした。サターンのときと同じですよ。彼らは自分たちの開発チームとかソフトが重要で、僕らと『FF』を飛躍させるためには動いてはくれない。それではちょっと組めないですよね。でも、最後まで悩みましたよ。メディアがDVDだったら間違いなくドリキャスとプレステ2の両方でいっていたと思います。

――SCEに移ってから任天堂さんとは一時没交渉になっていたわけですか?

坂口 いやいや、そうはいっても会社対会社のつき合いなんで。携帯機向けはスクウェアもやっていましたから、別に完全に切れたわけじゃないですよ。

終わらせないといけないプロジェクトもある

――映画『ファイナルファンタジー』についてうかがいたいと思います。以前、後半の急速な展開について、以前に、なぜこうなったのかとお尋ねしたら「それは終わらせないといけないから」と、答えられていたのですが本当にそれだけですか?

坂口 いや、本当にあのままだと終わらなかったですよ。プロジェクトって永久ループに入るときがあって、そうなるとほっといたら多分終わらないです。そういうのって世の中にいっぱいありますよ。ゲームもね、某ナントカも10年くらいやってたでしょ?

――某ナントカですか。なるほど、あれですね。ハイ(笑)。

坂口 あれは多分永久ループに入っていたんですよ。だから開発チームをガラっと変えたんじゃないですか?
そういうときって思考を変えて無理にでも終わらせないと、みんな不幸になりますから。僕の映画もそこに尽きます。もちろん、そういう状況に入っちゃったっていうところは問題だったと思いますよ。プロジェクトとして無理をしすぎたっていうのもあったかもしれませんね。リアルを求めすぎたというか、やはり当時のマシンパワーだとなかなかね。1枚レンダリングするのにどれだけ時間がかかるんだって。

――では、映画から得た経験とか反省みたいなものはありますか?

坂口 特にないですね。よく「あなたは早すぎる」とか、「もうちょっとゆっくりじっくりやればいいじゃない」と言う人もいるんだけど、僕がやってうまくいったものも同じノリでしたから。人間やったことが全部成功するハズはないし、そうやってパッと思いついたら動いちゃうのが自分だとも思っていますので。そこは別に変える気もないし、反省する気もないっていうか。確かに、「これなんかいけるんじゃない?」と思って反射的に動くと失敗することが多いんですけど、その行動力を失ったら終わりかなとも思っているんですよ。

――でも、僕はあの映画を何回か見ていますけど、あの時代に日本人のゲームクリエイターが映画監督として、あのクオリティの作品を作って世界に問うたというのは改めて評価されるべきなんじゃないかと思うんです。

坂口 どうなんでしょうね。ただ、あそこから巣立ってハリウッドで活躍している連中がいて、そいつらと会うと一応礼は言われるんですよ。あれがなければ今のハリウッドに出ている日本人たちはいなかったって。でも、プロジェクトとしてはうまくいかなかったですから、僕としてはそのことを声を大にして言う気もないし、良かったねってくらいですよね。まあ、それくらいの副産物がないとね。何もないじゃ、ちょっとさみしいですよね。

――その後、『FFXI』を最後にスクウェアを退任されるわけですけど、そのときは何かご自身の中で感慨みたいなものはありましたか?

坂口 もう株主総会に出なくていいんだって(笑)。取締会出なくてもいいし、春になったら査定会議で1カ月潰れることもないんだと。いやぁ、だって会社の経営方針について会議で怒鳴りたてていたら、その日1日クリエイティブなことはできないですよ。

――そういうのはイヤでしたか。やはりクリエイティブに専念したいと?

