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昭和20年1月の演芸事情

 戦う都民へお正月の贈り物として警視庁では健全娯楽の映画、演劇、寄席などの興行時間を元日から七日までの松の内と、十五日から十七日までの藪入りの間は、朝九時からはじめてよろしいこととした。
 映画館の方は四回上映、演劇の方は三回興行であるから、いずれも夕方までにははねるわけであるが、この期間中に限り閉場時間を遅らせ夜間まで興行してもさしつかえないことになったので、都民も家庭の防空態勢を備えたらゆっくり鑑賞もできよう。

 のっけから孫引きで申し訳ないですが、半藤一利『安吾さんの太平洋戦争』より、「読売新聞」昭和20年正月元日のコラム「紙弾」の記事となります。

半藤一利『安吾さんの太平洋戦争』(ちくま文庫、2024)

 戦争中、日本国内では国民生活に様々な規制がかけられていました。
 灯火管制では夜間の明かりに厳しい制限が課され、外灯はもちろん家の中の明かりが外に漏れることにも大変神経をとがらせていました。そんな状況で劇場の夜間興行などとんでもないというわけでした。
 また劇場といいますと、演じられる内容にも統制が及んでおりました。例えば落語では吉原や男女の不倫を扱ったり、少々下ネタが過ぎたりするような噺53種類が警視庁から直々に上演禁止を通達されています。
 そうした環境下での緩和のお知らせですから、正月に合わせた大盤振る舞いといえるでしょう。

 けれども、この規制緩和に対する反応があまり芳しくない、というより私の観測範囲内では皆無なのです。

 そもそも時期的には昭和19年11月1日を境に、東京でも空襲警報が鳴りはじめ、B29が飛来、焼夷弾や爆弾を投下する本土空襲が本格化しはじめています。
 昭和19年12月31日つまりは大晦日の夜から昭和20年1月1日の未明にかけては、東京の御徒町や秋葉原が中心として被害に遭い、800戸以上を焼失し50名以上の死傷者を出すという惨事に見舞われており、東京には迎春という雰囲気はほとんどありませんでした。
 そこで映画館や劇場の開演を増やすといわれたって手放しで喜ぶ気になれないというのはわかります。

 かといってそれと無関心というのは少し感情のベクトルが異なるように思えます。

 これまで私はそれなりに戦中の日記を読んできたつもりだったのですが、半藤一利のこの著作を読むまで、昭和20年の正月にこんな通達が警察から発せられていたなんてまったく知りませんでした。
 それで改めまして該当の日付を調べてみたのですが、やはり劇場興行についての言及は見当たりませんでした。
 例えば新聞記事を日記によく引用している清沢洌や、寄席や劇場に大いに縁がありこの時期は何かと政府や官庁のやる事に批判を投げ掛けている永井荷風にも見当たりません。

 さらに出演する側もこの点について何も語っていません。

 活動写真の弁士から漫談家・俳優に転身した徳川夢声は昭和19年12月中旬に中国・九州の慰問巡業を行い24日にようやく東京に戻ったところで年内は浅草松竹演芸場や新宿松竹館に漫談道場という企画で出演、年が明けて昭和20年になってからは工場慰問やラジオ出演を行うなど非常に精力的な活躍を見せていますが、劇場や演芸場の興行時間については一切触れていません。

 噺家彦六の正蔵こと八代目林家正蔵(当時は五代目蝶花楼馬楽)は、昭和19年12月末からマラリアの再発などで体調を崩していることが多かったですが、27日に新春興行の出番表をもらっているものの、劇場の時間延長については何も書いていません。31日の夜は御徒町空襲での鎮火に尽力して気がつけば年が明けていたという具合で、「洵に決戦下には暮も元旦もないわけだ」という感想を書き留めています。元日以降は上野鈴本や浅草松竹演芸場、新宿末広亭などに一日で何公演も出演していますが寄席の公演時間は言及していません。

徳川夢声『夢声戦争日記』全7巻(中公文庫、1977、1978)
八代目林家正蔵『八代目正蔵戦中日記』(瀧口雅仁編、中公文庫、2022)

 興行時間の記述はないものの、戦中日記を確認しますと、昭和20年1月の元日から7日までの松の内および15日から17日までの藪入りの間に劇場に足を運んだ例がを二つ発見できました。

 一人目が山田風太郎で、このnoteでも何度も紹介しておりますが、後に『甲賀忍法帖』『魔界転生』などで忍法ブームを巻き起こす奇想の作家も、当時は23歳で東京医専に通う医学生でいずれ軍医となる勉強をするかたわら、非常に濃密な日記をつけて日々の暮らしを記録しておりました。これが『戦中派不戦日記』として現在も残っています。

