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学校の学校⑹ クラスのまとまりは人権侵害

 おはようございます。
 クラスのまとまりっていう言葉がありますね。一体感とか、そういうふうに言うこともあるかもしれません。学校によっては、あるいは先生によっては、そういうものをクラス目標みたいなものに掲げて、目指すかもしれません。あるいは学級委員が学級目標みたいなものに掲げて、クラスにいるみんなも「そうだな、まとまりが大事だな」ってなります。
 しかしちょっと待ってください。いいですか? 「あなた自身が一番大事」なんですよ。学校を居心地のいい場所にするには「あなた自身が一番大事」がみんなに保障されることです。これしかありません。「クラスのまとまりが大事」って本当に大切なこと、必要なこと、優先すべきことですか?
 吉田カンゾーも、自分のクラスに「まとまり」を求めたときがありました。学校の先生になって4年目ぐらいまでですかね。なんで求めるんでしょう? まとまりを、これ、全く教育的な根拠はありません。もしかしたら、「社会に出ると言うことはそういうことだから」とか「友達が大事」の論理で根拠づける先生もいるかもしれませんが、どちらも、教室という毎日いることになる、しかも強制的に、場所にとって大事なことではありません。大事なのは「あなた自身が一番大事」です。
 学校の先生が「まとまり」をクラスに求めるのはなぜか、まとまっているクラスがかっこよく見えるからです。行事で強い、行事で盛り上がっている、テストの平均点も高かったりする。しかし、まとまっているクラスには力関係が出来上がっている可能性がある。そういうのがわかるのは行事で問題が起きた時です。文化祭の準備とか体育祭の練習とか、そういうことで放課後残って作業をしたりする、朝練したりする。そういうとき、放課後の練習に参加しないで塾に行っちゃったり、部活動に行っちゃったり、帰っちゃったりする子がいるわけです。で、そういう子に対して、クラス内の「自警団」が立ち上がって、悪口を言います。悪口を言わないかもしれません、あるいは権力者である学校の先生に権力を委託されて、注意をしたり強制したりするかもしれません。学校の先生自身が、放課後残るように話すかもしれません。これって、当たり前のことですか?
 いやいや、待ってください。放課後って自由な時間なはずです。それぞれの子の事情がありますよね。それこそ、それぞれの時間割があるわけです。宿題をやらないと終らない子もいますし、授業受けるだけで疲れ果てちゃっていて、家に帰って昼寝しないと健康を維持できない子だっています。そしてそういうことを友達にも先生にも言えない子もいるわけです。そういうの、無視ですかね?
 学校の先生は、どうやってこんなことを「正しい」としているかというと「行事で子どもは育つ」とか「問題を解決していくことで育つ」と思っているからです。いや、それは間違いではありません。でも個人の事情が無視される、そして事情を優先しようものなら「自警団」から「非国民」扱いされる、場合によっては先生は自警団に権力を委託している、そんなのありですか? なしです、人権侵害です。
 だから、先生が言うべきことは一つなんです。「練習に出ない子がいてもいい、でもみんながこのクラスが自分の居場所だと思えるようになることが大事だ、勝たなくてもいい、勝つことが目的じゃない」 体育祭の競技で1位になると何か教育的な効果があるんですか? 何か成長があるんですか? 合唱コンクールで1位になるとなんかあるんですか? 音をとれるようになることが個人の人権より大事ですかね? んなわけありません。
 はい、また人権侵害です。「良かれと思って」「善意の」人権侵害です。ここでの注意点は二つ。まず、あなた自身が人権侵害に加担しないこと。決して自警団にならないこと。自警団の側に与しないこと。自警団的な雰囲気(あいつ、なんで練習でないの? あいつ練習出てないから音取れてないんだけど)に異を唱えなければなりません。あるいは、話が分かるような先生で、あなたが話せるような人なら、「この状況おかしいですよね、先生はどう思っているんですか?」と言うことです。
 もうひとつは、あなたが自警団に非国民扱いされそうになったときどうするかということです。何度も言いますが、人権侵害は相手にしてはいけません。無視です。行事が終わるまで休んだっていいし、行事を休んでもいいでしょう。あなたがそれを気にしないでいられる感じならそれでもいいです。あるいは付き合えるレベルで付き合って、適当にこなして終わらせる。しかし、自警団が活発化してくる場合があります。一人ひとりが音をとれているかを確認したりする、歌わせる、はいあなたは音取れていないからもっと練習してねとか言われる。これ、人権侵害です。いえるなら先生に言いましょう。でも、先生も話にならない、その人権侵害を応援している場合すらあります。そうしたら繰り返しになりますが、親に出てきてもらうしかありません。あるいは、私もできたら協力します。メールしてください。
GAKKOnoGAKKO@gmail.com

