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当たり前を塗り替える
慣例行事、所属する団体、事務的な作業、当たり前に受け入れていることって本当に必要か、という話
度々このnoteでも愚痴のように記しているが、ある所属する団体の話。
慣例行事になっている総会なるものが4月に毎年行われる。今年もそれぞれの役割りで準備を進めるように、との指示があり、資料の作成やら会場との交渉やらと、それぞれが当日に向けて動くのだが、去年は新型コロナウィルスの影響で中止(ギリギリまで開催する方向であった)、今年も開催は危ぶまれているが、上層部はやる方向で話を進めている。
去年1年間の動向も、慣例行事の予定を立てては、ギリギリで中止の繰り返し。どちらかというと上層部は少々無理にでも開催したい空気があるらしいが、所属している人間の反対意見や不参加の表明にことごとく中止にせざるを得ないといった様子だなのだ。
正直、1年や2年活動ができなくともなんの支障もない団体ゆえ、活動の実績として残したいのであれば、「団体に所属している方の健康を第一に考えて事態が終息するまで活動休止」、ということで書類のみの作成(後日配布)で全員納得すると思うのだが、なぜ無理に活動しようとしているのか理科不能である。
そして、各催しの後にはもれなく宴会がセットになってついてくるのだが、ソーシャルディスタンスを取っている、とか換気を徹底した会場で、とか皆さんのコロナ疲れを労ってとか、無責任な理由をあげては飲もうとする姿勢が本当に悲しい。
上層部をはじめ運営に関わっている方々は、所属する人間から活動費を徴収していることで、しっかりと活動しなくては批判される、という内向きなモチベーションで運営なさっているようだが、活動費を支払っている方はあくまでも所属していることで相互のメリットを享受できれば、というベクトルで活動を見守っている方々がほとんどだろう。
よって、双方の安全や健康に配慮した姿勢を打ち出してほしいところを、「こんな有事の中でもしっかり活動してますよ」というアピールのみに終始されたところで気持ちも冷めてしまうのである。
こうした団体は世の中には無数に存在するのだろうと推測するが、本当に何のために存在するのか首をかしげる。すでに機能していないと誰も気づいていないのか、もしくは気づいてはいるが、今更波風を立ててまで行動を起こさなくても、という事なかれ主義が多いのかはわからないが、時間と労力を割いている以上、できるできないは別として価値を創造する方向に意識を向けていくのが筋かと思うが、同種の人間で組織される団体は変わりようがないのもある程度理解している。
ではどうすればいいか。自分が距離を置く、ということ以外に選択肢はないと思う。
今まで受けた恩恵や義理などもたくさんあるが、変わる必要性を感じてもらえず、変わる提案も流されてしまうのなら、そこにはいる意義はもうないのである。
今期を目処に退会することを本格的に視野に入れて残りの時間をやり過ごそうと思う。
当たり前の存在や習慣に時折疑問を持つ。なぜ当たり前か、なぜそうでなければならないのか、突き詰めていくと必要のないものがたくさんあることに気づく。