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成熟社会で学ぶべきことは何か?(「生存競争」教育への反抗)

 少子高齢化は加速するし、昔のような経済成長は見込めないし、その割に「社会問題だ!」と言われることはどんどん増えていく。こんな時代で学ぶべきことは何なのだろうか?最近のもっぱらの問いだ。そんな矢先、ふとAmazonのリコメンドで本書が出てきた。生存競争教育に反抗する。タイトルから大変期待した。競争に勝っても幸せになれることが保証されないこの時代、どのような教育が望ましいのだろうか

 結論、前半の問題提起は大変共感しながら読み進めた。他方、最終章の帰着がそれでよいのか?と思う部分は大きかった。それだけ難しいテーマと思う。ただ、「教育」に関して、特に保護者の立場でモヤモヤしている方であれば、前半の問題提起だけでも読む価値は大いにあると思う。

親が抱えるジレンマ

親は、子どもに対して責任を負っている。子どもの人生への責任だ。どのような教育を選択して提供しようとも、その責任感から逃れることはできない。どのような教育が良いのかよく分からない上に、美辞麗句を並べた教育サービスが乱立する時代、どのような教育を選択するのも自由な一報で、その選択はますます親を悩ませるものになる。

何よりものジレンマは、「学歴獲得に有利になるよう、キッチリ教育していくか」と「その子らしく育つよう、ノビノビ教育していくか」という点だ(筆者は、学歴主義・童心主義・厳格主義で整理する)。しかし悩ましいことに、以前は労働市場への有利なパスポートとなった学歴は、現代ではそのまま万能なパスポートとはならない。学歴獲得のための認知能力向上は、ある程度やり方も見えているが、一定の労力が必要だ。特に子供の時間を奪う。

 一方で、厳然と残る「高学歴の方が収入が良い」という事実。筆者は結婚のしやすさや雇用安定性なども引き合いに出しながら、学歴保有のメリットデメリットを指摘する。

重学歴な人、軽学歴な人

 持っていなかった言葉に、この『重学歴』『軽学歴』がある。多くの資源(お金、時間)を投入して学歴を獲得することを重学歴、こだわりもなく学歴を軽やかに扱うことを軽学歴と表現されていた。これは大変興味深い整理で、高学歴⇔低学歴で議論すると当然高い方が良い、という帰結になりがちだ。他方、重学歴は学歴により様々なことが縛られたり、失われる。例えばお金・時間もそうだし、競争に勝つことを目的にした学習環境に長時間身を置くことも何かしら失うことがあるだろう。

 一方で、以前noteも紹介した『教育格差』の松岡亮二先生のキーフレーズ"緩やかな身分社会"も引用されており、学歴偏重批判をするだけにとどまらない。今の時代に、望ましい教育を腹決めする難しさを存分に示しているように思う。

それでも、いわゆる不利な人・弱者として表現されがちな「低学歴」を「軽学歴」と再定義し、(本人の意図かどうかは置いておいて)教育は必要最低限だけ受けて、軽やかに労働市場に出ることを選択する生き方と意味付けすることで、タイトルの通り「生存競争」で疲弊する人たちに一石を投じているように感じた。

学校不信はなぜ無くならないか

 教育改革が叫ばれるこの時代、学校のあり方も様々な議論がある。そして、今は学校に対してややネガティブな空気が流れていると言っても、違和感はないだろう。その原因を筆者は、公教育=学校が矛盾する3つの期待を受けているからと指摘する。1つは、社会移動への期待「努力により、自由に階層を上がったり、望んだ場所にいれるように教育する」。2つ目は、社会的効率への期待「国/産業の発展のために必要な人材を育成するために教育する」。3つ目は、民主的平等への期待「平等に教育機会を提供し、市民を育成するために教育する」。お気づきの通り、1,3つ目は矛盾するし、2,3つ目も矛盾する。だから学校は常に期待に応えられない=批判は続くのだ。

 このような仕組みがある中で、世界的な潮流であるコンピテンシー育成や、日本の資質能力育成に舵を切った教育改革に対して筆者は手厳しい。コンピテンシーを育成しようとすると、ますます教育活動は抽象化されていく。教育が教育として高度化・純化していくことと、人間の幸せは別ではないか。「個人の人生の成功」と「うまく機能する社会」の両方を教育に期待しすぎではないか。指摘の通りと思う。

競争に勝ったか負けたかも、自分の意味付け次第ではないか?

 現在の教育界を取り巻く論点を多く扱い、また各論点に対しても多面的に考察されており、大変興味深い。一方で結論は焦ったように感じる。

 例えば、コンピテンシーは抽象的すぎると言いつつ、提案も相当に抽象度が高い。「教科を通じて世界に出会わせる」という主張したい方向性はわかるが、抽象度が高い上に「それが出来たら苦労しない」的な話だ。京大・石井先生の『教科する授業』『真正な学び』も引用されていたが、この言葉だけでは具体の解釈は人によって全く異なるだろう。なぜこれまでは出来なくて、これから出来るのかも、根拠に乏しい。
 また、消費財になってしまっている教育の扱い方を再定義し、新しい形で教育を教授する「新たな消費者を育成する」としているが、ここもかなり抽象度が高い,,,本書の中で最も理解できなかった点だ。認識違いかも知れないが、前段で経済力の違いによる格差、階層再生産に触れているのにこの着地は残念である。
 さらには、主体の話も終盤取り上げられているが、なぜOECDのAgencyに関する議論が取り上げられていないのかも不思議だった。

 提案に関しては今一つ納得感が薄いものの、学校教育,学歴の扱い,保護者の関わりに関しては現代の問題点をかなりシャープにまとまっていた。こんな時代、すなわち成熟社会で学ぶべきは何か?自分自身で価値基準を作ること。人の作ったレールで競争するのではなく自分なりの競争のルールを作ること。自分なりのルールでうまくいかなくても、前向きにまた進んでいくこと。一人一人の中にこんなことを、教育によって少しでも実現できたらいいなと思う読後感であった。


ここまでお読みいただきありがとうございます。
是非ご感想など伺えれば幸いです。

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