暗渠道への誘い 烏山川編① ~暗渠サインへ応答せよ~
烏山川を初回に持ってこないわけにはいかなかった。
世田谷学園から一番近い所にある、というのが理由の一つ。
また、緑道として整備されているエリアが多く、暗渠レベルとしては初心者向けで、歩きやすいというのも理由だ。
つまり、私は何が言いたいかというと、何かの縁でこの記事を読んでしまったあなたに、烏山川の暗渠をぜひ辿ってほしいのである。
本学園の関係者ならば、正門を出て帰りがてら、ちょっと7kmほど散歩するだけである。
一般の方でも、暗渠の起点は池尻大橋駅から徒歩10分程度とアクセス至便、しかもその間に別の暗渠(目黒川緑道)も辿れる場所である。ぜひ目黒川から辿って散歩していただきたい。
烏山川が暗渠になった経緯などについては、後ほど紹介することにしたい。本稿では、前回の序章で述べた「暗渠の手がかり = 暗渠サイン」にスポットを当てて、烏山川をさかのぼっていく。
この川は、特に下流側は、緑道としてきれいに整備されすぎてしまっている感もあり、暗渠の魅力のひとつである「裏側感」はやや薄い。
しかし、「暗渠を歩いていると、こういう暗渠サインをよく見かけるんですよ」という、代表的な暗渠サインに次々と出会うことができる。
はじめに、今回のルートを地図で示しておこう。(Google My Mapsが見られない方は1つ下の画像をどうぞ)
この地図では最も東の方に位置する世田谷学園の前から、話を始めたい。
魅惑のトリプルジャンクション
生徒にはおなじみだが、世田谷学園の正門前の道は、けっこうな坂道である。この道は国道246号線から分岐して北上するのだが、その分岐地点は標高が32m。そして正門前の標高が28mなので、4mも下っている。この坂道はさらに北へと下り続け、最終的に標高が21mまで落ちて、窪地のような場所に出る。その地点が次の写真だ(この写真では、世田谷学園は奥の方)。
道路が交差している地点だが、左右に走る道路と並行して、東西方向にそれぞれ続く遊歩道(緑道)が整備されている。もうお気づきだろう。
どうも、烏山川です。今ではすっかり、地上は緑道となっています。
これらの写真にも既に「暗渠サイン」が複数写っているのだが、いったんこの場所の解説は置いておき、緑道の先にある「烏山川の起点」から紹介したい。この交差点から緑道を東へ400mほど進むと、たいへんな重要地点にたどり着くのだ。
写真の左奥から来るのが、いま辿ってきた烏山川緑道。右奥からやってきている別の道は北沢川緑道。合流した緑道は、名前を目黒川緑道と変えて、写真の下方向へと続いていく。これら3つの緑道すべてが暗渠である。つまり、かつてこの地点は、烏山川と北沢川が合流し、目黒川となっていた、川の合流地点だった場所である。
中央の標柱には3つの緑道の名前が記されている。
名のある川が2本合流し、別の名の川になる、そのすべてがすっかり暗渠になっている、という場所は、都内でも貴重なのではなかろうか。
そんな場所が徒歩10分以内の場所にある世田谷学園は、大変恵まれていると言わざるを得ない。ぜひこの場所で、2つの川が流れ来て、1つに合わさり流れ下っていく、そのかつての水面を想像してほしい。
ちなみに、かつてここは、池尻村、池沢村、三宿村、という3つの村の境界だったという。川は行政上の境界となっていることが多い。現在もこの場所は、世田谷区三宿2丁目、池尻3丁目、池尻4丁目の境界である。
さて、というわけで、烏山川の遡上は、このトリプルジャンクションから始まる。
川跡だと気づかない人がいないレベル
烏山川緑道を起点から歩いていくと、さっそく、緑道のわきを水が流れていて、拍子抜けしてしまう。「なんだ、烏山川、暗渠と聞いていたけど、今でも流れてるんじゃないか」と。
騙されてはいけない。これはフェイクの烏山川である。
きれいに整備された緑道では、このような「当時の川の流れを思わせるせせらぎ」が、あとから作られていることがある。流れている水は、烏山川の水ではなく、新宿区落合にある再生センターで下水を処理した水だ。(現在の烏山川の水をそのまま流すわけにはいかないだろう。なにせ、それは下水道管の中の水ということである)
ちゃんと説明の看板も出ている。
暗渠愛好家としては、このような人工的なせせらぎは正直あっても無くてもよいのだが、周辺住民の方、緑道を散歩する方にとっては憩いの場となっているほか、さまざまな動植物の棲み処になっている。烏山川緑道では、この先にも途切れ途切れに数カ所、このようなせせらぎが作られている。なお、北沢川緑道、目黒川緑道にも、同様のせせらぎが存在する。