 「まとまり」というのは自分が「まとまりたい」とか、あの人(たち)と仲間になりたいと思うならそうすればいいんです。そういうものです。それは何も悪いことではなく、むしろ多くの人にとって、グラデーション、求める結びつきの強弱に差はありますが、必要なことだと思います。好きなものがおんなじ人とは仲良くしたいですよね。あ、ちなみに古代ギリシャでは友情というのはフィリアと言って、このフィリアというのは友情だけを指すのではなく、何かを好むこと一般を表わす言葉だったそうです。で、彼らは友情というのはどういうものだと考えたかというと、たとえば鬼滅の刃が好きだとしたら、同じように鬼滅の刃が好きなこの子ことを好きになる、なにかモノを好むということが、そのモノを好む人への「好む」に移行していくこと、これが友情だと考えたそうです。いや、一面の真理がありますよね。だから、そういう人と「まとまりたい」という友情を抱くのは自然なことで、それはすべきです。しかし、そうじゃない、「好む」が基礎になっていない「まとまり」、しかも、強制されるまとまりなんて、繰り返しになりますが人権侵害です。
 結局、先生はクラスが優勝したり、クラスがまとまったりしていることで自分の支配欲を満たしている、そのことに多くの先生は無自覚です。昨日言いましたね、先生の支配欲に付き合ってはいけません。
 だから、まとまりは他から強制されるものではないんです。まとまりって、すごく怖いものです。私はまず、強固な「まとまり」は、そのまとまりの外部に対して攻撃的になることが多いです。特に、「まとまり」からの脱落者に対して容赦がありません。「まとまり」の側に「正義」があると思っているからですね。「まとまり」の外部に位置してしまった人が、これを「ああ、じぶんはだめだな」って思ってしまう。「クラスの行事に迷惑をかけてしまった・・・。」 いや、そんなこと思う必要はありません。それは「正義」でも何でもなく、「暴力」です。暴力振るわれて、反省するの、おかしいですよね。ごめんなさいって思うのおかしいですよね。暴力振るわれたら、暴力だと抗議をするか(誰か=「本当の正義」に抗議を委託するか)、暴力を受けない場所まで避難をするかのどちらかです。
 「まとまり」のなかにいると人は安心します。一人で立ったり歩いたり、考えたり喋ったりするのはつらいですからね、自信がありません、不安になります。その「安心」自体は悪いことではありません、繰り返しになりますがそれ自体は強弱の差はあると思いますがだれにとってもある程度は必要なことです。でもね、そこに安心していると、人は自分で考えることをやめます。「あの人と同じ」です。自分で考える力がなくなる、これは私は危機的な状況だと思います。ちょっと今うまく言葉にできません、でも私は自分で考えると言うことをすごく優先順位が高いことだと思っています。たとえば、ちょっとみんなにはわかりにくい例かも知れません。いま、ネット上のリベラル(自由とか民主主義を重んじていることになっている人たち)もネトウヨ(愛国心とか国の強さとかを重んじていることになっている人たち)も、あんまり自分で考えることをしません。Twitterのタイムラインは、同意見の人のツイートであふれかえっていますので、それに流されます。韓国人が◯◯だ、そんなことをネトウヨはよく考えたり調べたりせずにRTしたりハッシュタグで投稿しますし、リベラルも同じです。いろいろよくわかんないけどこの人がハッシュタグ付けているから私もつけよう!そんな感じです。いや、全員じゃありません、考えている人もいますよ。でもそうじゃない人が多い。こういう人たちは考えなくなります、何を考えなくなるかというと、相手がどういう立場か、相手がどういう思考回路でそういう風に考えているかを考えなくなります。リベラルの多くは、「国に誇りを持つ」ことの意味が解らないって考えています。でもね、いや「国に誇りを持つ」こと自体は否定できないですよね、持ちたい人はいます。持つのが自然だと思います。それ自体を否定することができないのに、そういう発想そのものを毛嫌いしたりする。
 ちょっと話が学校の学校じゃなくなってしまいました。
 とにかく、「自分の頭で考えること」、それは「まとまる」ことに安住しているとできなくなります。「まとまる」ことの人権侵害を受けているとできなくなります。だから、学校でさもいいことのように言われる「まとまる」を「本当にそれでいいのか?」と考えてください。そしてそれが暴力や人権侵害になっていたら、相手をしないでください。

 助け合えることは大事です。クラスの中に、困っている人がいる、こぼれてしまいそうな人がいる、そういう人に寄り添ってあげたり、具体的に助けてあげる人がいる、全員じゃなくてもいい、そういう人がいる、そういうのが本当のまとまりです。でも残念ながら先生たちはあんまりそういうことを教えない。なんででしょうね? 次回はそういうことを考えます。

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