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幸せは、学校に作ってもらうのか?(みんなの「今」を幸せにする学校)

 熊本市教育長 遠藤さんの本。文科省から起業経験を経て、熊本市の教育長という異色の方である。またあとがきでは、悪性リンパ腫の病に侵された旨も記載されており、この方しか見えていない景色を見られているように思う。一方で、Noと言えない内容が多く、「書いてあること全部できたら良いな」というあまりモヤモヤのない読後感(どんどんやるのみ的な)でもある。それでも、より学校に福祉機能への期待が高まる中で、今後の教育の機能はどうあるべきか、考えてみたいと思う。


今の幸せ、民主主義の担い手、エージェンシー

 本書の大枠は次のとおりである。筆者はこれまでの学校は”未来”の幸せの追求を行ってきた、と定義し、これからの学校は”今”の幸せを追求すべきと主張する。”今”の幸せを追求するためには学校の福祉機能を拡大するべきであり、そのための予算措置が重要だ、というものである。

 その上で、これからの学校は”民主主義の担い手”を育てるべきとも主張する。民主主義の担い手、つまり「自分で自分の国のことをやる」ために”エージェンシー”が重要とも説かれる。エージェンシーとは、自分・周囲を良い方向に影響を与える能力や意思のこと。福祉機能を拡大しつつ、教育機能としてはこのエージェンシー育成に重きを置こう、という主張と理解した。


学校は教育のためか、福祉のためか?

 さて、では学校は教育のためか、あるいは福祉のためのどちらのものであろうか?もちろん既にどっちの機能も保有している。ただ、例えば不登校や子どもの貧困、ヤングケアラー等の昨今の議論を鑑みると、より福祉的機能が強まっていくように思う。

 問題はこの機能の強め方だ。現状と同じリソース(変わらない教員数、増えない予算、配置されない教員外職員etc.)で福祉機能を強めようとしても、それは現場の疲弊を生む、あるいは教育機能の低下が起こる。そう考えると、筆者が最終章の中で「最も重要なこと」と題をつけ、主張している「予算増額」はしごく当然のことである。

 当たり前に厳しい環境に置かれている児童生徒のことを考えると、私も福祉的な予算が増額されることは賛成である。しかしひとつわからないのは、”福祉”を学校の機能として拡大させるべきなのか?という点である。いうなれば、”大きい学校”を志向するのが良いのか?ということだ。筆者は本書の中で次のように述べている。

「連携」という方法は実施する側にとっては好都合ですが、出来なかったときの責任体制が明確ではないという問題があります。別々の組織が別々の仕事をしている限り、常に「連携不足」が起きるリスクがあります。「出来た方が良い」という場合には適した方法でも、「できないと困る」場合にはあまり向いていません。

 学校が福祉機能を備えるということは、組織が大きくなること。それはいわゆる大企業的・お役所的になり、結果的に児童生徒へのケアが後手に回ることはないのだろうか。この点は引き続き考えてみたいと思う。


エージェンシーへの違和感

 教育の方に視点を移そう。本書の前半で展開されるのは先のまとめの通り、エージェンシーを育む教育への転換である。文科省風にいうと主体的な学び、経産省風にいうと学習者中心の学び。多少の定義の違いはあれど大枠は違わない。そこには、児童生徒を受身的にしてしまう(と思われる)学校教育への反省があるように思うし、今の時代には受け身で言われたことをこなしても幸せになる時代ではないよ、という投げかけもあるだろう。

 このエージェンシー育成、つまり「自分・周囲を良い方向に影響を与える能力や意思」の育成。エージェンシーを発揮する人は、社会にとって価値があると思えるし、その人自身も充実感ある日々を送るイメージも持てる。しかし、どうしても違和感を持ってしまうのだ。それは”社会的立場のある人だからエージェンシー育成を期待する”のではないかと思ってしまうのだ。つまり、すでに一定の社会的影響を発揮でき(行政の長,官僚,有識者,,,)、その価値を知っているからエージェンシーが重要と説く。しかし、大勢の人にとっては、自分はまだしも、周囲をよくするというのはそう簡単なことではないのではないか。

 もちろん、家族や友人程度を周囲とするならわかる。しかし、本書では民主主義の話まで出てきている。民主主義の体現者になるべくエージェンシーを持とう・育もうと言われても、それこそ生まれの差=教育格差もますます大きくなる中で、平等なのは持っている1票のみ、それでエージェンシーを発揮しろというのはなかなか酷なのではないか。だからこそ福祉機能の拡大で教育格差是正、という論調もわかる。しかし、公教育で是正できる格差は教育機会であり、質を平等にするわけでも、まして家庭所得や人的ネットワークを平等にするわけでもない。このような差がある中で、学校経由の福祉機能を拡大した程度で、エージェンシー育成へ舵を切るということに、なんとも言えない強者からのメッセージを感じてしまうのである。

*丁寧に記載したいのだが、遠藤教育長が傲慢とも思えないし、むしろ本書を読むと本当に現場主義かつ相対的に弱い方への配慮があり、かつチャレンジもされている方というのが端々から伝わってくる。あくまで昨今の大きな議論の方向性への違和感としてであり、ただし本書も関連している記載があったため表現したことを付記したい。


エージェンシーを発揮できない人でも幸せになる社会とは?

本書のタイトルは、『みんなの「今」を幸せにする学校』である。では、エージェンシーを発揮できない人でも幸せを感じる社会とは? ここまで感想をまとめながら、こんなことを思う。もちろんエージェンシーを発揮する人含めて、である。
学習指導要領で学習内容は規定され、規定された学習を行わざるを得ず、その学習は定められた観点で評価される。このような学びが大半を占める学校で、エージェンシー=自分・周囲を良い方向に影響を与える能力や意思を発揮せよと言われても難しい注文ではないか。むしろ、1人1人の個性が尊重され、自身の存在する意味を実感できるような学習集団,学校文化,学校風土を創り上げることこそ、結果的にエージェンシー育成に繋がるのではないか。個々人単位での学習内容の弾力化、評価規準外の見取り、何より余白あるカリキュラム。この辺りが大切になると思う。
後ろ向きではない「私はこれでいい」をみなが言えるような社会。社会に影響を発揮したい人、周囲関係なく自分の充実を追求したい人、みなが幸せな状態。学校における1人1人の個性の尊重,個性ある学びが、そこに繋がっていかないかなと思うのである。


幸せは、学校にしてもらうものか?

みんなの「今」を幸せにする学校。では、幸せとは学校にしてもらうものか?否、「私はこれが幸せだ」と自身で思うことが大切ではないか。それでもしかし、そう思えるようになること、そう思える環境を作ることに、学校という場は重要だと思うのでもある。

ここまでお読みいただきありがとうございます。
是非ご感想など伺えれば幸いです。

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