眼球舐めと裸エプロンの文化史
眼球舐めといっても、仮称なのでご容赦を。
文字通り目玉を舐める行為で、ペッティングの一種ではあるけれども、一般性が高いとはお世辞にもいいがたい。分類上正式な名称があるかも不明だし、そもそも分類できるほどにサンプルが豊富な気がしない。
けれども、眼球を舌でねぶるという行為の、イメージが与えるインパクトはかなり大きく、その存在にいったん気づいてしまうと容易に脳裏から払拭しきれない、鉛のような重い質量が感じられる。
私が初めてその行為を目にしたのは丸尾末広の漫画だった。身体のうちで外気に触れているにもかかわらず最も接触を拒んでいる感覚器官へ唾液をまとった舌がおもむろに近寄り球面を這いまわる絵面は、無気味さと忌避が募り、湧いた生唾の処置に困ってしまった覚えがある。
だが、そうしてその行為の存在を知ると、いわゆる耽美系と呼ばれる系統のイラストや小説などで稀に描写されることに否応なしに気づかされた。
そんな経緯があったので内田百閒の「東京日記」を読んだ時にはひどく驚かされた。
「東京日記」は雑誌「改造」の昭和13年1月号に掲載され、同年6月に刊行された単行本『丘の橋』に収録された。
牛の胴体ほどもある鰻が皇居の堀から這い出して道を塞いだり、丸ビルがある日唐突に消失したり、色の帯にしか見えないほどの残像を描いて神輿が高速移動したりと、百閒お得意の幻想的な光景を東京のあちこちを舞台として描く掌編集である。
上記の眼球舐めは「その十五」の一節である。膝の上にまたがり覆い被さってきた芸妓に存分に眼球を舐められるかなり扇情的な場面だ。小林秀雄だってその当時の講評で、
と書いているので、この眼球舐めがエロさを誇っていることは一般的に言い切れると思う。
しかし、昭和13年、つまり1938年である。今から八十年以上前の段階で、既に眼球舐めがエロいものとして認識されていたことに、驚きと意外を感じ、だとすれば他の性的な描写などもその起源をたどろうとすると思った以上にさかのぼれてしまうのではなかろうか、と別の疑問も浮かんできたのだった。
そこで次が裸エプロンである。
眼球舐めと裸エプロンでは振れ幅がずいぶん大きすぎると仰る向きもあるとは思うが、そこもご容赦いただきたい。
裸エプロン。文字通り素肌にエプロンだけをまとった、服装倒錯のバリエーションとでも分類されるだろうか。
裸体を適度に隠す、調理などの日常的な行為と性的なイメージを絡めるといったギャップが感情を高ぶらせることを意図している。
この裸エプロンについてを考えるにあたっても、再び内田百閒に御出座願わなければならない。
問題となるのは「前掛けと漱石先生」。昭和25年4月に「夕刊讀賣」に掲載され、昭和27年1月に刊行された単行本『鬼園の琴』に収められた。
前の眼球舐めから干支で一回りしている。還暦も既に超えた。それでも老いてなお盛んな具合に頼もしさを覚えずにいられない。
眼球舐めと異なりこちらはエッセイで、前掛けつまりエプロンについて、師匠である夏目漱石が常につけていてその信奉者である百閒もまねるようになった思い出などが語られている。その末尾、
戦前から戦後の着衣の移り変わりによるエプロンの効用の変遷を滔々と述べつつ、最後の最後で裸エプロンを持ち出して「見たくなければ見るな。こちらから願い下げだ」とばかりに誇示してくるあたり、さすがの技巧派と言わねばなるまい。
わざわざ「変な様子」と断っていることからも常態とのギャップを図っていることは明らかであり、「悉くがエロチック」と評された面目躍如というところだろう。
以上眼球舐めと裸エプロンの二点について、知るなかで最も古いサンプルを挙げてみたが、文化史などという大層な題名を掲げながら僅々一例ずつの提示に留まり筆を擱く事は稿者としても慚愧の念に堪えない。けれども鵬程万里も端緒があってこそ到達を見る事は老子を持ち出すまでもないだろう。
このささやかな短文が今後の斯道の探究の一助となれば幸いであり、人々が眼球舐めや裸エプロンを思う際に、内田百閒という偉大なる先達の業績をたたえてその面貌を脳裏の片隅にでも掲げてくれればそれに優る喜びはないのである。
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