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産業保健は幸せの総和を最大化する、とは

はじめに

産業保健業界でよく使われる言葉の一つに「幸せの総和を最大化する」があります。自分でも、この言葉をうまく整理してこなかったので、この記事では、この言葉を少しだけ深堀していこうと思います。

今まで、なんちゃってで使っててごめんなさい。
まあ、それはさておき、、、深掘りの旅にいってみよう!

追記:
本記事は、考察が浅かったので、後日改めてさらに深掘りしてみます。

記事紹介

まずは、いくつか見つかった「幸せの総和」に言及している記事を紹介します。

家族や職場の仲間、会社組織も含めて幸せの総和を最大にしていきたい

 私の産業医としてのモットーは、産業医になりたての頃に大先輩から教えていただいた言葉「幸せの総和を最大にする」ことです。 臨床医の場合、当然目の前の患者さんの幸せを最優先に考えて対処することになると思います。しかし、産業医の場合は本人は当然として、その家族や職場の仲間、さらには会社という組織も含めて、さらに時間的にも長い目で見て、将来に渡っても幸せの総和を最大にするというのが目的となると思います。

味の素株式会社 人事部グループ川崎健康推進センター 産業医 古河 泰
https://www.johas.go.jp/Portals/0/data0/sanpo/sanpo21/pdf/114_p12-13.pdf

多様化する職場環境と働き方のなかで幸せの総和を少しでも大きくしたい

また、働き方改革の推進や、緊急避難的に導入された在宅勤務によって、働き方が多様化しているなかで、 中央管理型の健康管理だけでは限界があると感じています。今後は、治療と就労の両立やプライベートと仕事のバランスなど、「いかにして働くか」を従業員自身がある程度自律的に考え、判断できるように、専門家としてサポートしていく必要があります。従業員の働き方や価値観が多様化するなかで、健康関連施策の実 施や事例対応の際には、さまざまな利害関係が発生します。産業医としては常に全体最適の視点を忘れず、 関係者の「納得感と幸せの総和」を最大化できるような試みを継続していきたいと考えています。

HOYA株式会社 HOYAグループOSH推進室長/産業医(当時) 小田上 公法
https://www.johas.go.jp/Portals/0/data0/sanpo/sanpo21/pdf/104_p12.pdf

産業医として…Betterをめざしての選択とサポート

現実にはいろいろと悩み、障害もあるのですが、私は基本的に次のように考えています。 ベストをめざしつつもベターを選択するということです。こうしなければいけないという理想はあります。 足利銀行という理想はあります。ただその理想を実現するまでに、困っている人をどうしたらいいのかと いうことですね。そういう時に弱者配慮でもいい、共通の理解でもいい、ベストはあるのだがベターを選択していく、そうしていけば経営にとっても、社会的にとっても、働く人にとってもよりよい方向に向かっていく。もしかしたら事例によっては「就労」がゴールではないかもしれません。逆に就労をあきらめて余生を送るというかたちもあるかもしれません。 ベストというのは、働きたいと思っている人が働けるということです。それが実現するまでの間は、 日々ベターを選択していく。堀江正知(産業医科大学教授)先生が言われている「幸せの総和」という考え方にも通じます。すべてのいろいろなベクトルがある中でいちばん幸せが大きくなる最大値を選 択するという考え方です。

新日鐵名古屋製鐵所 安全環境防災部 安全健康 Gr. 医長 ( 産業医 )(当時) 田中完
新日鐵での「がん」に対する取り組み ― 産業医の頭の中 ―
https://www.ncc.go.jp/jp/cis/divisions/05survivor/pdf/6_workshop.pdf

功利主義

功利主義の考え方の一つに「幸福の総和」という言葉があります。「最大多数の最大幸福」とも言ったりします。

哲学で、人間が幸福になることを、人生、または、社会の最大目的とする考え方。自分の幸福だけを考える立場、他人の幸福を主とする立場、世間一般のすべての人々が幸福になることを問題とする立場とがある。倫理学では、この最後のものをさしていい、「最大多数の最大幸福」を原理とするベンサムやミルの倫理・政治学説に代表される。功利説。

コトバンク. 功利主義より

ちなみに、英語では功利主義は、"Utilitarianism" ユーティリタリアニズム、最大多数の最大幸福は "The greatest happiness of the greatest number"となります。

