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なぜ学校は、生徒に学んで欲しいのか?(大分断 教育がもたらす新たな階級化社会)

学校は何を願い、生徒に学んで欲しいのか

 大前提として、本書は広く教育について論じており、学校教育や民間教育、家庭教育を分けて論じているわけではない。それでも読後に思うのは、なぜ学校(教員,親)は生徒(児童,子ども)に学んで欲しいと願うのか?学びの成果をどのように感じて欲しいのか?そんなことを思う。

 まず、昨今の教育が抱えている問題は、日本だけでなく世界中の国で似たような状況のようだ。経済成長が進むと進学率上昇が同時に起こる。例えば日本の大学進学率は約50%で高止まり。しかし、いよいよ成熟社会に突入し、極端な経済成長が期待できなくなっている昨今、良い学歴を獲得しても社会に受け皿が足りず、一定の地位を確保できるとは限らないということが、先進国中心に起きているそうだ。

  一方で、親の学歴は"自身の年収""子どもの学歴"などに繋がり、格差再生産が進んでいることは昨今よく言われている通りだ(これは次回「教育格差」でまとめたい)。社会的地位・経済的豊かさを得る"スタートライン"に立つために学歴が必要な一方、そのレースで頑張っても報われるとは限らないという辛い状況。このような状況下で、学校(教員,親)は、どのように生徒(児童・子ども)の教育をどのように考えるべきなのだろうか。

教育に何を期待するか

 教育は社会を良くするためか?教育は国を豊かにするためか?教育は経済的豊かさを得るためか?こう考えると辛そうだ。社会のためといっても、これだけ社会に色々な考え方があることが見えてしまう昨今では一義的な"社会"とはできないだろう。国のためといっても、全体主義的だし、そもそも国がどこに向かうのかも不透明だから難しい。経済的豊かさのためといっても、経済成長は停滞しているしより富の集中が進んでいるのだから大半は報われない。

 では、"教育は自分なりの幸せを手に入れるため"と考えることはできないか。後ろ向きな意味ではなく、前向きに「私はこれでいい」「私は納得している」と言える。他人が作る評価基準でなく、自分が作った評価基準で納得できるところを目指せる。そんな生徒像(児童像・子ども像)を目指して良いのではないかと思うのだ。

日本型民主主義と、他人が作る評価基準

 「他人が作る評価基準ではなく、自分が作る評価基準」と記載した。本書で関連する点として、民主主義の3タイプについて考察がされている。1つ目は、仏米英型民主主義。自由と平等がベースで、家庭内でも"個の自由""平等"という価値観がある国の民主主義だ。2つ目は、日独型民主主義。自由と平等を謳いながら、他方で権威と不平等の存在を認めているという国が該当する。この背景には、家父長制度や兄弟間の不平等などが長く続いてきた歴史的経緯があるためと考察されていた。また特徴として、「階層や、自分たちより上に誰かがいる」という階層主義をすんなり受け入れる、というものがあるそうだ。なお3つ目は、露型民主主義で、権威主義と平等主義が混在しているものだ。

 テストで1点でも取れた生徒の方がなんとなくすごい、難易度の高い入試を突破した生徒の方がなんとなくすごい、より厳しい選抜の学校に所属している生徒の方がなんとなくすごい(就職活動や、企業内の評価基準でも同様のことが起こるが)。これらは間違いなくあるだろう。ただ、これらの競争の大半は、他人が作った評価基準での競争だ。先に日本型民主主義の背景と繋げて考えると、どうもそうした競争を盲目的に受け入れすぎと思うし、盲目的な割には気にしすぎとも思う。

生徒が直面する競争に"意味づけ"を

 「他人が作った評価基準で判断される」場面は、紛れもなく存在する。それらを無くすことはできないし、逃げてばかりにもいかない。ただ、当然と受け入れて、その競争での勝利が目的になるのも違う。その競争の結果で、自分のアイデンティティを作るのも違う。なぜなら、それで幸せになれる可能性が低いことは、冒頭の通り目に見えているからだ。自分なりに競争に意味づけし、結果を納得できるか。本書のタイトル「大分断」が起きていると言われる時代だからこそ、そんなことを思うのだ。


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