それでも、「滅び」は美しい。 第三稿
刹那を斬り、一瞬の美を永遠にする男
アート/空家 二人を訪問した後日、今度は東京工芸大学 写大ギャラリーで開催中の土門拳写真展へ向かった。
土門拳は戦後日本を代表する写真家だ。
『文楽』『ヒロシマ』『筑豊のこどもたち』など、日本の伝統文化や社会性の高いテーマを主軸とし、「リアリズム写真」を追求し続けた人である。
「写真の鬼」とも呼ばれた土門拳は、徹底したリアリズムで、対象の一瞬をファインダーに収める天才だ。完全主義者であり、辛抱強く執念深い男。
被写体を前にして、納得ができるまで何度も、何日も、何回も撮り直す。「ここだ」と決めたら、まさに剣士の一振りの如くシャッターを押す。その刹那を切り取って、一瞬の美を閉じこめるのだ。
『古寺巡礼』は土門拳がライフワークとして長年取り組んだ作品群であり、著名なシリーズとして名高い。今回の展示を見ても、なるほど土門氏の情熱や執念がよくわかる。点数はさほど多いわけではないがどれも濃密な作品ばかりだった。
仏たちの衣のひだや掌の厚み、彫り込まれた木目のこまやかさまで、ひしひしと伝わってくる。クローズアップで撮られた仏像や苔に覆われた石像たちの、異様なほどの存在感…。喰らい尽くすかのような勢いで仏たちを見る、土門の鋭い眼差しを感じる。
見つめる先に在るもの。それは…
奥に進むと、吉祥天の横顔を撮った作品が目に止まった。
艶やかな唇。ふっくらとした白い頬。涼やかな半眼…。この世のものではない美しさがモノクロの世界に浮かび上がる。
凛とした佇まいと力強い存在感に、思わず胸が締め付けられ、縋りたくなるような気持ちになってしまった。
人が仏を前にして思わず手を合わせる気持ちが少しわかる。
人は弱い。泣きながら母を探す幼子のように、迷い、彷徨っている。仏は、そんな迷いや苦悩を抱きとめ、打ち払ってくれる存在なのだろう。(と、思わせてくれるのだ。)
寂れを纏った古刹、欠けた仏、苔や緑に覆われ、深山の中で佇む地蔵たち…。遥かな時の中で朽ちつつあるものたちなのに、この迫力は何だろう。むしろその侘び寂びに格別な美しさを感じてしまう自分がいる。
時間は、人が生み出した概念だ。時間の進み方は観測者によって異なるし、時間とはつまり、複数の出来事同士の相互作用に過ぎない。けれど私は、物質の変化を時間(過去や未来)という言葉で捉えて、その幻に酔うのが好きだ。その方がドラマチックだし、超越した何かを感じるから?答えはわからない。
物体の変化に「時の流れ」という抽象的な概念をトッピングし、その果てにある滅びや朽ちへの無常さ、切なさを抱く。私も、仏たちにまとわりつく苔や錆び、綻び、煤けに、悠久のを感じ、「滅び」という幻想に、強く惹かれているのかもしれない。
金閣寺を燃やしても、「永遠の美」にはならない。
古刹や仏の朽ち果ては「物体の変化」に過ぎない。
けれど、目に映るものたちに、蜃気楼の如き美しさを見出さずにはいられない。滅びの美を感じずにはいられないのだ。だからこそ、この刹那の美を永遠にしたいと希うのだろう。若き僧が火を放ち、写真家がファインダーに閉じ込めたように。