ざっくりとした功利主義

トロッコ問題

功利主義を説明するときに、よくある話がトロッコ問題です(有名なので割愛)。


つまり功利主義とは

ざっくりと言えば、、、
・人々の幸福を最大化させることが正義であるという考え方のこと
・最も多くの人々に最大の幸福をもたらす行為を善とみなすこと
・多くの人が幸せになる方法を考えること

産業保健において考える

そもそも労使は対立している

物々交換の時代ならいざ知らず、この資本主義社会において、労使は対立するものであるという前提の理解が重要です。使用者は安く労働者を使いたいし、労働者は少ない労力で高い給料を欲しがる、ということです。

みんな違う方向を向いている

臨床現場であれば、登場人物はみんなが本人(患者)がよくなって欲しいと同じ方向を向いてますが、産業保健職が直面する現場では、事業者、管理職、人事担当者、同僚、本人、家族、主治医といった様々な登場人物がいて、みんな違う方向を向いてます。そして、これらのベクトルは対立しうるものであり、それぞれの利益は容易には共存できません。

あえて関係者のベクトルをテキトーに単純化してみます。

事業者:企業に成長に寄与できない人は辞めて欲しい
管理職:職場の規律を乱すなら休んで欲しい
人事担当者:面倒なことを言う人は辞めて欲しい
同僚A:働けないならさっさと休んで欲しい
同僚B:病気で大変かもしれないけれど一緒に働きたい
本人:楽して働いて稼ぎたい。同僚に負担をかけることは気にならない
家族:お金を家計に入れて欲しい
主治医:企業のことはよく知らないけど患者が働いてほしい

産業医のベクトルとは?

それでは、産業医(産業保健職)のベクトルとはなんでしょうか。例えば、以下のようにいくつか挙げられると思います。

・困っている労働者を支援したい
・健康を維持して働いて欲しい
・健康を害しないような職場を形成して欲しい
・企業の事業活動に寄与したい

しかし、悲しいかなこれら全ては同時には成立しないんですよね。気持ちは分かりますけどね。企業も職場も労働者個人も、みんな幸せになって欲しいですからね。でも、そんなことありえないんですよね。

事業活動と健康確保は背反する

事業活動と健康確保は背反します、相入れません、食い違います。例えば、「夜勤業務」という健康に良くない働き方は事業の上では必要です。24時間営業や工場の生産効率などによって利益を確保することが事業には求められますからね。海外進出やそれに伴って社員を海外派遣することは、事業にとって経営リスクをとりながら(社員の健康をリスクにさらしながら)、事業拡大を目指すことです。スタートアップ企業が、健康を優先しながら事業を拡大できるかといえばそうではなく、皆ががむしゃらに、健康を多少犠牲にしながら死にものぐるいで事業を大きくしようとしています。そのような場面では、健康第一(安全第一)は存在せず、健康は二の次、三の次と、もっと後回しにならざるをえません。そして、病気で十分に働けない労働者を支援したり、健康を害しない職場環境の形成をする余裕はありません。言ってしまえば、産業保健活動は事業活動にブレーキをかけうるものなのです。

誰のどの状態を目指すべきなのか?

事業活動と背反してもなお、私たち産業保健職が目指すベクトルの先には、いったい何があるのでしょうか?事業活動にブレーキをかけさせてでも、目指したいものとは何でしょうか。

目指すものとは、ざっくりと言えば、「幸福」や「利益」という表現になります。もっとふんわり言えば、「より良い状態」となります。私たち産業保健職は、産業保健活動を通じて、なんらかより良い状態に導きたいのですよね(この記事では、「幸せ」という言葉で統一します)。

では、その対象者は誰か、誰にとっての幸せなのか。私たち産業保健活動の受益者は誰なのか、というのが次の問いです。

集団の幸せの総和

その答えとしての考え方が、この記事のテーマである「幸せの総和」という考えです。つまり、関係する集団(みんな)の幸せの総和を最大化することが、産業保健職のベクトルということになります。集団(みんな)とはだれなのか、どこまでを含めるのか、については後述します。