坂口 自分の時間の使い方が間違っているなと思っていましたね。ゲーム作りが好きでこの道を選んだはずなのに。でも、そうはいってもスクウェアという組織も大事だから経営会議になれば言うべきことは言うじゃないですか。なんでそこまでデジキューブ(注20)に肩入れしなきゃいけないんですか……みたいなさ(大爆笑)。

注20)1996年にスクウェアがコンビニでのゲームソフト販売や攻略本の出版事業などを主目的に立ち上げた関連会社。インタビュー取材者の黒川文雄が役員として所属していた。

――おっしゃるとおりですよね、その通りです。この部分はカットせず残しておきますね(笑)。

坂口 残さないでいいよー(笑)。いや、理屈としては分かるんですよ? 流通もある程度抑えることでスクウェアグループとして利益を上げていくんだと。でも、そのために開発チームにしわ寄せがきて、製品が劣化するんだったら僕はやっぱり許せない。ユーザーが面白いって言ってくれるから売れる。だから、流通でも儲かるわけでしょ? 自分としても負けられない一線があったので「ギャーッ」ってなるじゃないですか。年がら年中そんなことをやっていたら、もう(ゲームを)作っているヒマなんか無くなりますよね。それで、気が付くと自分が任せていたプロジェクトが、なんか僕が思っているものとは違うものになっているんですよ。なんでそれそうなった、みたいな。

――やっぱり現場でもそういうことが起こりつつあったわけですか。

坂口 クリエイターはそれぞれ志向が違うので別に僕と同じ志向をする必要はないし、その人の感性で作っていいんですよ? ただ、僕としてはこういうノリにしたかったなというのがあって。自分が現場から離れることによって作品が違う方向にいっちゃうのは仕方ないんですが、そういうことを感じるようになったらもう自分の作品ではないですよね。自分では何も作っていないに等しい。こりゃいけないなと思って。僕はビジネスマンじゃないし、そういう経営的なことをやりたかったわけでもないですから。

死んだら遺骨はハワイの海で散骨してほしい

――そのあと3年間はあまり何もしなかったとおっしゃっていましたが。

坂口 そうですね。ずっとハワイでブラブラしていましたね。

――そもそも、なぜハワイに住もうと思われたんですか?

坂口 初めてあの地に立った瞬間、「ここだ」って思ったんですよ。あの地磁気と風、湿気、あと人の優しさ。それは今でも変わらないです。遺言にもちゃんと「骨はハワイの海にまけ」と書いてありますから。絶対、日本に持っていくなって。

――そこまでですか!?

坂口 ヤダヤダヤダ、日本になんか絶対埋められたくない。これはしょうがないんです、本能の問題。人それぞれですよ。ハワイ大嫌いっていう人もいますからね。閉じ込められているみたいだって言って。

――まあ、島ですからね。そういう人もいると思います。

坂口 あそこは特殊なんですよ。ハワイ列島は噴火がずっと続いているエリアで、火山が噴火しては島になるっていうのが西から順番に続いている。で、今はハワイ島が一番東だけど、千年後には隣にまた島ができるそうです。そんな地域だから地磁気が違うわけですよ。それくらいマグマっていうかマントルの滞留みたいなものも含めて、地球のパワーがあふれているヘソみたいなところですから。だから、ブラウン管の頃なんてハワイ仕様とかあったでしょ?

――そんなに影響があるんですか。

坂口 そうですよ。今は液晶だからないですけど、ブラウン管って磁石を近くに置いたら画面が緑色になっていたじゃないですか。ハワイでは普通に置いているだけでもそうなっちゃうんですよ。だから、ハワイ仕様っていうのがあったんです。そのくらい地磁気が違っていて、常にそれを浴びているはずなんです。風も違うしね。いや、だからそれを感じ取っちゃうと、あそこ以外の場所はないって感じですよね。

厄年は何もしないのが一番いい

――結局、3年間ずっとハワイにいたわけですが、「そろそろ何かやらないと」という気にはなりませんでしたか。

坂口 後から言われたんですけど、ちょうど厄年だったんですよね。前厄、本厄、後厄。人間って厄年は何もしないのが一番いいらしいですよ。

――それは坂口さんだからできたんじゃないですか?

