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キレイごとを血肉にする

世の中にあふれる言葉の数々をどうとらえるかで意味合いが変わってくる。意識の仕方で至言にも戯言にもなる、という話

今朝、なんとなしに自室を見渡していたところ、ある本が目に入った。

1年前に読み終えた本で、付箋や赤線、メモを記してあった本なので、その当時にはそれなりの学びや気づきがあったものである。

読み返したのには他の理由があったのだが、ペラペラとページをめくっていく中で、付箋の箇所とは別のページでいくつかの言葉が目に飛び込んできたのだ。率直に、なんでこんな大事な箇所を付箋も貼らずに読み飛ばしてしまったのだろうと考えていたのだが、答えは簡単で、その当時の私には刺さる言葉ではなかっただけのことである。

この様に、成長の度合いや理解の深さによってセンサーにかかる言葉や事象はいくつもあるのだ。普遍的な金言や至言、著者の意図をくみ取れなかった言葉などが、あるときいきなりドンッと心に響き、腹落ちするタイミングがある。

幼少期に叱られた際に親から言われた言葉や、学校の先生や大人が投げかけた言葉が大人になって急に理解できるようになる、アレだ。

当時はそんなキレイごとと頭が拒否反応を起こし、放っておいた言葉が、必要なタイミングで急に金言へと昇格する。

そんな言葉のマジックは大人になった今でも、この本のスルーしてしまった箇所のように往々にして起こるのだ。機が熟す、ということもあるだろうし、その言葉を受け入れるだけの免疫ができていなかっただけのこともあるだろうが、世の中にあるキレイごとの数々は淘汰されず残っているのにはやはりそれなりの理由がるわけだ。

受け取る側の問題で、いかに物事を自分事ととしてとらえるか、意識して言葉や事象の奥を深く読み取るかで、戯言にも血肉にも変化するのだ。

読み終えた本の中からも見つけてしまうくらいなのだから、良書と呼ばれる本や長く読み継がれている本は時期をみて読み返すという行為も必要になってくるのかもしれない。

とはいえ、まだ手つかずの積読が自室の本棚に相当数、鎮座している。

圧倒的に時間が足りない。私の読むスピードや読書スキルの乏しさにも関係するが、この先どれほどの本から人生や仕事の血肉となる知見を得ることができるのだろうか。

以前、小手先のビジネス本ばかり読み漁り、当時師事していた講師の方に「読むべき本を読み切ってしまい、読む本がなくなった」と調子に乗って発言したことが恥ずかしい。視点をずらし、まわりを見渡せば生涯読み切れないほどの良書ばかりなのに、である。

カメの歩みほどの成長速度だが、自室の本を読み返しては自身の成長を感じた早朝の感慨であった。

新書にも学びや気づきはあるが、一度通り過ぎた本や経験にも意識を向けることで新しい発見はあるのである


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