さてこのあとは、大変わかりやすい暗渠サインである「橋の痕跡」が、序盤から連発される。これは、川が無ければほぼあり得ない構造物だ。
まず「みいけはし(三池橋)」と「みしゅくはし(三宿橋)」。金属製の橋名板がついた柱が現れる。橋名板は古びているものの、字体がどうにもポップで、橋があった当時のものなのか少々疑問ではある。コンクリート部分は年季を感じさせるので、親柱(橋の両端にある太い柱)の実物をこうして残したものかもしれない。
最初に紹介したポイントに戻ってきた。
世田谷学園の生徒のうち、池ノ上駅や下北沢駅を通学に使う生徒は、毎日ここで烏山川を渡っている。しかし、ここにあった橋の名前を知っている生徒はほとんどいないだろう。書いてあるのだが。
ここには「多聞寺橋(たもんじばし)」と書かれた橋名板がある。さらに、写真では見にくいが、「昭和三十二年三月成」とある。烏山川の暗渠化は昭和40年代なので、案外、この橋の寿命は短かったことになるが、昭和32年まで橋が無かったとも考えにくい。おそらく、ここにはもっと古くから多聞寺橋があり、何代かにわたって架け替えられ、その最後の代が昭和32年完成だったのだろう。
なお、柱の部分はかなり新しいため、当時のものではなさそうだ。
よく見るとこの地点、川だった部分だけ、道路のアスファルトの色が違うのがわかる。暗渠がこのような形で地表に現れ、主張してくるケースも多いのだ。
さらに西に向かって、烏山川緑道を進む。
この緑道、序盤の典型的な光景はこんな感じ。それなりに開けていて両側には緑も多く、そしてしっかり舗装されている。
一見すると普通の道である。しかし、写真ではわかりにくいのだが、道に対して、ほぼすべての家が玄関ではなく裏口を向けているということに気づきながら歩きたい。これも暗渠ならではなのである。
道沿いに池のようなものが現れ、水面もあるが、これもやはり、あとから作られた人工的なもの。かつて水辺であったことの記録なのだろう。
暗渠から、支流の暗渠が分岐していくこともよくある。
この支流の先は絶品なのだが、その紹介はまた別の機会としたい。
橋の名前を書いた柱が、これでもかと出現する。もう、この道が川だったことに気づかない人はいないだろう。(そもそも「烏山川緑道」という名前もあちこちに書かれていて、「川」の字が目に入る)
この3つは、当時の橋名板や親柱が残っているわけでもなく、橋の名前を記録した柱があとから建てられただけだ。橋の痕跡というより、「記念碑(モニュメント)」あるいは「墓標」に近いものである。
写真右の「一善橋」のように、非常に簡素な、申し訳程度のものもよくある。こんな形であっても、橋の名前が残っているだけいいのかもしれない。何も残されないケースもよくあるのだ。
それぞれの暗渠サインは「確率」
緑道からは南に少しだけ離れた位置だが、富士見湯という銭湯がある。実は、「銭湯」は重要な暗渠サイン。暗渠道をたどっていると、銭湯を見かけることがよくあるのだ。
下水道設備が不十分だった時代、銭湯から出る大量の排水は、そのまま川に流していた。だから、最初から川沿いに銭湯を作ることが多かったと言われている。この富士見湯だけでなく、このあと出てくる太子堂小学校の裏側にも、八幡湯という銭湯がある。
茶沢通りとの交点には、「昭和二十六年十一月竣工」と書かれた橋名板が、ひっそりと掲げられている。このように、橋ができた年月まで残っているものは少ない。橋の名は、別の板にある「太子橋(たいしはし)」。橋名板は当時のものだが、橋の構造物そのものは後世に新たに作ったものだろう。交差点で人通りの多い商店街に位置するからか、やや立派なものが作られている。
少し進むと、太子堂小学校の前を通る。
「学校」というのも、実は暗渠サインの一つ。暗渠道を歩いていると、学校に出くわすことが多い。学校を作るための広い土地を確保するにあたって、開発の遅れていた川原の土地を利用することが多かったためではないか、と言われている。同じ理由で、大規模な団地や、レアなところでは自動車教習所、バス会社の営業所なども、川跡に作られるケースがあったため、暗渠サインとして機能する。
