禅について(1)~千利休の遺偈を手がかりに(甲)~

文責:比呂斗


起筆の挨拶

 「禅」が日本文化の形成に於いて大きな役割を果たしてきたことは、枯山水、生け花、茶道に周知の事実です。特に室町文化はその影響を大きく受けたといわれております。「禅」とは何でしょうか。 わたくしが「禅」に初めて触れたのは、アニマックスで再放送されていた「一休さん」でした。一休さんは頓知をきかせて、桔梗屋さんや足利将軍をぎゃふんと言わせます。禅の真髄とは言葉遊びなのでしょうか? おそらくは否です。

 わたくしの菩提寺は禅宗で、曽祖母などは信心深かったのですが、専ら「南無釈迦牟尼仏」でありました。禅の境地とは仏典をそらんずることでしょうか? ひょっとすると、言い得て妙かもしれません。広辞苑によると「禅」とは「心を安定・統一させる修行法」とされています。しかしこの説明を聞いても、判然としないような、歯がゆい気持ちがあります。では、「禅」の目的とは何ぞや、「禅」を得たものの最終形態とは何ぞや云々。

 こうしたわたくしの疑問を解決すべく、また、読者の皆様におかれましても「禅」を理解する手助けになればと存じ、筆を執らせていただきます。何度かにわたって「禅」について筆を走らせる予定ですので、どうぞ擱筆までお付き合いの程、よろしくお願いいたします。

 手始めに、茶道の権化であり、禅にも造詣が深かった千利休の遺偈(遺言のようなもの)を紐解きまして、「禅」に迫る端緒といたしたいと思います。

 

利休の切腹の概説

 時は天正19年 2月 28日 (1591年 4月 21日)太閤秀吉の時代。一人の茶人が身罷った。千利休、齢70。その切腹は、太閤の命によるものであった。商人出身の利休だが、切腹とは破格の処遇であった。

 秀吉が、茶道の権化たる利休に切腹の命を下した所以の者は、甲に木像事件、乙に売僧の咎である。甲についてである。利休は、自身の寄進によって成った大徳寺山門の楼閣に自身の木像を上げた。雪踏をはき、杖をついた姿である。大徳寺を尋ねるやんごとなき人々は、山門をくぐるわけであるが、利休の木像はそれを踏みつける形である。故に秀吉は激怒した。乙についてである。広辞苑によると、「売僧」とは禅宗に於いて、商行為をする僧をさげすんでいう言葉である。つまり、日用品を茶の道具としてその価値を高め、高価に取引していた咎である。また、利休の庇護者であった秀吉の弟、秀長の死も関係しているとも言われる。(唐木 1963)

 しかし、いずれも、切腹の時期などと勘案しても決定的動機たり得ず、積もりし不和の塵の山によるものとも思われる。ともかくも、理由が判然としない中で、利休は死を迎える羽目になったのであった。利休は親しい者を集め、最期の茶会を開いた。その会の後、弟子の蒔田淡路守の介錯のもと、身罷った。(Okakura 1906)秀吉はその首を実検することは無かった。首は直ちに、京都三条戻橋にて、例の木像に踏みつけられる形で晒されたという。(村井 2008)

 そのかみ、禅僧はその末期に臨み、門弟や後世のためにその境地を偈にしたためる習わしがあった。広辞苑によると偈とは「仏教の真理を詩の形で述べたもの」である。秀吉の命を受入れた利休は切腹の四日前、すなわち天正19年2月25日に、こんな遺偈と、辞世の句を残している。

 

 「人生七十 力㘞希咄 吾這寶剣 祖仏共殺」

 「提る我得具足の一太刀 今此時そ天に抛る」(桑田 1976)

 

何とも余白に余る遺作である。この偈と句とには、利休の「禅」が表されていようから、まずはその読解と解釈を試みる。

 