坂口 いや、でもたまたまですし、別にそんなに蓄えがあったわけでもないですよ。多分、ハワイにいて感じたんですよ、「働いちゃいかん」って。この記事を読んでいる人に勧めたいですね、厄年は何もせずにブラブラしていようって(笑)。

――普通の人はできないと思いますけどね。ところで、東京とハワイを往復されるのって大変じゃないですか?

坂口 それは慣れですよ。ジェット気流が強くなる冬場だと日本からハワイまで5時間半くらいですし、あっという間ですから慣れちゃえば全然。飛行機に乗っている間に仕事もできるし、映画を観てもいいし。

『ブルードラゴン』、『ロストオデッセイ』の開発の背景


――後厄が終わったあと仕事を再開されて『ブルードラゴン』、『ロストオデッセイ』を作られたわけですが、この頃は中山隼雄さん(注21)と組まれていたんですよね。

坂口 最終的にはそうですね。

注21)元セガ・エンタープライゼス社長。セガの海外進出を推進し、任天堂に対抗した。

――坂口さんと中山さんという、その当時で言えば非常にエッジの立った組み合わせですけど組んでみていかがでしたか?

坂口 いや、そらはちょっと違っていて、最初はマイクロソフトと組んだんですよ。マイクロソフト内に川井(博司)君(注22)っていう『FFVII』のメインプログラマー(※)がいたんですよ。その子はMIT(マサチューセッツ工科大学)の学生だったんですけど、彼は当時、僕がボストンまで行って引き抜いたんですよ。彼も天才系のプログラマーです。『FFVII』も川井君のおかげっていう部分がけっこうありましたからね。その川井君と一緒に何かやろうみたいな話になったので、それでマイクロソフトと組んだんです。で、川井君のチームと始めたのが『ロストオデッセイ』。だから、そこには中山さんは入ってないです。

『ブルードラゴン』はまず企画があって、鳥嶋さんに「再始動したいんだけど、鳥山明さんともう1回組むことはできないか」って言ったら、鳥嶋さんも「実は僕も鳥山明と新規IPを作ろうと思っていたんだ」という話になって。じゃあアニメ化も含めてちょっとプロジェクトを起こそうよと。で、鳥山さんを使えることになったんですが、そうするとあちこちから「やりたい」っていう声が上がるじゃないですか。

――なるほど

坂口 ハードウェアメーカーだけじゃなく、いろんなところと話をして最終的にマイクロソフトに決まって。そのときにアートゥーン(注23)っていう開発会社をマイクロソフトから紹介されたんですよ。元セガの大島(直人)さんと石井(洋児)さんが設立した。で、石井、大島の両氏と意気投合してアートゥーンと『ブルードラゴン』を作ることになったんですけど、実は中山さんの会社だったと。それで、中山さんを紹介されたんです。そういういきさつなので、別に中山さんと組んだつもりはなかったですね。

注22)『パラサイト・イヴ』、『FFIX』などでメインプログラムを担当。その後、マイクロソフトXbox事業部に移籍し、『魔牙霊』などを手掛ける。

注23)『ラストストーリー』や『ヨッシーアイランドDS』などを手掛けたディベロッパー。

――その後、スマートフォン向けコンテンツの『パーティーウェーブ』を経て『テラバトル』に至るのですが、やはり起死回生みたいなお気持ちだったんですか?


(写真 ハワイにて90年代後半 中央が橋本氏、右・現在はシリコンスタジオに勤務する梶谷氏)


坂口 『パーティーウェーブ』は遊びでやったんですよ。ちょうどその頃、『FFVII』のCGスタッフだった橋本カズ(和幸)がハワイにいたんですよ。ヘンク・ロジャースと荒川實さん(注24)の会社のオンライン事業立ち上げを担当していたんですけど、それがちょっと暗礁に乗り上げちゃったらしくて。それで、彼の下で働いていた元スクウェアの大野君と西村さんっていうプログラマーを使ってあげてほしいという話がきたんです。「坂口さん、スマホでサーフィンゲームを遊びで作りたいとか言ってたじゃん。彼ら半年ヒマになるから、ちょうどいいからチョロチョロっとやんない?」みたいな。で、橋本カズは親友だし大野も西村も知っているから「いいね、いいね、やろうか」となって作ったのが『パーティーウェーブ』だったんです。

