今なぜ教育のアップデートが必要なのか?①明治期に始まった教育システム
今回からのシリーズについて
今回からは、シリーズものです。
再度、「なぜ、私たちがGAJYUMARU教育を始めるのか?」を違う切り口で固めたいです。
今回も、以前紹介した「今とは違う学校が求められている 生き方の多様化と学びの多様化」から引用します。
※ちなみに、前回引用した記事はこちら。
引用の目的は、以下です。
①日本の近代教育の目的を解明する⇒その目的は今に合致しているのか?
②近代教育以前の日本の教育について知る⇒その教育は、今に取り込むべき要素を持っているのか?
③では改めて今、重要だと思われることは?
これから3日間、引用をメインとして、最後に考察回としたいと考えています。
※各段落の見出しと、私にて重要だと思ったポイントを太字にしています。
日本の近代教育が始まった契機・目的
はじめに
オルタナティブスクール、学校教育法の第一条に書かれている学校以外のさまざまな学びの場ですね。そういう所が実は日本には必要なんだっていうことが、ようやく分かってもらえるようになってきており、そういう機運が今、少しずつ高まってきています。 これは関係者の努力が大きいのですが、同時に、社会が変化してきていて、そういうふうにせざるを得ないという面もあります。その辺りのところを私たちは上手に生かしながら、教育の多様化を実現していきたいと思っています。そういう丁度いいタイミングでこういう集会が行われているのだと思います。
近代国家を創るための義務教育
明治の初め、義務教育という言葉、概念がこれも輸入されたんですが、当初は義務教育と翻訳されていませんでした。義務教育の英語はコンパルサリー・エデュケーション (compulsory education)なんです。コンバルサリー・エデュケーションっていう英語は今でもそのまま使われますが、当初は何て翻訳されていたのか、分かりますでしょうか?実は当初は、「強制教育」と翻訳されていたのです。
強制的に行かせるということで、強制教育と翻訳されていました。あまりにも露骨だということで少し変わってきたんですが、ただ、その強制教育と翻訳したっていうことの中に、この義務教育という概念の本質が反映してるんですね。つまり、元来強制的に行かせる教育だったんです。
近代国家をつくるときに、資本主義が起こってきて、産業が非常に速いペースで勃興していって、その担い手が必要になってきます。それまで日本では江戸時代に何々藩とかいっぱいあって、それぞれの藩が一つの国だったわけです。藩の中で使えるお札、藩札とかありました。
例えば、イギリスと薩摩藩が戦争するけども、あれは薩摩という国とイギリスが戦争してるんであって、お上は「知らないです」って済んじゃったわけです。つまり、藩というのは小さな国だったわけです。ところが一個一個、そんな小さな国同士がいさかいやってたら植民地圧力には勝てない。もっと大きな国をつくんなきゃいけないってことで、合体して一つの国をつくろうとしたのが明治維新です。リードする徳川に、「もう力ねえんだから、あんなの引っ込めろ」っていう形で、下級武士たちが、「自分たちが担うんだ」って言ったのが明治維新です。 ヨーロッパで起こっているような、いわゆるブルジョア革命とはかなり性格が違いますよね。しかも担い手が武士つまり軍人です。新しい大きな軍人国家をつくろうとしたわけです。
で、そうやって大きな国をつくる。大きな国をつくって、名前はどうするか。それまで日本っていう国名はなかったんですね。部分的には使われてたんですけども、薩摩の国だ とか、何とかの国って言ってたわけです。それを日本っていう国にすると言いました。だけど、「俺らは日本という国の一員だ」っていう自覚が、そんなの誰も持ってないわけですよね。だから、「日本という国の一員で、日本のために頑張んなきゃいけないんだ。 日本の国を強くしなきゃいけないんだ」って、そういうことを国民にどっかで教えなきゃいけない。「どこで教えるんだ。 それが学校だろう」ってことになりました。
標準語を広めるための学校
言葉も、共通語がありませんでした。薩摩弁と京都弁と東北の言葉が、東京に出てきて通じるわけないですよね。よく参勤交代で江戸で会議やったって言ってますけども、江戸の会議は、口角泡を飛ばしたらほとんど通じなかったそうです。それで最終的にどうやって理解し合ってたかっていうと、ちょっと集まれって、筆談。最終的に筆談でやってたそうです。それで、これはまずいということでこの言葉をスタンダードランゲージにするんだっていうことでつくられたのが、標準語ってことです。
(中略)
その山の手の言葉を標準語にしようとなるまで、大分いきさつがあるんです。ところが、今度はそれを決めても、なかなか担い手の人がいなかったので、大変だったわけです。
「『こういう言葉をしゃべれ』ってどこでやる、それは学校だ」ってなってですね。要するに近代社会をつくるときには、その近代社会の担い手で、自覚的になって、いざというときは、戦争あったときには頑張って日本のために戦うんだっていう、そういう人間を育てる場所をつくらないと近代国家は成り立たないわけです。だから近代国家にとっては、強制的な近代学校をつくることはもう不可欠のテーマなんですよね。
京都には国が学制を敷く前から学校をつくろうという動きがあったのですが、それは一部で、新政府は全国に「新しく全部、学校をつくれ」って言ったんですね。だから、明治になって市町村がやらなければいけなかったことの一つは、学校をつくることだったんです。
(引用終了)
今回のポイント
終盤の太字にした部分が最も端的にまとまっていると思います。
要するに近代社会をつくるときには、その近代社会の担い手で、自覚的になって、いざというときは、戦争あったときには頑張って日本のために戦うんだっていう、そういう人間を育てる場所をつくらないと近代国家は成り立たないわけです。だから近代国家にとっては、強制的な近代学校をつくることはもう不可欠のテーマなんですよね。
これこそが、「学制」などに代表される明治以降の教育制度改革の本質だったということです。
そして、その際に作られたシステム(講義形式の授業、同一学年、全員が同時に同じ課題に取り組む)は、そう大きく変わっていません。
次回は、江戸までの教育システムがどうであったのかを見ていきたいと思います。
--------------------------------------------
9月は極力毎日noteを書いて、GAJYUMARUについて皆さんによくご理解いただけるようにしていきたいと考えています。
「スキ」や、アカウントのフォローをいただければ幸いです。
また、感想コメントをいただければなおのこと嬉しいです!
どうぞよろしくお願いいたします。