学校の学校⑴ 「あなた自身が一番大事」
こんばんは。
坂口恭平先生の「お金の学校1」の卒業生の吉田カンゾーです。卒業したので、さっそく独立・開校を行うことにしました。開校する学校は学校の学校です。なんだかわかりませんね、「学校の学校」という学校を開校します。
学校の学校は学校についての学校です。なぜ私吉田カンゾーが学校についての学校を開校するかというと、私自身学校の先生で学校で教えてきたからです。でももう辞めました。その話はいずれします。ですからもう学校の先生ではありません。
学校の学校ではどんなことを教えるのでしょう? 学校へ行かなくてはいけない理由? 違います。学校で生き延びる方法? うーん、ちょっと、いやかなり違います。「学校になんか行かなくてもいい」 いや、そういうことを言うこともあるかもしれないですけど、違います。あるいは、この全部、あるいはここに書いていないこと、あるいは校長である私もまだわかっていないこと、考えていないことです。これは、坂口恭平先生も書いていますし、私の師匠の一人である(勝手に師匠と認定している「私淑」ってやつです)小説家の保坂和志先生も言っていることです。考えて、言いたいことがあるから書くんじゃないんです。書くんです。書くことによって、考えられるんです。書くことによって、書いている人自身が変わっていくんです。だから、私自身、何を教えるかはわかっていません。わからないけれど、書いていきます。だから、間違えることもあるかもしれません。一度考えたことを、間違っていたといって訂正するかもしれません。それで、でも、私はこの学校で学校の先生でありながら、変っていくんです。楽しみで仕方ありません。
坂口恭平先生は私の先生です。お金の学校の先生です。パステル画の先生です。会ったことはありません。坂口先生が私の先生になったのは、おそらく坂口先生が交差点のパステル画をツイッターに投稿したときです。それを私が見たときです。このとき坂口先生が私の先生になりました。多分7月とか6月です。3か月前です。私は坂口先生が先生になっていなかったら、もしかしたらまだ学校の先生を辞めていなかったかもしれません。学校の学校の先生ではなく、学校の先生だったかもしれません。あるいは、もしかしたら死んでいたかもしれません。死んでいなくても、病気で休職していたかもしれません。休職していなくても、体はくたくたで、頭は重くて、もう何も考えられなくて、それでも「頑張ることが大事」と思って仕事に行っていたかもしれません。でも、坂口先生が先生になりました。だから、私はいま毎日が楽しいです。収入は今んとこ減りました。でも「大丈夫」だと思っています。いろんなことが頭に浮かびます。彼女とも沢山時間を過ごせるようになりました。父親とも母親とも時間をたくさん過ごせるようになりました。10年以上していなかった部屋の片づけをしました。忘れかけていた釣りという趣味を再開しました。坂口先生が先生になったからです。
何を書いているんでしょう? でも、先生が誰に学んだかということは大事なんです。昔から「子曰く」って言うんです。「先生はこう言った…」そう言って、それを聞く人がいて学んできました。そうやって学校はできてきたんです。
私の先生は坂口先生だけではありません。何人も何人も先生がいますが、今大切な先生はさっきも名前を出した保坂和志先生です。保坂和志先生は、大学の時に私が読んだ本で、保坂先生が会社員をしていたときに飼っていた犬が死んでしまったのに泣きながら出勤した同僚に、「犬が死んだんなら会社なんか休めよ」といった話を書いています。私はその話をいつも思い出します。いや、学校の先生をしている間は、この大切なことを忘れかけていましたけれど、今また毎日思い出しています。仕事なんて飼っていた犬が死ぬこと、その死を悲しむことより大事なものではないんです。学校も一緒です。だから私は、仕事である学校の先生を辞めることができたんです。学校の先生をしていた時、彼女はよく言いました。「出産に立ち会える?」私は言いました。「仕事があるからわかんないな」彼女は悲しんでいました。でも仕方ないと思っていました。でも今は「立ち会えるよ」と言えます。バカなことだなと思うかもしれません。私も仕事をしていた時はバカなことを聞くなと思いました。でもバカなのはどっちでしょう。