注24)ヘンク・ロジャーズ氏は「ザ・ブラックオニキス」などの開発者、荒川氏は任天堂の米国法人であるニンテンドー・オブ・アメリカの元代表取締役社長。

――そういう事情があったんですね。

坂口 で、作ったんだけど、当然まったく売れず。僕がアキバで行商したほうが売れるんじゃないってくらいダウンロードされなかったですね。今にして思えば当たり前の話で、そんな遊びで作ったものが売れるような市場ではないですからね。特にスマホはタイトル数が多いからホントにちょっとでも売れないと、とことん知られずに消えていくっていう世界ですからね。

そんなことも知らなかったんですが、ただそうなると人間不思議なもので悔しくなるんですよ。大野君たちも含めて「ちょっと悔しいよね」、「ちゃんと作んない?」っていう話になったわけです。スマホはスマホで成功させたいよねと。それにはスマホゲームっていうものをちゃんと知る必要があるじゃないですか。当時の僕はKPI(注25)的なものがあって、数字を追っていくというスマホビジネスの基本も知らなければ、いわゆるガチャという課金方法すらよく知らなかったですからね。ガラケー時代はそういうゲームをバカにして遊んだことすらなかったんです。

注25)重要業績評価指標のこと。スマホビジネスではこの数値の変化をもとに運営が対策を練る。

――そうか、そこから始められたんですね。

坂口 そういう状態だったので『パズル&ドラゴン』(以下『パズドラ』)とかをファミ通編集長の林(克彦)さんとかにすすめられてひと通り遊んだわけです。それで、「よくできてるじゃん、『パズドラ』」となって。課金にゲームシステムを紐づける方法が尋常じゃないわけですよ。ホント説明できないくらい細かいところに紐づいているんです。

単純に見えて全然単純じゃないんですよ。これはすげえなと思って。すっかり面白くなっちゃって自分なりに作ったのが『テラバトル』だったんです。ただ、自分として作る分にはあんまり儲けちゃいかんなとも思ったので、複雑に絡めとられて課金に向かっていく紐を若干外していった感じですね。外して別のゲームシステムに向かわせるんですよ。そうすると課金、課金していないゲームが出来上がるんです。その分、売り上げはそんなにいっていないですけどね

――現在、ダウンロード数が280万ですか。300万までいくといいですね。

坂口 そうですね。でも、世の中で言うダウンロード数っていわゆるインストール数で、その場合は実は『テラバトル『』は800万くらいまでいっているんです。僕らは例えばひとりが3台にダウンロードしたとしてもそれは1ダウンロードとしていますから。でも、この数え方をしているところはほとんどないみたいですね。

――実直なんですね。坂口さんって、そんなに実直な人でしたっけ? なんだか夜の印象が強くて(笑)

坂口 それはアナタが間違っているんですよ! 人間飲めばハメ外れるけど普段は実直なんです。

――坂口さんってホントは寂しがり屋で、すごくいい人なんだろうなと思っている側面はあるんですよ? ただ、僕は夜の姿を見ているから、この人はすごい悪い人なのかなとも思っちゃうんですよ。でも、今のお話を聞くとね、すごく作り手としてユーザーに対して真摯に向かいあっている人なんだなと。

坂口 そうだよ、そうだって。今更言うなよって感じですよ。それに、今はもう酒はやめましたからね。ちょっと足をおかしくしちゃって。痛風っぽいというか、捻挫っぽいというか。少し怖くなったんで、もう2カ月以上飲んでいないです。このまま止めていこうかなと思っているんで、夜に会っても大丈夫ですよ。その代わり、早く終わりますけどね。夜の10時には終わる。

