【短編】Perchという名の喫茶店 〜七月七日〜
その日に遭ったたわいもない出来事を、岡村 久美子はいつも一方的に話す。
「今日も麻子は教室の窓際に座っている順平のことをずっと見てたわ。本人は教えてくれないけど、麻子は絶対に順平のことが好きよ」
早瀬 光(ヒカル)は頷くこともなく、クルクルと鉛筆回しをながら、静かに久美子の話を聞いている。
光の鉛筆回しは、人差し指や中指使って連続して回すものではなくて、親指を中心にしてピシッと一回転、単発で回すことを繰り返す。
ここは喫茶店「Perch(パーチ)」
久美子と光は高校ニ年生で、放課後はいつもこの喫茶店に寄ることが習慣になっている。
はっきりと付き合うと宣言してるわけではないが、毎日のようにここで、二人でコーヒーを飲んでから帰るようになった。
マスターがアイスコーヒーを運んできた。
「久美子ちゃん達、ホントに仲がいいなあ。いっそのこと、結婚しちゃえば......」
マスターはまだ若い。30歳くらいだろうか。細身で丸い黒ブチ眼鏡の天パで、久美子達にとって兄貴分のような存在だ。
「マスター、バカなこと言わないでよ」と久美子は少し照れながら微笑む。
光は相変わらず鉛筆回しを続けている。
「麻子は順平のどこがいいのかしらね。この前も先生から『自分の一番の特徴的なところはどこか?』って聞かれて、『僕は耳アカが人より湿ってるところです』だって!」
そういうと、久美子は「いひひひっ」と一人で嬉しそうに笑う。
もう少しリアクションがあってもいいでしょ、と内心思いつつも、久美子はこの光との時間が楽しくて仕方がないのだ。
「久美子は進学するのか?」光が初めて口を開いた。
「うん、東京の大学に行く予定。光はどうするの?」
「俺は地元で働くよ。バイクが好きだし、車の修理工にでもなるさ」
光はマスターに頼み込んで、この喫茶店にバイクを置かせてもらっている。
学校にバイクは乗り込めないので、登下校はいつもここから徒歩だ。
光の高校には制服はないけれど、白いツナギで通学しているのは光だけだ。
「卒業したら光とは離ればなれになってしまうのね」
光は相変わらず鉛筆を回している。
「今日は七月七日。ねえ、この先、私たちが離ればなれになったとしても、30年後の今日、ここでまた会いましょうね!約束して?」
「ああ」光は目も合わさずに生返事をした。
「約束だよ。私はぼちぼち帰るね」
「ああ、駅まで送って行こうか」
サヨナラ替わりの、光のいつものセリフだ。
「ううん、一人で大丈夫!」
——— あれから30年後 ———
久美子は久しぶりに故郷に帰ってきた。
東京の大学を卒業して、そのまま東京で就職した。
25歳で結婚して、娘が今年で20歳になった。
数年に一度は里帰りしていたが、今日は実家には寄らずに真っ直ぐに喫茶店「Perch」に向かっている。
光とは高校を卒業してから一度も会っていない。予想はしていたことだが、卒業してからは連絡を取り合うこともなくなり、疎遠になってしまった。
「あの時の約束なんて、きっと覚えてる訳ないのに...。交換日記は速攻で断られたし...。高三になっても二人で喫茶店には通い続けたけど、高二の時のあの約束は、あれ以来お互い話したこともなかった。
まあ、いいわ。光に会えなくてもマスターに挨拶だけして帰れば良い」
ふーっとひとつ息を吐き、久美子はPerchの木製の扉を開けた。
カランカラン♪
ドアを開けた途端に久美子の目に飛び込んできたのは、白いツナギを着てカウンターに座っている光の後ろ姿だった。
何故?あの頃のままの光がいるの?ここでは時間が止まっているの?
