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井上真史『現代「ますように」考』を読みまして

 寺社仏閣名所旧跡深山幽谷津々浦々、私たちは足を運びますと、多かれ少なかれ日常とのギャップを覚え、思わず手を合わせてその景色に感謝の意を表します。そのついでにお願いもします。

「またここに来ることができますように」「健康で長生きできますように」「体の不調が回復しますように」「仕事がうまくいきますように」「受験で合格できますように」「家族仲良くできますように」「恋愛がうまくいきますように」「私のかわりに他の人が失敗しますように」

 再訪の願いがどんどんと具体的になってきて、しまいには訪れたことが願いの目的となっていくこともしばしばです。
 そもそも日常を出たから願うのか、願うために日常を出るのか、その順序もどちらが先かはわからない、ニワトリと卵のようなところがありますが、それもこれも私たちの願い「〇〇しますように」があまりにも多いことに起因するのでしょう。
 井上真史『現代「ますように」考』は、そんな私たちの日常に横溢する願いがダイレクトに結晶化する現場に実際に訪れてレポートする、「ますように」の実践的ドキュメンタリーとなっています。

井上真史『現代「ますように」考』(淡交社、2024)

 本書は第一~四章と、途中にひとつの断章をはさみ、さらに終章を加えた計6章の構成になっています。

第一章 突撃、となりの願い事

 私たちは寺社を参詣いたしまして、礼拝所、といいますか賽銭箱の前に立ちますと、自動的に手を合わせて、ついでに願い事を思い浮かべるのがルーチン化してしまっております。
 そこで個々人思い思いの願望を言葉に変えて、賽銭箱の向こうの神様仏様へその成就をお祈りするということになります。
 ですので一般的にはどの寺も神社も、森羅万象の願い事を受け付けていると認識されています。
 その一方で、受験なら天神様という具合に、日本全国にはある種の願い事に特化した寺社仏閣も存在していて、なんとなくそちらの方が霊験あらたかな気がしてきます。
 マルチタスクの得手よりはエキスパートの方に惹かれてしまうのは、これはまあ人情というものでしょう。

 この第1章で扱われるのは、そんな一点極振りタイプの神様仏様です。
 紹介されているのは、待ち人の帰還を願う京都の誓願寺や、冤罪をそそぐ同じく京都の鎌倉地蔵、何かを取り戻す王子稲荷神社(東京)など個性的なものに、下駄型の絵馬を奉納して雨男・雨女から脱却を願う気象神社(東京)、穴の開いたひしゃくを供えて妊娠・安産を祈願する諏訪大社下社春宮(長野県)、子宝と酒造りを河童の剥製に祈りを捧げる佐賀県伊万里市の松浦一酒造と、願を掛けるための供物やその対象の特異な例がたっぷり挙げられています。

 ここで「〇〇しますように」の多彩さと、それに掛ける熱量の大きさを、まずじっくりしっかり教え込まれます。

第二章 オレたちもこの祭がわからない

 その「ますように」の熱量が高まり、個人ばかりでなくコミュニティ全体を突き動かして、形としての発散が行われるのがご存知祭りですね。
 ここでは、こんな本(褒め言葉です)の筆者でも「わからない」と首を傾げる奇祭の数々が紹介されています。

 見物難易度危険度セクシャリティわからん度奇祭深度という、祭りの紹介としては少々馴染みの薄いパラメーターが用意されていますが、前章で予習された皆さんでしたら、しっかりと受け止められると思います。

 インパクトの塊のような巨大な面と亀甲縛りのような荒縄スタイルの鬼の登場する兵庫県丹波市の「鬼こそ」、巨大な男綱と女綱のセックスを演じる奈良県桜井市の「お綱祭」、来訪神中の癒し枠「カセドリ」(山形県上山市)、名前も由来も意図も一切が不明というしかない三重県鳥羽市神島の「ゲーター祭」など、場景の描写を読み添えられた写真を見れば一目瞭然のわからなさに読者も襲われます。