――いいことじゃないですか。

坂口 昨日も10時半に終わりましたね。でも、酒が入らなくても暴れるかもね(笑)。

――そうそう、そういう印象もありますね。

坂口 でも、昨日も直良君と熱く語っていましたね。直良君も独立したばっかりなんで、そこら辺の話を僕に聞きたかったみたいです。で、「フリーになったらカネを貰わなければいけないんだから、お前の今のやり方じゃマズイんじゃない?」みたいな話をしてね。やっぱり会社に守られていると甘くなるじゃないですか。フリーはそうはいかないですよね。まあそんな話を。やっぱり自分のチームだった人間のことは気になりますからね。

――スタッフ思いというか、人とのお付き合いを大事にしていますよね。

坂口 当時は27歳の僕がトップを張ってあとは年下ばかりでしたからね。会社の年齢構成がそうなんで、27歳なのに相対的には会社の中で50歳くらいの人の業務になるわけですよ。だから、1歳、2歳しか違わないのにかなり後輩に感じちゃうんです。だから、最近は「えっ、あいつもう50なの?」みたい感じで愕然としますよね。

――去年もビットサミット(注26)でお会いしましたし、ニコ生もやられています。すごく新しいモノに対して果敢に取り組んでいますよね。やはり、自分を時代にアジャストしていくみたいなところがあるんでしょうか?

坂口 いやいや、負けず嫌いなだけですよ。だから『テラバトル』をやったわけで、やる以上は作り手も含めて、みんなハッピーにさせてあげたいし。そうすると、自然とそんな情報に向かっていくじゃないですか。今だとやっぱり30代のスマホ系の会社の経営者と会うのが一番手っ取り早いですね。だから、よく会ったりするんですよ。

――積極的ですね。

坂口 彼らの話がまた目からウロコっていうか、「そうなってんの、今?」みたいな。それで、娘が今ロスにいてアメリカ事情に通じているので聞いてみると「当たり前じゃん」、「パパ何言ってんの?」なんて言われて。そうなると興味っていうか、「何で俺はそんなことも知らないんだ」となるじゃないですか。で、分かろうとするんだったら、やっぱり実体験してみないと。

年齢的に自分が完全な素のユーザーになってユーチューバーを追いかけるみたいなことはもうできないですけど、何しろユーザーがフェイスブックなんかも含めて、自分で発信したがっている時代ですからね。それを体験するには、やっぱり生主とか自分なりのやり方でやってみないと。自分でやってみたら感覚的に何が楽しいのか、何がしたいのか分かるかもしれないじゃないですか。

何かありますよね、時代の流れがね。多分、ゲームの中身自体もその流れに乗らないといけないんですよ。それが新しいゲームスタイルになるんじゃないかと。そこもやってみたいわけです。本当にウケるものを作りたい。その上で、感情をゆさぶりたい。キャラクターのことで泣いたり微笑んだりさせることができたら、もう勝ちじゃないですか。そこに行くために必要な情報という感じですね。

――常に新しいものを取り入れて、それを発信、提案する姿勢には頭が下がります。では、最後にクリエイティブな世界を目指す若い人たちにお言葉をいただけますか。

坂口 あきらめずに、ですかね。モノづくりって最初からフィットすることはないじゃないですか。なかなか自分で納得するものにならないんだけど、試行錯誤しているうちにピタっとくる瞬間がくるので。それまで捨てずにあきらめずに。ゲームづくりもそうだし、絵とかもそうなんですけど、けっこう途中で投げちゃう人が多いので。もうちょっとでフィットしそうなのにもったいないなって思うことが最近多いんですよね。

(写真 植松伸夫氏とともに)


2017年5月収録

出展元 エンタメステーション 人物写真撮影:北岡一浩

御高覧ありがとうございました。この取材は2017年に行われたものを再集録したものです。当該メディアのエンタメステーションが休刊になったためです。このコメントより以下は有料ですが、この活動に対してドネーションをいただけるかたのみご購入ください。取材部分は基本無料です。

ここから先は

106字

¥ 300

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?