人生七十 力㘞希咄

 「人生七十」とは読んで字の如く、将に古希に至らんとして死する、利休自身の人生である。「力㘞希咄」とは、禅語に於けるかけ声のようなものである。「えい、やあ、とう」「ええい、なにくそ」等と、訳者によって様々であるが、概して大いに力んでいた様子がうかがえる。つまり筆者は「人生七十年、えい、やあ、なにくそ」と読解する。

 

我這寶剣

 「我這寶剣」は「わがこのほうけん」と読む場合が多い。しかし、「這」には「迎」の意味もあるため、岡倉天心は「迎」を採用し、「茶の本」に於いて「Welcome to thee(来れ汝)」と訳した。(Okakura 1906) 筆者は、言葉の多義性を尊重し、掛詞のような、二重の捉え方を採用する。つまり今回は「私はこの宝剣を迎える」と読解する。

 

 宝剣とは「金剛王寶剣」である。「金剛王」とは金剛界の長である。金剛界とは、広辞苑によると「大日如来を智慧の方向から明らかにした部門」である。金剛は武器の意味であったが、転じて堅固で壊れない大日如来の智慧をするようになった。大日如来なんぞやの疑念は詳述しないが、ここでは「金剛王寶剣」とは、黒金のそれではなく、堅固な智慧(心理を明らかにして悟りを開く働き)により、何でも切ってしまうものの象徴としての「寶剣」であることを明らかにしたい。そして言わずもがな、切腹の命令でもある。では「宝剣」は何を切るのであろうか。

 

祖仏共殺

 「祖」とは、禅宗の始祖たる達磨のことである。「仏」とは悟りを得たる者、仏陀のことである。彼らを共に殺す「寶剣」とは、何とも野蛮ではないか。否、その逆説の中に、禅の真意が隠れている。

 臨済録の中には、以下のような記述がある。

 

向裏向外、逢著便殺・・逢佛殺佛、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、初得解脱、不與物拘、透脱自在。(衣川 2023)

 

 内向にも外向にも、著に会ったらすぐに殺してしまえ‥、仏陀に会っては仏陀を殺し、羅漢に会っては羅漢を殺し、父母に会っては父母を殺し、親族に会っては親族を殺し、初めて解脱を得、物に拘泥することなく、透脱が自在にできるようになる。(筆者訳)

 

 「解脱」とは煩悩から解き放たれることである。物に拘泥しないとは、すなわち「放下」であり、「透脱」とは悟ることである。この三点の実現を、「寶剣」は担うのである。

 

遺偈の解釈

 総じて、遺偈は、大胆には、こう解釈される。

 

人生七十年

えい、やあ、なにくそ

我はこの金剛王宝剣(切腹の意も)を(よろこんで)迎える(厭わない)

解脱、放下、透脱を自在にする、この宝剣を・・・

 

提る我得具足の一太刀 今此時そ天に抛る

 辞世の上句「提る我得具足の一太刀」は「ひっさぐるわがえぐそくのひとったち」と読解する。「親しみ深く、いつも携帯している一本の太刀」程度の意味である。切腹に使う刀であり、かつ件の「金剛王宝剣」をも暗示していると解釈する。

 下句「今此時そ天に抛る」は「いまこのときぞてんにほうる」と読む。「抛」は「放」の異体字であるから、読んで字の通り「さ今この時! 天に放り投げる」と読解する。「この時」とは、利休の今際の際である。

辞世の句の解釈

 総じて、辞世の句は大胆には、こう解釈される。

 

我が愛用の太刀よ、金剛王宝剣よ

今、この今際の際に及びて、天に放り投げる!

 

__________________続く_____________________

引用・参考文献

 

衣川賢次(2023)『臨済録注釈』大法輪閣, p.350.

唐木順三(1963)『千利休』筑摩書房.

桑田忠親(1976)『千利休研究』東京堂出版, P.261.

村井出(2018)『広辞苑 第七版』岩波書店.

村井康彦(2008)「【利休の生涯】死への道程」,『別冊太陽 千利休 〈侘び〉の創始者』平凡社.

Okakura Kakuzo(1906)”THE BOOK OF TEA”(=1994, 桶谷秀昭訳『茶の本』講談社)

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