「集団の幸せの総和」のために個人が犠牲になっていいのか

例えば、100人の職場があって、1人の労働者が病気になってちゃんと働けなくなったら、その1人の「幸せ」は99人の「幸せ」よりも小さいのだから、その1人を犠牲にして(休んだり、辞めてもらい)、99人の「幸せ」を優先するのでしょうか?そういう考え方もありえますよね。99人の「幸せ」の総和の前には、1人の「幸せ」なんてちっぽけなものですからね。この考え方は、企業が自前で成り立っていて、かつ労働者が常に供給される状態で、労働者に感情がなければ成り立つのかもしれません。しかし、残念ながらそう簡単なものではありません。1人の労働者を、病気になったから簡単に切り捨てるということは、残りの99人も明日は我が身だと思って企業を辞めてしまうかもしれません。労働者不足の社会では、切り捨てた労働者の代わりが見つからないかもしれません。社会から批判を受けて事業活動がたちゆかなくなるかもしれません。そんな単純な話ではないんですよね。

長期的には1人を支援することで、集団の利益の総和を増やせる

1人の労働者が病気になっても働けるような職場をつくることは、結果的に99人にとっての「幸せ」につながる可能性があります。それは、企業にとっても「幸せ(利益)」につながりますよね。人間の体調には波がありますし、体調を崩すことは誰にだってあります。お互いが支え合って働きやすい職場を形成することで、長期的には、結果的にみんなの「幸せ」を増やすことができるんですよね。

記事冒頭の古河先生の言葉を再掲します。

産業医の場合は本人は当然として、その家族や職場の仲間、さらには会社という組織も含めて、さらに時間的にも長い目で見て、将来に渡っても幸せの総和を最大にする

味の素株式会社 人事部グループ川崎健康推進センター 産業医 古河 泰https://www.johas.go.jp/Portals/0/data0/sanpo/sanpo21/pdf/114_p12-13.pdf

つまり、私たちが目指す「幸せ」とは、時間軸的に長い目で見る必要があって、集団(99人側)の少しずつの潜在的な「幸せ」をも考える必要があるということです。

未来の幸せをも最大化する

事業者も労働者も困っていない状況であっても未来の幸せを考えるのも産業保健職の役割です。例えば、騒音現場で働く労働者も、働かせる事業者も、その状況を許容していたとしても、産業保健職は、未来に騒音性難聴で苦しむ労働者(や、それで訴訟される事業者)がいれば、その状況を許容できませんよね。本人が気がついていない、気がつけないような、未来の幸せも想像をして、その幸せを最大化できるように専門家として意見を伝える、ということなんですよね。

集団(みんな)とは誰か?

「幸せの総和を最大化する」という総和とは、どの範囲を指すのでしょうか?その集団とは?みんなとは?この問いは、「幸せの総和を最大化する」ことの難しさをさらに増すものです。産業保健的にわかりやすく言えば、集団とは、職場単位であり、企業単位でしょう。その範囲において「幸せの総和を最大化すること」を目指すことが求められることになります。しかし、産業保健はもっと深くて面白いことに、その範囲だけで考えるものではなく、ときに地域単位や国単位になったり、事業活動の影響を受ける地域住民、顧客をも含めうることがあります。そんなこと産業保健職には期待されていないとしても、産業保健職が考えるべき幸せの主体者は単に事業者や労働者ではないのです。産業保健活動の受益者はいち企業に留まるものではなく、地域社会であるとも言えますね。産業保健職には圧倒的な当事者意識が求められるということであり、産業保健職は独立した立場であることも重要になってきます。当事者意識がなければ言うべきことも言わなくなりますし、独立した立場がなければ言うべきことも言えなくなりますからね。

なにをすればいいの?

話を戻します。みんな違う方向を向いているときに産業保健職はどうすればいいのでしょうか?対立がうまれているときに、産業保健職はなにをすれば集団の幸せの総和を最大化できるのでしょうか?

なにをすればいいなんて正解はない!

