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『オッペンハイマー』とノーラン作品の「俺たちの戦いはこれからだ」感について

ノーラン作品の人気の秘訣は、その「俺たちの戦いはこれからだ」感にこそある。そして『オッペンハイマー』の成功は、その「俺たちの戦いはこれからだ」感を見事に活かし切ったが故の物である。


注意:『メメント』『インセプション』『ダークナイト』シリーズ『インターステラー』『ダンケルク』『オッペンハイマー』の微ネタバレ含みます。具体的に踏み込んでるのは『オッペンハイマー』くらいですが、一応。


クリストファー・ノーランの映画は何故これほどまでの人気を誇っているのか。この問いには様々な答え方があるだろう。IMAXを活用した画や音響と答える人もいれば、考察しがいのある脚本と答える人もいる。これらと並んで挙げられがちなのが、終わり方だ。

トンネル先の光に消えるバットマン、止まる直前に見えなくなるコマ、アルフレッドの前に笑顔を向けるブルースと彼を受け継ぐロビンなどなど。明白に、こんな場面だった!、と言い切れる決定的な名場面ばかりなのだ。


皮肉になってしまうが、ノーラン映画には、終わり方にめちゃくちゃ力を込める習性、もっと言えば終わり方の快感でこちらをぶっ飛ばそうとする戦術、もっともっと言えば「終わりよければすべてよし」的な根性、があるのだと思う。そして観客の多くが、それにまんまと気持ちよくされてしまっているからこそ、ノーランは現代を代表する監督とみなされているのではないか。気持ちよくされてしまっている観客の一人として、僕はそう感じている。

はっきり言うけれども、ノーランの映画には、素人でもわかるレベルで、雑さが散らかっている。「ダークナイトの香港に行く場面、いらないよな。てか、あれのせいでわかりにくくなってない?」、「テネットのキッチンでのアクション、かっこいいけど、本筋と関係ないよな。集中力削がれるなぁ。せっかくかっこいいんだから、もうちょっと工夫して、本筋と絡ませて欲しいな。そういえば、インセプションの逃げる場面もこんな感じだったなぁ」などなど、例を上げていけば、マジで枚挙に遑がない。粗探しが不得意な僕からみても、こうなのだ。なお、もっと詳しく粗探しをしたい方は、宇多丸や柳下毅一郎あたりの評論を聞くなり読むなりするといい。

リピーターが多いことで知られるノーラン映画だが、上記のような点がすぐに見つかる故、2周目では「ああ、そういうことだったのか」と同時に「ああ、だからわかりにくかったんだな。。。」が多発することになる。「終わりよければすべてよし」作戦の下、しっかり挽回できているとはいえ、ちょっと調整すれば解決できそうだし、その辺は変えた方が良いんじゃないかしら。てか、調整もせずに、見にくく、わかりにくくなっているまま、考察向き映画ヅラするのはちょっとした詐欺じゃない? などと思いつつ、結局、毎度のように僕は、ノーラン映画を見て、メロメロになってしまう。粗があるとわかりつつも、結局ラストに代表される、ノーラン映画のダイナミズムに触れると、もういいや!、となってしまうのである。おそらく、僕のような惚れ方をしている人が多いからこそ、ノーランはこれほどの巨匠となったのだろう。勝ち負けではないが、我々はある意味でノーランに負けてしまっているのかもしれない。


さて、「終わりよければすべてよし」的な根性を成功に導いてしまうノーラン映画のラストには、どのような特徴が見出されるのか。数多の映画の終わり方と、どう違うのか。

その答えこそ、「俺たちの戦いはこれからだ」感なのだと思う。もっと偉そうで、かっこいい言葉を使って表現することができるだろうが、あえて「俺たちの戦いはこれからだ」感と言わせていただこう。

いうまでもないかどうかは知らないが、この言葉はよく、連載を打ち切られた漫画を揶揄する時に使われる。突然の打ち切りに見舞われたため、中途半端に終わってしまい、全くまとまった感じがしない漫画を思い浮かべて欲しい。そういった漫画の苦し紛れの締めに、多用されるフレーズとして想定されるのが「俺たちの戦いはこれからだ」なのだ。

当然ながらこのフレーズは、普通、褒め言葉として使われない。むしろ、貶しや揶揄の道具として使われる。しかし、僕はこのフレーズを、ノーラン映画を褒めるため、そしてそんなノーラン映画に気持ちよくされてしまう僕らの性感帯を追求するために、使ってみようと思う。


あなたは映画のラストと聞いて、どのような場面を想像するだろうか。きっと、しっとりと荘厳に作品世界が閉じられるようなものが浮かぶだろう。実際、多くの場合そうなっている。

