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成長社会が終焉する中、学校はどうあるべきか?(FUTURE EDUCATION! ―学校をイノベーションする14の教育論)

いつも文句を言われ、いつも期待される学校教育

 学校は個人のためにあり、社会のためにあり、国のためにあるのだろう。それぞれの意味付けは時代で変わるが、どれかが0になることはない。常にグラデーション的に変わりながら、その存在意義を見出していくしかない。

 2021年になった今、相変わらず学校は日本社会停滞の要因にされる。ありたい社会を描けていない政界,行政、業界のビジョンを牽引する企業がほぼ見当たらない経済界も相当な責任があると思うし、その影響を受けて教育行政は施工されることを踏まえると、やはり学校だけが要因ではないと思う。強い世間に所属することが社会的価値だった歴史的経緯、空気で意思決定する国民性など、様々考えるに値するだろうが、とはいえどこに責任があるかを考えることに意味はないだろう。どちらにせよ、学校教育に変革の期待があり、日本社会がより良くなるきっかけの一つなことは間違い無いだろう。

成熟社会化での、学校の役割とは?

 以前の個人の幸せとは、良い大学に入り、良い企業に入社することだった。以前の良い社会とは、皆が物質的に豊かになる社会だった。以前の良い国家とは、前述の社会を実現するための政策がとられている国家であった。しかし今は違う。良い大学に入って良い企業に入社しても、全く安泰では無い。もちろん今も苦しい生活をしている人は一定数いるが、物質的な満足は上限値を迎えた。国の施策でさらに満足が引き上がることもなく、安定性が確保されているわけでも無い。いわゆる、成長社会から成熟社会へ、ということだとも思う。

 このような状況下の学校の役割とは何だろうか。あくまで個人的な意見だが、一人一人が自分なりの幸せの意味を見出せるようにすること(それが将来だとしても)。精神的な豊かさを感じる社会の作り手になれるようにすること。そんな役割では無いだろうか。そんな人が増えれば、良い政治が行われる民主主義的国家も自ずとできているだろう(そもそも与えられることに慣れている日本人に民主主義という概念はまだ根付いてないのではないか)。

学校は、何をどこまで担保すべき?

 改めて書いたが、総じてどの有識者も似たことを言っていると思う。ではなぜできないのか?そして、学校はどこまで上記を約束すれば良いのだろうか?昨今のコロナ禍では、学習権の保障が叫ばれるが、どのような学習をどこまで保障すれば良いのか?すなわち、学校の先生が出すべき結果は、何をどこまで約束すれば良いのだろうか?こんなことを思う。

 

今回は、内容にほぼ触れない読後感のまとめになりました。ご容赦ください。ここまでお読みいただきありがとうございます。
是非ご感想など伺えれば幸いです。

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