山田風太郎『戦中派不戦日記』(講談社文庫、1985)

 その1月6日の記載に、

 〇「浅草に三亀松のドドイツをききにゆかないか」と勇太郎君がいうので、午後、地下鉄で浅草にゆく。浅草花月に入る。

同書、p. 15

 三亀松こと柳家三亀松はドドイツの名手で当時の大看板中の大看板、フルネームを書かずとも「御存知三亀松」で通ったというのは現在でも語り草になっているほどです。この時の公演は三亀松の他には、上田竜児の鉄棒、あきれたぼういずのリーダー格で戦後は美空ひばりなどを育ててゆくことになる川田義雄の喜劇「八五郎一番手柄」が行われたようです。
 この興行自体が警察などのお墨付きによる特別なものだった可能性も高そうですが、明確にはわかりません。
 これらの公演は三亀松を除いてはあまり風太郎の意に添わなかったようで、

 花月を出れば外蒼茫。盛り場、いたるところに疎開空地作り、実に荒涼たり。「浅草もヒドくなったなぁ!」との嘆声きこゆ。さすがに人波あり。たちまち「すり! すり!」と叫びて波の向うを四、五人駈けゆくが見ゆ。これにてはじめて、ちょっと浅草情緒を感じたり。

同書、p. 16

 と歓楽の気分を喧噪の中に覚えている始末でした。

 もう一人は作家であり詩人である高見順です。戦前・戦中期にダダイズム、プロレタリア文学、転向、軍部報道班としての海外派遣などを体験した、いわゆる鎌倉文士の一人で、当時頻繁に東京へも行き来をしておりました。

高見順『敗戦日記〈新装版〉』(文春文庫、1991)

 劇場へ出掛けたのは1月16日で、行き先は新橋演舞場。六代目尾上菊五郎の「鏡獅子」「雪曙誉赤垣」が掛けられていました。

 しばらくこの世界から離れていたので、菊五郎の踊りをぽかんと見ている。白く白粉を塗った咽喉のシワがややグロテスクでもある。
 芸術は、現実とちがって、いきなりそのなかに入れるというものではないのだ。それが芸術なのだ。
 やがて、入れた。
 女工さんらしいのが、(或いは女学生か、この頃両者の区別がつかぬ)遅れて座席に入ってきて、舞台から数列目のところに腰かけた。菊五郎が踊りながらチラとそれに眼を落した。
 客種がすっかり変っている。菊五郎の踊りをほんとに愛し理解している客は果して全体のどれくらいか。
 そうした客の前で懸命に踊っている、菊五郎の心事を察した。気の毒だと思った。

同書、p. 26

 なんとも傲慢な理屈ではありますが、ここに劇場の公演時間延長に対する人々の無関心を考える一つのヒントがあるように思えます。
 ここでの記述が、いわゆる女子供を蔑視する高踏的な発想によるのは違いないとしましても、その発想にいたる「何故か?」については、前段で「芸術の作品世界に入り込むには準備が必要」という理由が語られています。

 高見順のいう通り、作品世界に入り込むにはある程度の準備が必要となります。

 ただしそれは、学問や経験といった個人的な素養に限りません。もっと広く、公演を観覧する場や雰囲気といった環境、さらにはそうした環境を整える時代の空気ができあがっていなければ、おいそれといくら演者が超一流であったとしても作品世界に没入して、鑑賞することなどできないのです。
 いみじくも高見順自身が書いているような、女工か女子学生か判断がつかないほどの状況、それは向こうからすれば作家だか工場労働者だかわからない状況でもあるでしょうし、観客だか劇場のスタッフだかわからない状況でもあり、そんななかでは誰だって落ち着いて作品世界に入り込めません。

 山田風太郎がスリ騒ぎに浅草らしさをやっと感じたように、猥雑な環境の中に現れてくる作品世界というものも存在します。
 敵性言語を排して、下品で軽薄な物語を許さず、警視庁が認めた「健全娯楽の映画、演劇、寄席」だけを上演するというお仕着せでは、そもそも没入すべき作品世界さえ既に色あせてしまっていたのではないでしょうか。

 いくら興行時間を延長すると囃し立てても、舞台に立つ方もそれを見る方も、既に作品世界を味わえる環境も時代空気も失われていることを感じ取っていて、だからそこに特に関心を向けることさえなくなってしまっていた。そういうことなのかもしれません。

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山本楽志
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