久美子は呆然と立ち尽くした。
「おや?久美子ちゃん?久美子ちゃんだよね」そう問いかけたのはマスターだった。
マスターは少しオデコが広くなり、顔の皺は増えているものの、あの頃の面影はそのままだった。
もう還暦を迎えているはずなのに、丸い黒ブチ眼鏡で、体型だってすらっとしていて、あの頃と全く変わらない。
「マスター、ご無沙汰してます!」久美子は答えた。
光も振り返る。光の顔はやはりあの時のまま若々しい。
「光!光よね?覚えていてくれたのね!」
「僕は早瀬 晃介。光は僕の父です。ほら、一番奥のテーブルに座っているのが父です」
久美子は奥のテーブルを見やったが、奥にはオレンジ色のスタンドがあるだけで、その人影は薄暗くてよく見えない。
もう一度、光とそっくりな晃介の顔を見る。
「父の知り合いですか? 実は、父は若年性アルツハイマーを患っています。会っても分からないかも知れませんが、是非、話しかけてみてください」
「今日はどうしてここへ?」と久美子が聞く。
「父の机の中にこんなメモが入ってたんです」
2021年7月7日 16時 Perch
晃介は久美子に古びたメモ用紙を差し出した。
「じゃあ、僕はバイトがあるので、これで」
そういうと晃介は、カウンターの中のマスターに笑顔で手を振り出て行った。
バイトだから白いツナギを着ていたのか。まさか、お父さんのように登校はしていないだろう。
そして、久美子は奥のテーブルにゆっくりと近づいていく。
「光さん、こんにちは。岡村久美子です」
「こんにちは。久美子さん? ごめんなさい。全く思い出せないが、私とはどのような関係で?」
色黒で歳は取ったが、はっきりとした光の面影がある。長年オイルを触ってきたのか、手の指は真っ黒だ。
「私は高校の同級生です。今日は光さんに会いにきました」そういうと、久美子は光の向かいの席に座った。
席に着くと、久美子はこれまでのことを話し出す。
大学を出てそのまま東京で就職したこと。職場結婚して、二人の子供が出来たこと。長女が今年成人式を迎えたこと。
光は黙って久美子の話を聞いている。
「光、覚えてる? 麻子と順平が付き合い始めた頃のこと。四人で映画を観て、帰りにマックに寄って、順平は緊張していて、食べ辛いからとビッグマックをそのまま残して、ゴミ箱に捨てたらドサッと大きな音がして、いひひひっ!」
久美子は当時の笑い方で笑ってみせた。
「ごめんなさい。何も思い出せないんだ」
マスターが久美子にアイスコーヒーを運んできた。
「光はこの街で、車の修理工として長年働いてたよ。久美子ちゃんにそっくりな人と結婚してね。晃介君が生まれてすぐに奥さんは他界したんだ。光はこの店にもずっと通ってくれてた。しばらく来なくなって心配してたんだ。病気の事は今日、晃介君から聞いたところだよ」
若年性アルツハイマー。怖い病だ。
人の甘くて青い思い出までも奪い去る病。
「うわっ、これ懐かしい!」
テーブルにはアンケート用紙と鉛筆、それと茶色の丸い容器のようなものが置いてある。
茶色の容器は、百円玉を入れて、レバーをスライドするとおみくじが出てくる、小さなガチャガチャのようなマシンだ。
久美子はそのおみくじマシンを手に取る。
「おみくじに百円は、高校生には高すぎて、一度もしたことなかったなぁ」
「光、じゃあこれは覚えてる?順平が水泳大会で海パンが脱げた事......」
光は首を横に振る。
光はテーブルの上にあった鉛筆を手に取り、クルクルと鉛筆を回し始めた。
親指を中心にして、ピシッピシッと単発で鉛筆を回すことを繰り返す。
「そう来なくっちゃ!」
久美子の話は続く。文化祭の事、体育祭のこと、修学旅行のことを次々と楽しそうに話し出す。
光は頷いてもくれないけど、それはあの頃のままだ。
「じゃあ、これは? 順平が電車に乗って、立ってる人がいるほど満員だったのに、何故か席が二席分くらい空いていて、立ってる人の間を割り込んで...。座席に座ってのんびりしてたら、隣りにゾンビみたいな人がいて『ガォーッ』って吠えられたこと。順平は最寄駅でもないのに、一度下車して違う車両に乗り換えてたわ。だから誰も座らなかったのかって、いひひひっ!」
「ごめん。何も思い出せないんだ」
光はクルクルと鉛筆を回す。
久美子はそれでも思い出話をやめない。
散々、喋ったあと「じゃあ、私はぼちぼち帰るね」と久美子は席を立つ。
光が云う。
「駅まで送って行こうか」
「ううん、一人で大丈夫」
久美子は笑った。笑いながら涙が止まらなかった。
(おしまい)
BGM
今日は探しても何のオチもありませんよ。
また今度!