断章 逆襲のアマビエ 病が流行れば呪術も流行る

 日本ばかりか全世界で猖獗を極めたコロナウィルスの流行下、その流行に合わせるかのように日本全国を駆け抜けたアマビエブーム。
 たった1枚だけ残された、江戸後期の木版画の、伝承や迷信など一切ない、誰かのその場限りのいたずらの思いつきであるかもしれないものが、どのように厄除けの対象物として受容されてゆくかを、2020年1月14日から2021年12月31日まで主に京都市内をフィールドとして観測を行った結果を日記体で書いています。

 後世、二〇二〇年代のコロナ流行期、アマビエが流行ったという情報に、ちょっとだけスパイスを残しておきたい。実施した人たちの内心や認識はともかく、あらわれた動態として「アマビエが本当に使われた」事例もあったのだと。

(p. 111)

 急速に過去が風化してゆく現在にあって、過去を回想する際に確かな彩りを与えるドキュメンタリーだと思います。

第三章 あの世のぞき見紀行

「〇〇しますように」と願う先はなにも神仏に限らず、先祖や亡友、歴史上の偉人といった死者を対象とすることも多い、といいますか、むしろ日常的な祈りは主にそちらに向けられているようにも感じられます。
 この際、亡くなり、物質的に失われた個人ではなく、魂や霊というものに祈りを捧げているわけで、それらが暮らす「あの世」が前提として念頭にあることになります。

 この章はそんなあの世に、この世からアプローチできる場所、賽の河原や恐山、黄泉平坂、京都におけるかつての葬送地である鳥辺野などのルポルタージュとなっています。
 死体という物理的な対象が常にちらつくために非常に生々しく、特に死者の衣を扱う三重県松阪市の朝田寺や栃木県栃木市の高勝寺はにおいたつ迫力を伴っています。

第四章 願いと呪い 物語と「ますように」

「〇〇しますように」という願いはオーソドックスながらも非常に強い力をはらむことが、祈願の実際、その対象、そしてその祈願の向かう先を実地におもむいて描く本書により改めて実感できます。
 そうした強い情念はもちろん文学の主題ともなりやすく、この第四章では安珍清姫伝承や鉄輪の丑の刻参りといった、現実の物や場所、行動と結びつきやすいものを取り上げて解説してゆきます。

終章 失われゆく「ますように」

 ここまで、時代や個人を超えて顕現する「ますように」の願いが書かれてきましたが、総括するこの章ではその強烈な思念も失われてゆくものがあることが説かれています。
 パターンとしては三つ、東京の亀戸天神内で祀られている通称「おいぬさま」のように、そこに存在しながらも由来や起源が忘却されてしまう、次に少子化および人口減の影響で全国各地で行われている墓仕舞いなどの結果、祀られる墓や祠が撤去される、そしてコロナ下での外出自粛による祭りの継承の切断に、温暖化によるとも目されている諏訪神社での御神渡りの不出現など物理的な信仰が途絶えてしまう、このようにして対象が失われることにより「ますように」の祈念も失われてゆくとされています。

 けれども、筆者はそうした消失を、文化人類学者の知的好奇心の面からは嘆きつつも、必ずしもそこに遺憾を唱えているわけではありません。
 むしろ、それもまた時代の流れ、信仰や願いの流れであり、歴史的な潮流とすれば自然で健全であり、その失われた先の光景をうかがうことに期待をこめる前向きささえ見せています。

 この終章の主張が特に顕著ではありますが、このあたりの現状の肯定および行く先への展望は、全編を通しての大きな特徴をなしており、本書が過去の事象を紹介するルポルタージュやノンフィクションにとどまらず、次代へとリレーできる研究の一端となっている部分であると思えます。

 また特徴という点では、軽妙な文体と、読者の興味をあおりつつ主題から大きく逸脱する寸前でおさめるジョークの混入の機微は、本書を大きく際立たせる個性で、エッセイとしてひとつの時流を作るだけの力を持っているように感じます。
 嘘だと思ったら、まず御一読あれ!

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山本楽志
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