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それでも、「滅び」は美しい。 第三稿

【連載】あれこれと、あーと Vol.6

刹那を斬り、一瞬の美を永遠にする男

アート/空家 二人を訪問した後日、今度は東京工芸大学 写大ギャラリーで開催中の土門拳写真展へ向かった。

土門拳は戦後日本を代表する写真家だ。
『文楽』『ヒロシマ』『筑豊のこどもたち』など、日本の伝統文化や社会性の高いテーマを主軸とし、「リアリズム写真」を追求し続けた人である。

若かりし頃の土門拳

「写真の鬼」とも呼ばれた土門拳は、徹底したリアリズムで、対象の一瞬をファインダーに収める天才だ。完全主義者であり、辛抱強く執念深い男。

被写体を前にして、納得ができるまで何度も、何日も、何回も撮り直す。「ここだ」と決めたら、まさに剣士の一振りの如くシャッターを押す。その刹那を切り取って、一瞬の美を閉じこめるのだ。

『古寺巡礼』は土門拳がライフワークとして長年取り組んだ作品群であり、著名なシリーズとして名高い。今回の展示を見ても、なるほど土門氏の情熱や執念がよくわかる。点数はさほど多いわけではないがどれも濃密な作品ばかりだった。

仏たちの衣のひだや掌の厚み、彫り込まれた木目のこまやかさまで、ひしひしと伝わってくる。クローズアップで撮られた仏像や苔に覆われた石像たちの、異様なほどの存在感…。喰らい尽くすかのような勢いで仏たちを見る、土門の鋭い眼差しを感じる。

土門拳撮影:木造普賢菩薩騎象像(国宝、大倉集古館所蔵)
(美術出版社『日本の彫刻 Ⅴ「平安時代」』 1952年3月5日発行

見つめる先に在るもの。それは…

奥に進むと、吉祥天の横顔を撮った作品が目に止まった。
艶やかな唇。ふっくらとした白い頬。涼やかな半眼…。この世のものではない美しさがモノクロの世界に浮かび上がる。
凛とした佇まいと力強い存在感に、思わず胸が締め付けられ、縋りたくなるような気持ちになってしまった。

人が仏を前にして思わず手を合わせる気持ちが少しわかる。
人は弱い。泣きながら母を探す幼子のように、迷い、彷徨っている。仏は、そんな迷いや苦悩を抱きとめ、打ち払ってくれる存在なのだろう。(と、思わせてくれるのだ。)

彫られ、描かれ、記される。そこに、神の存在を見い出す。

寂れを纏った古刹、欠けた仏、苔や緑に覆われ、深山の中で佇む地蔵たち…。遥かな時の中で朽ちつつあるものたちなのに、この迫力は何だろう。むしろその侘び寂びに格別な美しさを感じてしまう自分がいる。

時間は、人が生み出した概念だ。時間の進み方は観測者によって異なるし、時間とはつまり、複数の出来事同士の相互作用に過ぎない。けれど私は、物質の変化を時間(過去や未来)という言葉で捉えて、その幻に酔うのが好きだ。その方がドラマチックだし、超越した何かを感じるから?答えはわからない。

物体の変化に「時の流れ」という抽象的な概念をトッピングし、その果てにある滅びや朽ちへの無常さ、切なさを抱く。私も、仏たちにまとわりつく苔や錆び、綻び、煤けに、悠久のを感じ、「滅び」という幻想に、強く惹かれているのかもしれない。

金閣寺を燃やしても、「永遠の美」にはならない。
古刹や仏の朽ち果ては「物体の変化」に過ぎない。

けれど、目に映るものたちに、蜃気楼の如き美しさを見出さずにはいられない。滅びの美を感じずにはいられないのだ。だからこそ、この刹那の美を永遠にしたいと希うのだろう。若き僧が火を放ち、写真家がファインダーに閉じ込めたように。

筆者が運営しているWEBギャラリーです。
「アートをもっと、そばに」がコンセプト。
よければ遊びに来てください。

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