文体がずいぶん坂口先生に似てしまっています。でもこれも坂口先生が言う「流れる」っていうことでしょう。だから気にしないことにします。
もう一人の先生は、一人なのかわからないですけれど、『うつヌケ』という本に出てくる人たちです。『うつヌケ』は鬱病からの生還者たちに取材した漫画です。生還者の先生たちは、鬱のサインを無視して頑張り続けてしまったために、鬱を発症してしまったことを告白しています。そして今は、鬱のサインとうまく付き合いながら生活をしていることを教えてくれます。私は、幸い鬱病にはなっていませんが、10年間学校の先生という仕事をしながら働き過ぎだなと思っていました。がんばれるけどいつかだめになるかもしれないなと思っていました。だからそのときは『うつヌケ』の先生たちが教えてくれた「サイン」を見逃さないようにして、仕事は辞めようと決意していました。仕事をかなりしていましたが、「病気になったら辞める」と自分に逃げ道を用意していたんです。で、今回この逃げ道を使いました。でも逃げ道ではないです。むしろこれが正道です。この道しかないと今では思います。でもこの正道を用意してくれたのは『うつヌケ』の先生たちです。
学校の学校は何を教えるのでしょう。今日一つ考えているのは、学校が教えてくれないことは何かということです。その話です。学校は「友達を大切したほうがいい」「勉強をしたほうがいい」「頑張ったほうがいい」ということを教えてくれます。私も一生懸命そういうことを教えていましたし、そのこと自体、どのことも大切なことだと思います。今でも思います。あるいは最近の学校は、「自然環境を大切にしたほうがいい」「マイノリティを理解して共生した方がいい」「異なる文化の人と共生した方がいい」なんていうことも教えます。とっても大事なことです。でも、教えていないことがあります。それは「あなたが一番大事だよ」ってことです。「自分自身が一番大事だよ」っていうことです。「あなた自身があなた自身を大切にしないでどうすんだよ!!」っていうことです。その考えだけじゃありません。「自分自身を大切にする方法」を教えてくれません。教える先生もいるかもしれません。いい先生はたくさんいます。先生にもいい人はたくさんいます。でも学校という構造の中で、いい先生もいい人も教えられなくなってしまうことがあるんです。
学校では「友達を大切にしなさい」って教えます。「いじめはいけない」って教えます。大事なことです。でも私はその前に教えなければいけないことがあると思うんです。それが「あなた自身を大切にしなさい」っていうことです。つい命令口調になってしまいます。学校の先生をしていた習慣から抜けられないところです。「あなた自身を大切にした方がいいよ」っていうことです。
「自分自身を大切にする」ってどういうことでしょうか? おそらく、その反対から考えてみればわかります。「自分自身を大切にしない」ということです。例えば、学校のことを思い浮かべるとおなかが痛くなって吐き気もするのにみんなが頑張ってというから学校に行くことです。自分のことをいじめてきたり、仲間外れにしてきたりするやつがいる教室に、入りたくないのに入っていくことです。急に出された宿題のせいで夜眠くても眠くても目をこすりながら栄養ドリンクを飲みながら勉強することです。重くて重くて肩が痛くなるような荷物を毎日持って学校に通うことです。きつくても履きづらくても制服を着ることです。髪を束ねないのが気持ちよくてもきつく束ねることです。先生が求めてる正解を必死に考えてそれを言うことです。怒鳴り散らす先生の言うことを聞くことです。ひどい言葉で偉そうに指図する部活動の先輩に従うことです。
こういうことを、先生たちは「そんなこともできなければ社会で生きていけないぞ」って言います。「社会はもっと大変だぞ」 親たちも言います。「そんなこと我慢できなければやってけないよ」 先輩も言います。「おれたちも嫌だったけど従ってきたんだ。だから強くなれた」 それを聞いているうちに「そうなんだな」って思ってしまいます。「頑張らなきゃいけないんだな」「頑張ることは大事なんだな」「弱い自分の気持ちを強くしなきゃいけないな」
