『シビル・ウォー』と《視る》行為の無慈悲 上
この小論は、アレックス・ガーランド監督の映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』(初公開:2024年)について、筆者なりの着眼点をもとに考察を行ったものである。
読者諸氏には、次のことをあらかじめご了承いただきたい。まず、この小論には物語の進行に関する重大なネタバレが含まれている。そのため、作品鑑賞予定の諸氏におかれては、劇場を辞した後に読むことをお勧めしたい。次に、この小論はあくまで筆者なりの考察であり、当然、他の着眼点にもとづく豊富な考察を否定するものではない。読み進めていけばおわかりいただけるだろうが、筆者の考察には飛躍や深読みが多い。異論をもちつつも、寛大な心で読んでいただければ幸甚である。
また、この小論では社会学や、社会学者・人類学者が用いるフィールドワークの概念を援用した考察を行うが、それによって学術目的のフィールドワークをもち上げ、作中で扱われているジャーナリズムをけなす結論を導き出す意図はない。両者はそれぞれの社会的な要請に応じた調査手法を採用しており、そこに貴賤や優劣などないことは論をまたない。
最後に、タイトルに「上」と記しているように、予想外に文字数が多くなってしまったため、考察を複数の記事に分けて行う予定である。note記事の最適な文字数について吟味した記事が数多あるにもかかわらず、この小論は、それらの記事が提示する「読みやすい文字数」を現時点で大幅に超過している。途中で飽きられても文句は言えないため、下の目次から興味を覚えた項目に移動し、その箇所だけをついばんでいただいても構わないと考えている。ただ、筆者の考察をどれほど芯を喰っていない、もしくは退屈だと感じようが、辛抱強く完読してくださった読者諸氏には惜しみない感謝の念を捧げたい。
はじめに──『シビル・ウォー』が扱う《視る》行為
『シビル・ウォー』を鑑賞する直前まで、筆者は「時事ネタなのかしら?」などと考えていた。すなわち、大統領選挙が間近に迫るなか、アメリカの時代精神を覆う夕闇(たとえば、今度は議会襲撃事件程度のことで済むのかという恐怖)を反映したものだと思っていたのである。
実際に、『シビル・ウォー』がそうした文脈で受容される余地は十分にあるだろう。作品冒頭には、現代のアメリカで実際に起きた、市民と警察の対峙を撮影したものとみられる映像が複数挿入されていた。これは、現実世界の社会的な分断と作中の内戦勃発に連続性があるかのような演出に見える。日本語公式ウェブサイトには、「あなたが目撃するのはフィクションか 明日の、現実なのか?」、「それは、今日 起こるかもしれない」といった宣伝文句が用いられていたが、もしかすると先述の「夕闇」を意識したものかもしれない。
しかし、作品を観終えた筆者には、作中のアメリカで戦われている内戦はあくまで登場人物が(濃淡はあれど)共有する、ある事柄を強調するための舞台装置であるように思われた。それは、周囲のできごとを《視られる》べき光景として対象化し、《視る》ことに徹する者が放つ、身震いするような無慈悲さである。なお、なぜこの事柄が「アメリカで起きた内戦」という舞台によってこそ際立たせられるかは、この小論の最後にあらためて触れるとしよう。
《視る》こと、《視られる》こととは
いきなり《視る》こと、《視られる》ことと言われても、今ひとつ掴みどころがないかと思う。話は早速逸れるが、ジャーナリストの立花隆が、三島由紀夫の自決(1970年11月25日)現場で警視庁公安部員がとった行動を戦慄とともに語っている、学生向け講義の抜粋箇所を紹介したい。
人間が目の前で切腹して介錯を受けようとしているのに、それをまるで自分の位置とは断絶した空間のできごとかのように黙々と撮影する公安部員の様子は、まさに異様だろう。物理的には何らかの干渉を及ぼせそうな近傍に心理的な断絶を見いだし、(三島らが止めてもらいたかったとは到底考えにくいが)死にゆく人間をただ《視る》対象(=《視られる側》)へと押しやることは、なかなかに冷酷無情な行為ではないだろうか。
このエピソードに触れた理由は、作中の登場人物も、こうした《視る》ことに徹する習性が染みついているからである。そして、一部の登場人物はそのことをはっきりと自覚している。しかし、物語の進行とともに、ある者は《視る側》と《視られる側》の境界がぼやけていき、また、ある者は反対にその境界をより鮮明に引いていく。この過程こそが、作品において最も着目すべき物語だと筆者は考える。
ところで、筆者が用いる《視る》こと、《視られる》ことという概念のモチーフになった議論を紹介しておこう。ジャーナリストの本多勝一は論集『殺される側の論理』(初版:1971年)のなかで探検家や文化人類学者を例にとり、それら調査者が向ける眼差しがえてして一方的な都合(調査者の学位取得や、調査を援助する者による異民族支配の意図など)にもとづくもので、調査される側(文化人類学においては先住民など)を窮状から救ってはいない、と批判している。このほか、本多は探検家による(探検される側の立場を省みない)《発見》の傲慢さを指摘し、「調査される者にうつる文化人類学者とは、どういう存在か」と問うことなどで、調査する者とされる者のあいだの断絶を強調している。
