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ゲゲゲの鬼太郎の訳者の見た幽霊

 日本のマンガが海外に翻訳されるようになって久しく、現在では「週刊少年ジャンプ」の人気作品なら日本の発表とほぼタイムラグなく英語版が発信されています。
 こうした翻訳の波は、なにも現代の人気作に限ったことではなく、過去の名作にも精力的に及んでいます。

 ザック・デイヴィソン Zack Davisson はそうした日本のマンガの英語への翻訳家の一人で、これまで手掛けたタイトルは松本零士『宇宙海賊キャプテンハーロック』永井豪『デビルマン』から近年の田辺剛によるラヴクラフト作品のコミカライズまでと非常に幅広いです。

Zack Davisson訳による日本マンガの数々

 特に水木しげる作品への愛着は強く、かつて『ゲゲゲの鬼太郎』を英訳した際に、その魅力を熱く語ったインタビューも残っており、

 現在では『昭和史』『劇画ヒットラー』といった歴史を扱う劇画もラインナップに加わっています。

同じく水木しげるの英訳本たち

 同氏は日本のフォークロアへの関心も強く、水木しげるによりマンガ化された『遠野物語』の英訳をはじめ、妖怪や化け猫についての著作を刊行もしています。
『YUREI: The Japanese Ghost』もそんな一冊で、タイトル通り日本の幽霊をテーマにしています。

『YUREI: The Japanese Ghost』(Chin Music Press、2020)

 このザックさん、大阪の池田市で暮らしていたという経歴もお持ちとのことで、その滞在中に出くわした次のようなエピソードがイントロダクションとして語られています。

 かつてザック夫妻が暮らしていたのは、大正時代に建てられた木造二階建ての一室で、風呂なしながらも月二万円という破格の家賃の文化住宅だった。
 これはお値打ち物件を引き当てたと喜んでいたが、気になる点がなくもなかった。
 その一つは天井で、まるで子供の手形か足跡のような朱色のしみがいくつもついていた。何度か掃除を試みたものの、よほど古いものなのか歯が立たず落ちる気配はなかった。
 それから居間には、どこにも通じない締め切りの扉がつけられていて、大家からは「くれぐれも開けないでくださいね」と念を押されていた。
 生活を始めてみれば、台所の壁に何かぶつけるような音が聞こえてきたり、部屋にいると誰かの視線を感じたり、夜消灯後に鏡の向こうから説明できない気配がたちのぼってきたりという体験が続いた。
 決定的だったのは、ある夜妻がひどくうなされているのを心配して揺り起こしたところが、彼女は今まさに天井の朱いしみから伸びてきた無数の手に絡め捕られて、ぽっかりと開いた黒い穴に引き込まれそうになったと語り、夢ではあったが起こしてくれなかったら自分は無事ではいられなかっただろうと伝えてきたことだった。
 こうしたことが続き、さすがに心身ともにまいってきた夫妻が、日本人の友達を部屋に招待したところ、一歩室内に踏み入れるなり、
「ああ……、幽霊が出てるぅ……」
 結局夫妻は七ヶ月ほどでこの部屋を引き払った。

拙訳。抄訳ですのでご了承ください。

 さすがに海外で出版されているだけあって、アパート名はばっちり実名でした。差し障りがあってはいけませんのでここでは省略しています。

 そう、こういうのを読みたかったんですよね。外国人による日本での怪異体験談。

 もっとも、こうした体験談はイントロダクションのここだけで、本文は極めてまじめな日本における幽霊の受容や歴史、種類について語る解説書でした。
 その内容もエキセントリックさを誇張するのではなく、円山応挙の幽霊画からはじまり、幽霊を伝える怪談の役割、幽霊が発生する構造とバックグラウンドとなる「あの世」について、そして「東海道四谷怪談」「牡丹灯籠」「番町皿屋敷」を例にとり幽霊を怨霊や恋霊などに分類して解説し、「雨月物語」の登場と、それらがさらに映画をはじめとした現在の映像文化にどう影響を与えているかと、驚くほどに手堅くまとめられています。

 なので、冒頭の幽霊物件話こそが異色なのですが、これも日本の幽霊と西洋流のゴーストの違いを説明するためのマクラとして置かれているのですね。
 幽霊を翻訳する際に英語では単純にJapanese ghostとされることが多いが、それではなにも説明していないばかりか、ghostという単語に引っ張られる危険性があると指摘したうえで、次のように述べています。

 幽霊は日常の一部であり、生活に影響を与え、選択への決心をうながすものである。扱いが悪ければ災厄をもたらし、敬えば幸運を運んでくる。幽霊を祀る祝祭日があり、夏のお祭りのお盆がそれにあたる。死者の祭典である。日本人は、一年に一度彼岸と此岸の境が薄らぐ季節に、長い旅を経て帰ってくる死者の魂を迎え入れるための準備を怠らない。

 文章はさすがに解説的ですが、思い当たるところも多いのではないでしょうか。
 私たち日本人は運不運、行動の成否に何らかの他者の介在を想定しがちです。
 それが例えばキリスト教の場合でしたら、その結果の向こうに超越者である神が存在するということになるのでしょうが、一般的な日本人はそのような宿命的な絶対者を思い浮かべることは少ないように感じます。
 そこまで絶対的ではないけれども、自らの人生には常についてまわる集合的な存在としての幽霊、両親や祖父母をはじめとした代々の先祖や、兄弟親族ばかりでなく友人や隣人、果ては今住んでいる場所のかつての居住者、それどころか生まれも素性もまったく関係ない赤の他人まで含めて、共通点としてはかつて生きていたという一点のみの無数の幽霊の存在を信じているのではないでしょうか。
 仏壇や位牌、墓碑に手を合わせるばかりでなく、ちょっとしたゲン担ぎの際に無意識にでもあてにする先、なにか信条にもとる行為をする際のうしろめたさを感じる先、そこに誰かの目を思うというのは日常的な心の動きになっているように思えます。
 そこに私たち日本人は霊を、幽霊を想定しているという指摘は、あまりにも当たり前で特にうなずくのにも抵抗がないでしょう。

 けれども、言い換えてみると、これは日本人以外の幽霊観、ゴースト観とは大きくかけ離れているということを示してもいるのでしょう。
 つまりゴーストは、日常的に人のそばにいて見守っている(監視している)ような存在とは思われていない。
 これは知識的にはわかっている、理解できるとしても、感覚的には、特に日本人の場合、上に書いたような常にその存在が前提となっている文化の場合、おいそれとは受け止めにくいです。
 幽霊もゴーストも、なまじどちらも、死者の魂が現世に迷っているという発生原因も、また青白くなかば透き通っているという外見特徴も似通っているものだから余計です。

 けれども幽霊の不在の空間、もしくは幽霊が見通せない空間の方が、案外と世界にはずっと多いのかもしれない、そう考えることが日本人以外の感覚を知るのには重要なことなのかもしれません。

 だとすると、なおのこと、今回紹介した本では、もっと日本の現代の幽霊話や怪現象に触れて、著者のザック・デイヴィソンがどう感じたかを書いておいてほしかったとしみじみ思います。

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山本楽志
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