『スターウォーズ』なんかがいい例だろう。The Force Themeという、『スターウォーズ』シリーズの有名曲の中でも最も落ち着いている曲に合わせ、しっとりと作品が締められる。シリーズのどの作品も大体そのように終わっている。勿論、その直後に、テレッテレッテレレレ、とあのテーマ曲が流れ、エンドロールが始まるので、何から何までしっとりしているわけではない。しかし、本編の締まり方には、やはり終わりに相応しい「締め感」とでもいうべき静けさがある。

わざわざ説明を試みたが、当たり前のことだろう。作品を終えるのだから、ちゃんと終わりっぽく終わらせている。それだけの話だ。クライマックスもとっくに終わり、あとは締めるだけというタイミングで、わざわざ風呂敷を広げ直そうとするなんて、ほとんどあり得ない。しっとりと、ゆっくりと画面を見せ、映画が終わることを強調する。それが正解のはずだ。


しかしノーラン映画では、なかなかそうならない。しっとりと作品世界を閉じて終わったりしない。むしろそこから、真に世界が広がっていくように、あたかもそれまでのあれこれは前振りだったのだと宣言するかのように、終わるのだ。

「俺たちは反撃していく」と宣言する『ダンケルク』、「美しい友情の始まり」を経験し作戦に従事し始める主人公を写す『テネット』、そしてラストに時系列的に最初の部分に到達する『メメント』などなど。いずれのラストも、何かが終わることより、始まることを強調している。音楽や映像も、それに合わせて派手になっていることがほとんどだ。何なら、作品中で最も盛り上がる演出が施されていることさえ、少なくない。これこそ、何度も僕が言ってきた「俺たちの戦いはこれからだ」感だ。

この「俺たちの戦いはこれからだ」感は、見る者たちに、映画館を出た後も、映画が続いていくような感覚を与える。言うなれば、作品を見終えて、生活に帰っていく際に、多かれ少なかれ襲ってくる寂寞から、観客を救っているのである。勿論、見終わった後も映画の中に観客を捕らえ続けよう、という、いやらしい作戦と取ることもできるだろう。どちらにせよ、ノーラン映画のラストにこんな魔力があり、多くの人がその魔力に感染しているのは確かだ。

思うに、僕を含めた多くの人は、先程言った寂寞を恐れている。おそらく、昔からそういう人は沢山いただろう。祝祭のなかに、いつまでも浸かっていたい、普通に戻りたくない。このような思いを抱いたことがない人は、ほぼゼロだと思う。しかし、今は様々なテクノロジーの発展を介して、その思いを叶えやすくなっている。その気になれば、好きなだけ祝祭気分を味わえることに気づいた人々は、もっともっとと、終わらない祝祭、あるいは喜びや癒しに包まれた生活を、求め出しているのかもしれない。極論だが僕は、「アットホームな職場」などといった言葉が流行る背景には、このような欲望の拡大がある気がしている。

そして、図ったか否か、ノーラン映画はそんな欲望に対する、映画界からの最強のアンサーとなっている。ノーラン映画の「俺たちの戦いはこれからだ」感は、何ならここからが本番!、と言わんばかりに、映画が終わった後も客の心を捕らえ続けようとする。客も自ら、自らを映画の興奮に捕らえ続けようとするかのように、あのラストに酔っ払いまくる。この共犯関係とも呼べる何かが、ノーラン映画をぶち上げていると、僕には思えてしまう。ちょっとした極論だとわかりつつも。


因みになのだが、自らを自らの計画や欲望の内に捕らえ続けようとする、という状況はノーラン映画の中で度々見られる構図でもある。またいずれ、別の文でもっと詳しく語るつもりだが、ここにこそノーラン映画の本質が詰まっていると僕は考えている。

出世作『メメント』が代表だ。ネタバレになってしまうがこの映画は、記憶が十分しか続かない主人公が、自らそれを利用して、とっくに終わった使命を何度も繰り返している、という実にしんどいオチを持っている。

前作『テネット』も典型例だ。この映画の主人公は、決して理解が追いつかない大規模すぎる作戦にひたすら従事し続けることを選択する。作戦の中で自らを無くしていくことの快感を、見事に描き尽くした怪作と言えるだろう。

『オッペンハイマー』も間違いなく、この系統に属している。あとで詳しく述べていくことになるだろうから控えめにしておくけれども、この映画が描くのは、自らの進めた計画で、自分だけでなく、世界中をも包み込んでしまった人間の悲劇だ。これこそ、自らを自らの計画の内に捕らえ続けようとする物語の極地だと言える。


話を戻そう。『オッペンハイマー』の成功にも、いや、にこそ、ノーラン映画のラスト最大の特徴である「俺たちの戦いはこれからだ」感が影響している。『オッペンハイマー』ほど、この感覚が活きる題材は、多分他にない。