また、社会学者の吉見俊哉は著書『空爆論』(初版:2022年)のなかで、空爆技術(すなわち、はるか上空から肉眼ではない照準システムを使用し、空爆される側を非人格化された、場合によっては反撃もできない標的として可視化し、彼我のあいだに断絶をつくり出す技術)の発展を、他者をどう可視化する(=《視る》)かについての知的・技術的潮流の展開に即して論じている。なお、吉見は、眼差しが帯びる権力性の問題を扱うことは、万国博覧会で植民地の先住民が(一方的に《視られる》)展示品として扱われていたことなどに触れている『博覧会の政治学』(初版:1992年)を著したときから一貫していたとも述べている。
《視る》生業の「間違い」に気づいていたリー
さて、ここまでで、この小論で用いる《視る》こと、《視られる》ことのイメージが、多少は読者諸氏に共有できたかと思う。よって、ここからはこれらの概念を用いながら、作品本編に対する考察を進めていきたい。作品の大まかな物語をおさらいしておくと、フォトジャーナリストのリーと通信社記者のジョエル(ジョー)が、ジャーナリストを政府軍に殺害させているアメリカ大統領への単独インタビューを試みるべく、新聞記者のサミーと戦争ジャーナリスト志望のジェシーを伴い、内戦によりところどころ寸断されているニューヨークからワシントンDCまでの難路を車で行く、というものである。この小論では、便宜的にこの4人だけを作品の「登場人物」と呼んで考察を進めていきたい。
ジャーナリストの実際の立ち位置
リーはうら若いジェシーを連れて行くことに否定的であり、その態度を隠そうともしなかった。ジェシーはそれを自分が経験不足で足手まといだからだと考えたが、リーが彼女に対して答えた理由は次のようなものであった。
リーは、自身を含めジャーナリズムを生業としてきた登場人物は皆、間違った選択をしており、ジェシーも彼らの轍を踏むだろうとほのめかした。彼らが犯した「間違い」とは一体何か?──この問いを起点に考察をはじめるとしよう。
リーとジェシーはともに、戦火から離れた地域で農家暮らしをする家族に、どこか非難めいたトーンを帯びながら言及している。ジョエルも、流れ着いた平穏な街の服屋で店員に「国じゅうで内戦が起きていることを知っているか」と問いかけている。彼らはこうした物言いを通じて、「世の中で起きていることに関心がある自分」を「無関心な他者」から区別し、ジャーナリズムに携わる者の優越感をのぞかせているように見える。
しかし、作中では登場人物の全員が、戦場に身を置きながらも、ほとんどの局面で戦場という《フィールド》の外側にいた。彼らは、戦闘に参加することは言うに及ばず、自分を護衛する民兵が負傷しようが、手負の兵士が無抵抗のまま撃ち殺されようが、感情を露わにすることも疑義を差し挟むこともなかった。取材許可証を提示することで交戦勢力から傍観者の地位を用意され、戦闘が終われば収録を終えたテレビ番組の制作スタッフよろしく民兵と談笑した。
農家暮らしをするアパセティックな家族と、戦場での取材に身を投じる自分とを対比してみせたはずのリーは、こう言ってのけた。
リーやジェシーは、ジャーナリズムに社会的な意義があるとして戦場での取材を合理化したかもしれない。しかし、彼女らを含む登場人物は戦場(=《フィールド》)を外側から《視る》ことはしても、そこに当事者として参与することはほとんどなく、また、可能な限りそれを拒んできた。自分たちはあくまでも《視る側》であり、戦場は《視られる側》なのである。《視る側》と《視られる側》は物理的に地続きであっても、前者は後者との交流を断絶させている。
人類学者のクリフォード・ギアーツは、著書『文化の解釈学』(初版:1973年)のなかで「人類学者は村落を研究するのではなく、村落において研究するのである」という格言を残しているが、上述のような取材は、いわば「戦場において記録するのではなく、戦場を記録する」類いのものだろう。
「ひと言ほしい」
作中、この《視る側》と《視られる側》の断絶を最も鮮烈に描写している場面は、物語の最終盤、アメリカ大統領が合衆国を離脱した西部勢力の兵士によって処刑されるところである。その場に居合わせたジョエルは西部勢力兵士を制止し、大統領に対して「ひと言ほしい」と要求した。大統領は「奴らにわたしを殺させないでくれ」と言ったが、《視る側》のジョエルと《視られる側》の大統領とでは、この言葉をめぐってまさしく致命的な認識の差異があった。
大統領は、自分と同じ空間を占有しているジョエルに対して、周囲の状況に何らかの働きかけをしてほしいという意図から懇願を行った。しかし、《視る側》のジョエルにとって、大統領が処刑されることは《視られる側》(=《フィールド》)のなかで決まっていることであり、大統領の言葉が自分を《フィールド》の当事者へと誘導するものだと認識することはなかった。そのため、自分に向けられた懇願の念を《フィールド》の内側に押し込め、それによって意味内容を失った言葉だけを「大統領最期の言葉」として記録し、西部勢力兵士に「これでいい」と、処刑の合図を送ったのである。
この《視る側》に徹する姿勢こそが、リーのいう「間違い」だと筆者は考える。リーは「自問」、すなわち自分を《フィールド》の当事者に見立て、自分が何を感じるか、自分に何ができるかなどと考え続けていれば、いずれ心を蝕むということを知ってしまった。そして、自滅を防ぐために《視る側》と《視られる側》とを区別し、《視られる側》に感情移入することをやめたのである。これは、リー、ジョエル、サミーがすでに経験し、また、作中でジェシーが経験していくプロセスである。
(中・「ポルノグラフィとしての戦場」に続く)