違うんです。あなたの気持ちは弱くなんかない。頑張らなくってもあなたにはできることがある。やりたいことがある。頑張らなくても楽しいこと、坂口先生の言う「流れ」のなかで生きていける。そのためにはあなた自身を大事にしよう。その、本当の気持ちを大切しよう。言われて嫌だなって思ったその気持ち、それに慣れちゃいけないんです。「え」って思った気持ち、それを忘れちゃいけない。なぜかずっと気になっているあの一言、あの先生のあの一言、あの先輩のあの一言、あの友達のあの一言…なぜか忘れられない、今思えばそんなにいやじゃったし、なんでこんなに忘れられないのかわからない、自分がなぜ引っかかっているか忘れられないあの一言。
中学の時、私吉田カンゾーは、文化祭実行委員をしていました。そのとき、衝立かなんかにする木材を一人で学校で、はりきって運んでいました。そしたら、前から先生が来たんです。なんて言ったかというと「そんなもん一人で運んだら危ないだろ!」 以上終わりです。怒鳴られました。「ちょっと危ないな」と自分でも思っていたので、やっちゃったなと思いました。それがけのことです。でもそれだけのことを15年以上たっても覚えています。あの怒鳴られたことは、私は忘れられないんです。忘れたくても。
学校も「自分を大事にしなさい」とは言います。しかし、多くの場合それは「自分で決めなさい」っていう意味です。「自分で決めて、その決めたことに責任を持ちなさい」っていう意味です。「自分で決めたら、それが気持ちよくなくても(流れてなくても)頑張りなさい」っていう意味です。一度決めたら周りはこう言います。「自分で決めたことでしょ!! 諦めていいの!?」
いいんです。自分に一貫性なんて必要ない。一度決めた自分が変わっていい。むしろ変わること自体が「流れ」です。川は流れます。ずっと同じ流れではありません。「ゆく川の流れは絶えずして」って言いましたが、それはその場所にずっと立ってたらそうです。10km上流に行けば違う流れがあります。住んでいる生き物が違います。水の色が違います。透き通っています。イワナがいます。その少し下流にはヤマメがいます。サワガニがいます。サンショウオがいます。10km下流に行けばウグイがいます。水はすこし濁りもあるかもしれません。流れが溜まっているところがあります。そこにはナマズがいます。フナがいます。アメンボがいます。さらに10km下流に行けば塩味がします。海の魚がいます。スズキがいます。ウナギがいます。ボラがいます。モクズガニがいます。変わるんです。その場所にいても川は同じ姿をしていない。台風のあともう一度来てみたら川の流れは変わっています。変わるということが自然なんです。で、変った後によくなっていなければいけないわけではありません。何が良いか悪いかなんてわからないんです。ある時点から見たらよいとかわるいとか思えるものも、別の時点から見たらまた変わっています。
だから、そのときどきの、今の自分を大事にするということです。もし、今の自分が嫌で、昔の自分の方が良かったなと思えばそこに戻ってもいいし、こうなりたいな、楽しそうだなと思ったら変わろうとしてもいい、そのあとまた戻ってもいい。自然な流れです。川の中の魚たちもそうしています。海に行って、戻ってくる魚だっています。えさとなる小魚を追いかけて、海から上流まで遡る魚だっています。
何の話でしょう。自分を大事にする話です。とにかく、自分を大事にするんです。自分の気持ちとか、感情とか、気持ちとか感情以前の感覚というか、もっともっとささいなちょっとしたことを大事にするんです。私たちは、自分を大事にしないことに慣れてしまっています。でもそれじゃあ生きられないし、これはキリストが言うことですけど、自分を愛するように他人を愛せと言うのですから、自分を愛することができない人は他人を愛することもできないんです。
その方法についても考えていきましょう。でも、それは明日にします。目標の10枚に達しました。私は恭平先生のような世界の小説家ではないので一日10枚描くので精一杯です。まだ流れていないのかもしれません。でも書き続けます。だってこの「学校の学校」を思いついたのはついさっきお風呂に入る前、2時間具体前ですけど、思いついた時滅茶苦茶楽しくて、流れが自分に入ってくるのを感じましたから。
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