自分で振っておいてなんですが、そんな正解はありません!笑
正解はないのですが、いくつかの考え方を示します。

集団の合意形成を図る

集団には、さまざまな人がさまざまな思惑・考え方をもってます。労働者という個人であれば背景や価値観などの事情もあるでしょうし、上司や人事担当者といった役割や立場的なこともあるでしょうし、経営層や事業者であれば、もっと別の視点、広い視点を見ていることもあるでしょう。その中で、ものごとを進めようと思えば、それぞれの意見をだしてもらい、合意形成を図るしかないのだと思います。その意見が本音か建前(嘘含む)かは問いません。意見を出してもらい、それぞれの少しずつ譲歩・我慢したり、リスクを許容したり、リスクテークしたり、コストをかけたりしながら、合意形成を図っていくということだと思います。

納得感を醸成する

利益や幸せというものは、ガチっと固まったものではなく、流動的であり、感情的なものです。例えば「退職する」、「休職する」といった同じ結論でも、そこに至るプロセス次第で、納得感が得るものにも、反発や怒り満載にもなりえます。産業保健職にできることは、そのプロセスによって納得感が得られるようなものにすることなのだと思っています。

記事冒頭の小田上先生の言葉を再掲します。「納得感」もまた最大化するものだと言えるのかもしれません。

産業医としては常に全体最適の視点を忘れず、 関係者の「納得感と幸せの総和」を最大化できるような試みを継続していきたいと考えています。

HOYA株式会社 HOYAグループOSH推進室長/産業医(当時) 小田上 公法
https://www.johas.go.jp/Portals/0/data0/sanpo/sanpo21/pdf/104_p12.pdf

「適正配置」の考え方

1人の労働者が病気になった原因が、その働き方にあったとしたらどうでしょうか?(つまりは、業務起因性がある場合)その場合には、その原因を改善することで、その人以外の99人にとっても「幸せ」がありそうですよね(実際にはそんな単純な話ではありませんが)。「作業を人に合わせる」という「適正配置」の考え方によって、「作業を改善してどんな人でも働けるようにしていく」ように、病気になった労働者の支援を行うことは、集団の幸せの総和を増やすことに貢献できそうですよね。産業保健職として、「幸せの総和を最大化する方向に持っていく」ということは、産業保健職として『産業保健の目的である「適正配置」』という考え方をコアに持ちながら進める、ということなのだと思います。

全員がマックスに幸せになることはない

事例によっては、合意が形成できなかったり、納得が得られなかったり、幸せな結論に導けないこともありえます。みんなにとって完全に円満な解決には至らないということです。まさにトロッコ問題のように、誰かが不幸になる(犠牲になる)ということもあるのかもしれません。企業ができることにも限界がありますからね。「幸せの総和」をつくるということは、誰かの犠牲や、不幸せな状態、我慢をも許容しなければならないということの裏返しでもあります。みんながみんなマックスに幸せにはならないということですね。

1人 vs 99人

1人への職場の配慮は、99人にとって負担になりうるときもあります。その人の業務を他の人が肩代わりしていたり、ミスをカバーしていたり、お荷物になっていることもあるかもしれません。1人の「幸せ」を優先することが、その他の99人にとっての「幸せ」につながらないことも知っておく必要があります。そして、その見極めも産業保健職には求められるうるということです。産業保健職(医療職)はついつい弱者保護・弱者支援をしたがりますし、困っている個人支援をしたがりますが、個人への支援は、それ以外への大多数への支援とは背反しうるということも理解する必要があるということです。

「幸せ」とは誰の価値観?

当たり前かもしれませんが、「幸せ」の価値観は、産業保健職の価値観だけで判断するものではありませんよね。とは言っても、産業保健職のベクトルの先に「幸せ」や「利益」、「より良い状態」がある以上は、産業保健職としてもなんらかの「幸せ」のイメージを持っておく必要があります

何をするかが産業保健職の能力

「幸せの総和を最大化するための営み」は産業保健活動の答えのない究極的に難しいところです。そして、最大化したかどうかは神のみぞ知る世界であり、産業保健職が感謝されないことも多いんですよね。しかし、関係者の利益が対立したり背反するような事例が起きるごとに、そういう場面に遭遇する度に、幸せの総和を最大化するためにどうすればいいかを考え抜き続けることを繰り返すことで、産業保健職の能力が磨かれていくのではないかと思います。誰の、どこまでの、どのような幸せを、想像できるのか、それが問われてるのだと思います。


