美的なものの経済性と権利について

文責 林東国

 芸術に於ける作者の権利、つまり我々の一般に知る所の著作権について、より正確には、「作品に対する権利が作者に帰属する」という近代の常識的な観念について、それを最もラディカルに疑い得るだけの材料を我々は果たして持っているであろうか。そして、こうしたイデオロギーに対抗し得るだけの何らかの経済的、ないし社会的アプローチは可能であろうか。何故このような事を問わなければならないか、私的所有権の絶対という近代の法原則が基本的に道徳的なものである事がないという問題を問わなければならない時、その疑義は当然にも、芸術領域に突きつけられなければならない。こういう訳で、かの三代目シャフツベリー伯が探求した所の、美と道徳との連関という問題について、その具現化した次元に於ける美的なもの、つまり芸術と、広義の意味での経済の問題を語る事には意義が認められるであろう。
 先ず、著作権や版権といった知的財産権が「観念についての権利」であるという事はどのような事であろうか。考えるにこれは、観念そのものが人間、しかも特定の個人によって生み出されたものであるという想定に基づいたものである。キャラクターという固有名詞は、他ならぬ著作者によって生み出されたフィクションとして見なされ、そしてそのフィクションについての権利は著作者に帰属している。こうした場合に於いては、当然ながらフィクションというのは物質的、可視的な世界に対応する事物を持たないという意味であり、それは「現実」の物事と厳密に区別されなければならない。
 ところで、物質的な世界に対応する事物がない事柄を人間が想像するという事は、正しく元来は神学の領域であった筈である。しかし近代という思想は、理神論によってその合理的解釈を試みてはいたものの、結果としてそれはいつしか、全くもって人間本位である所の「創造」に置き換えられたのである。例えば、「人権」という原理は、人類の進歩に於ける功績としてだけ語られる事となり、テーゼとしての「天賦人権」が言われながらも、その基礎を成しているジョン・ロックによる議論の神学的な部分が大真面目に受け取られたり、逆に議論に対しての神学的観点からの批判が行われる事は皆無であるというように、それは単にジョン・ロックの「発明」として扱われなければならなかったのである。
 物質的世界と対応する事のない、観念の事柄に対する物の見方は、当然ながら我々の生きる世界観を根底から規定する。こうした世界に関する見方を人間本位の視点に於いて規定するという事は、所有権の体系に於いても当然に人間本位の世界観が構成される。そうして生まれた「所有権絶対」という原則は、観念世界に於いても適用され、それは資本主義社会を構成する最も基本的な法要件となっている。そして、この問題は、資本主義社会に対する反省から生まれつつも、人間本位の世界観をより徹底させ無神論を採用したマルクス主義によっては決して解決し得ないのである。
 こうした事から、物語や絵画等を「創作」する人々にとって、冒頭に挙げた所の「美と道徳の連関」という問題は一層重くのしかかって来る。と言うのも、観念で構成された世界について語る事は、それを単なるフィクションであると扱った所で道徳的問題が免責されるという訳でもなければ、それを作者によって「創られた」ものであると見做す事も出来ず、寧ろそれは全くもって普遍的である様な世界のあり方についての描写とならざるを得ない為である。明らかに非道徳的であって、また美しくもない事柄を描写する者は、それを描き出す事により、読者に対して何らかの印象をもたらそうとしている訳であるが、その印象は当然に再生産されていくので、それは人間世界の道徳的、また美的堕落に寄与せざるを得ない。これは経済の問題であり、そうした物の氾濫を全く市場に任せて仕舞えば、「悪貨は良貨を駆逐する」と言うように、最も優れた物は表の市場には出回らなくなる。全くもって自由主義に反する議論であるが、これは明らかに現代においても起こり得る事であり、高度に発展した資本主義社会に於いて大概の場合、優れた物はごく小さい市場から、多くはより大きな市場に出回っている表現を材料として再利用する事により産出されるが、それが大きな市場に氾濫している頃には既に陳腐な表現に堕しているのである。
 こうした事態を防ぐ為には、全く反近代的な方法ではあるものの、美や道徳の規範を超越的な世界に想定して、それを国家が教育するという政策を行う必要がある。芸術の市場を道徳によって統制する事は、芸術の作者による寡占を打ち破る事とも連関しているが、これは所詮「二次創作」等といった枠組で既に十分に行われている事であり、それは当然に元の作品を超え得る物である。しかし、二次創作者が原作者の「創った」世界の中で新たな世界を更に創造するという見方を取る場合、その世界は単なる寄生態として元の世界に従属しているものとしか見做せない。これは明らかに実態に反しているのである。
 道徳主義は当然に近代以後に於いては受け入れ難いものと見做されるが、例えば「表現の自由」という法原理を、「悪辣な表現によって、否定神学的な手法をもって信じるべき道徳を明らかにする」という様な名分なしに擁護出来るようなものと考えるのは、昨今の自由主義国家に於ける惨状を見るに、余りにも楽天的に過ぎるのではないだろうか。こうした問題意識が、多くの人々に共有される事を望みつつ筆を置く。

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