 この相互作用を語る前に、大事な話をしておこう。

『オッペンハイマー』は広島と長崎の惨劇を描く作品ではない。原爆症といった核兵器独特の危険性、非人道性を強調する作品でもない。言ってしまえば、原爆の扱い自体、世界を破壊しうる強力な爆弾、という程度のものだ。核戦争への恐怖と人間の業を描き出した作品なのは確かだが、それは広島と長崎や原爆症を描くことに繋がっていない。勿論、歴史上、広島と長崎に原爆が落とされ、原爆症や差別が被害者たちを襲ったのは事実なわけだし、映画内のどこにもそれらが見つからないということはない。しかし、割かれていた尺は、予想よりもずっと短いものだった。

本作における広島と長崎に対する原爆投下は、核の時代の幕開けとして以上に機能していない。このことに対して、不満を感じる人は少なくないだろう。特に日本人の中には。実際僕も見ながら、もう少し描いてくれてもいいんじゃないかな、と感じた。この映画が広島と長崎で起きたことを軽く扱っているとは言わない。でも、何とかならなかったのかなぁ、とはついつい思ってしまう。

しかし皮肉なことに、広島と長崎や原爆症に軸足を置いていないという点こそ、この映画と「俺たちの戦いはこれからだ」感の見事な噛み合いに繋がっていくのだ。僕は、ただ「広島と長崎への原爆投下と核兵器の非人道性が描かれていないことに不満を持った」と伝えるためだけに、さっきの話をしたのではない。勿論それもあるが、代わりにこの映画の軸になっているのは何なのか語りたいからこそ、そこに「俺たちの戦いはこれからだ」感との融合があるからこそ、先ほどの話を展開したのだ。


広島と長崎や原爆症の代わりに、『オッペンハイマー』の軸足が置かれているのは、冷戦により激化する軍拡競争であり、その結果我々は今もなお、全てが一瞬で吹き飛んでしまう危険に晒されている、そんな世界に捕らえられているのだ、という事実だ。今もなお、という点が重要だ。本作は徹底して、核戦争で全てが吹き飛んでしまう、という恐怖を過去のものにしない。映画で描かれているあらゆる劇的な出来事は、いずれも始まりに過ぎず、その先、我々が生きている今こそが、この映画の本編なのだと、つまり、「俺たちの戦いはこれから」なのだと、強調してくるのだ。

おそらく、この構図を守るために、広島や長崎や原爆症は軸足を外された。歴史上の一点で起きてしまった巨大な暴力、という印象に作品を回収させないため、実際の惨劇を強調しないことを『オッペンハイマー』は選んだのだろう。


結果、これ以上にないほど「俺たちの戦いはこれからだ」感に溢れた、素ん晴らしいラストが誕生した。

いつも通りというべきか、本作はラストとは思えないほど盛り上がる演出の中で終わっていく。具体的に言えば、激しく鳴り響くメインテーマの中、序盤に残しておいた問いに対する答えが明かされる場面で、作品が締められるのだ。しかも、オッペンハイマーが思い浮かべる核戦争の映像までついている。そこには明白に、あの「俺たちの戦いはこれからだ」感が現れている。

言うまでもないが、「俺たちの戦いはこれからだ」感は、『オッペンハイマー』の主題と恐ろしく相性がいい。いつ全てが滅んでしまうかわからない状況が始まってしまったのだ、人間は自らをそんな危機の中に捕らえてしまったのだ、と訴えかける映画に「俺たちの戦いはこれからだ」感。鬼に金棒と言って然るべきだろう。

当然ながら、ここに浮かび上がるのはいつもの、寂寞から我々を救ってくれるワクワクだけではない。我々が生きているのは、正にオッペンハイマーたちが作り上げた危機の内部なのだ。「俺たちの戦いはこれからだ」という感覚が、今までにないほどの切迫感を持って我々を襲う。

逆に言えば、ここには切迫感だけでなく、ワクワク感もある。つまり、ワクワクと切迫という、一見矛盾した感覚を、観客たちは一身に浴びることになる。このグチャグチャした体験は、皮肉なことに、心身が引き裂かれるようなとんでもない感動を与えてくれる。かくして、『オッペンハイマー』は他では味わえない種類の感動を打ち込んでくる、素晴らしい映画として、僕の心に刻まれるに至った。

涙目になった、とはっきり告白しておこう。そのために、広島や長崎や原爆症など、核兵器について考える際に欠かせないはずの要素が切り縮められたのは間違いないし、決してこのことを忘れたくはない。でも僕は確かに、涙目になっていた。改めて自らの涙を強調して、この文を終えよう。

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