事例

事例1

(若年性)認知症や、ALS、パーキンソン業などによって就業能力が徐々に下がっている労働者が働き続けたいと申し出たときに、職場(上司・同僚)が最大限配慮したとしても、やはり就業能力が低下してくれば、どこかで線引きして、退職せざるをえないときはありますよね。その労働者の幸せと、職場(上司・同僚)と、企業のさまざまな幸せを鑑みて、どう幸せの総和を最大限できるか。合意形成を図りつつ、線引きをしつつ、納得感を得つつ物事を進めていくということです。以下、若年性認知症を抱える労働者Aさんとして、Chat-GPTに作ってもらいました。

  1. 労働者Aの利益:
    就業を通じて経済的自立を維持し、自尊心や生活の質を高めることができます。社会的な孤立を防ぎ、精神的な健康を支えられます。

  2. 職場の利益:
    Aさんの認知機能の低下が職場の生産性に影響を及ぼす可能性があります他の労働者がAのサポートの負担が増大します。

  3. 企業の利益:
    Aさんを支援することで、企業の包括的なイメージと従業員満足度を向上させることができます。一方で、法的リスクや安全衛生上の問題に対処するための追加コストが発生する可能性があります。

  4. 社会の利益:
    認知症を持つ人々への包括的なアプローチを示すことで、より広い社会に対する意識と理解が促進されます。認知症に対する公平な労働機会の提供は、社会全体の包摂性を高めることが期待されます。

決定:

労働者Aの就業継続は、彼の認知状態と安全性を綿密に評価した上で考慮する必要があります。適応可能な労働条件やフレキシブルな勤務時間、必要に応じた職務調整を提案することが、最大多数の最大幸福に貢献する方法です。また、定期的な健康評価と職場でのサポート体制の整備も重要です。

このケースでは、労働者Aの福祉と企業の責任をバランス良く取り扱うことが求められます。同時に、認知症を持つ労働者が直面する課題に対する公正で包括的な対応が社会に求められています。

事例2:メンタルヘルス不調を抱えた労働者の職場復帰

こちらは、事例からChat-GPTに作ってもらいました。

労働者Bは、過去にメンタルヘルスの問題で休職を余儀なくされました。現在は健康状態がおおむね改善し、主治医からも職場復帰が可能であると診断されています。Bさんは働かないと生活が困るからと職場復帰を望んでいます。

企業の観点:
企業は労働者の健康や意向を重視する一方で、生産性と職場秩序を保つ必要があります。労働者Aの復職による影響を慎重に評価する必要があります。

  1. Bさんの利益:
    ・職場復帰により、経済的自立と社会的なつながりを回復できる
    ・仕事を通じて自己肯定感や達成感を得ることができる。

  2. 職場の利益:
    ・Bさんが健康な状態で復帰することで、職場の協力体制や士気が向上する可能性があります。ただし、Bさんが再びメンタルヘルスの問題を抱えるリスクがある場合、職場の負担が増える可能性もあります。

  3. 企業の利益:
    ・Bさんのスキルと経験を活かすことで、企業全体の生産性を高めることが可能です。人材採用コスト上の利益もあります。
    ・労働者が健康問題を公正に扱われると感じることで、企業の評判や従業員の満足度が向上します。

  4. 社会の利益:
    ・メンタルヘルス不調を抱えた人々への理解と支援の文化が促進され、働きやすい社会が促進されます。
    ・労働者が健康を回復し、社会に再び貢献することで、社会全体の福祉が向上します。これは労働力の確保という観点上、とても重要ですよね。

功利主義的な考慮に基づけば、このBさんの職場復帰は、本人だけでなく、職場、企業、社会に対しても最大の幸福をもたらすと判断されます。ただし、これはBさんの状態が安定しており、職場で十分なパフォーマンスが発揮できるという前提があり、職場での適切なサポートが提供されることも必要でしょう。

いかがだったでしょうか、事例を通じて理解が深まりましたでしょうか。

おわりに

「幸せの総和を最大化する」という言葉の理解にはつながりましたでしょうか?自分でも、この言葉を深掘りしてみて、改めて産業保健の難しさを突きつけられたように思います。幸せという形のないものを、広ーーーい範囲で最大化することをどう追求するか。終わりのない、答えのない産業保健の姿がまさに表現されているように思います。少しでも参考にしていただければ幸いです。

参考

高尾メソッドでも、功利主義が語られていますので、ぜひどうぞ



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