暗渠サインはあくまでも、「可能性」や「確率」を示すものだと考えてほしい。銭湯や学校がある場所が必ず暗渠だ、ということではない。でも、「暗渠風の道をたどっていたら銭湯や学校があった」としたら、その道が暗渠である可能性が高まる、といった具合である。複数の暗渠サインが重なってくれば、そこが暗渠であることが確信できるようになってくる。それはまるで、謎解きをしているようで、暗渠巡りを面白くしてくれる要素の一つだ。
太子堂小学校の前では、右岸のコンクリート壁が少し高くなっている。そしてここでは、暗渠サイン「突き出し排水管」が見ものである。序章でも述べた通り、地下に下水管があることを示すサインである。
他に、コンクリート壁が不自然に切れている場所がある。かつてはここに階段なり扉なりを設けて、住人が裏庭から川へと出ていたのではないか、と想像させる光景だ。
この後しばらくは、モニュメント型の橋の痕跡がたくさん現れる区間。これはもうダイジェストで。
ついに、橋の名前だけでなく「跡」という文字まで入ってしまった。
整備された緑道の暗渠道でよく出くわすのが、遊具やベンチが置いてあり、さながら公園のようになっている光景だ。
……と、いうよりも、行政管理上はこの緑道は「公園」なのである。なんとも細長い公園ということになる。
そんな風景を楽しみながら、世田谷区若林1・2丁目の住宅地の中を抜けていく。やはり左右の家々は、玄関ではなく裏口を向けてくる。
哀愁の遺構、そして激レア暗渠サイン
起点からここまでずっと、「かつての烏山川の水面上」を歩き続けることができた。しかし、ついに初めてそのラインがぶった切られる。幹線道路、環状七号線(都道318号線)との交差地点である。
ここのすぐ南には、「電車が道路を渡る際に、信号待ちをして止まる」という変わった風景で有名な、東急世田谷線の若林踏切がある。その部分が信号と横断歩道になっているためか、緑道の方は信号や横断歩道などが設置されず、道路でスパッと切られてしまった。渡れない。
そしてそのそばには「若林橋」のモニュメントがあるのだが、その奥に……おっ!?
起点から2kmあまり。ついに初めて、当時の親柱と欄干のセットが現れる。
欄干は鉄パイプとコンクリート柱でできており、通行のために、その中央部分が切断されている。切断の跡もくっきり見える。
親柱には「昭和三十五年三月」とあるので、十分古い橋だが、前に出てきた「多聞寺橋」と同様、この橋ができてからおそらく10年ほどで川が暗渠となり、橋としての役割を終えてしまったことになる。以来、中央を切断された姿のまま、おそらく半世紀近くも、この場所に残っている。今やほとんど顧みられることのない「遺構」として。その姿には哀愁を感じないだろうか。
こちらは環七を渡った西側。ここにも同様に、中央が切断された若林橋がある。真新しい街区表示板も貼られている。川は行政境界となっていることが多いので、暗渠では街区表示板もよく見かける。
そして、奥に写っている親柱の裏側には、とんでもない暗渠サインが……!
うわあぁぁぁこんなものがこんな場所に残っているなんてえええ
と、初めてこれを見たときは感動してしまった。
……が、モザイク処理させていただいた。
なんというか、すべてをこの記事中で明らかにしてしまうのも、ちょっと勿体ないなというのが本心なのである。
冒頭で述べたように、私はこの暗渠を皆さんに辿ってほしいと思っている。
なので、全部をネタばらしするよりも、少しは謎を残しておいてもいいのではないかと思う。
この柱に残っているのは、かなり珍しい暗渠サインだ。でも、昔ここが川であったことを確実に示す証拠である。気になってしまったら、ぜひ直接確かめてほしい。
(※実際に見に行って、そんなに心躍らなかったら、申し訳ない)
なお、この地点は若林駅から徒歩1分である。なんならここだけを見に世田谷線を途中下車してもいいくらいだと思うのだが……いかがだろう?
* * *
さて、まだまだ緑道は続くのだが、さすがに記事が長くなってきたので、ここでいったん筆を擱くことにする。
(全行程およそ7kmの烏山川緑道、まだ2kmほどしか来ていませんけど!?)
ここまではわりと「整備された緑道」という側面を見せてきた烏山川緑道だが、上流部では違った顔を見せてくる。上流部にも暗渠サインそのほかの見どころがあるので、また近日中に紹介しよう。
柏原 康宏(かしわばら やすひろ・理科)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?