#01 有料トイレの経営者
有料トイレの経営は、それほど特別な仕事ではない。
基本的に深見はそう考えていた。
だがやはりそこには、多少の哲学のようなものは必要になってくる。しかしそれにしたところで、何ら特別なことではない。
哲学を必要としない仕事なんて存在しないのだ。
有料トイレというのは、文字通りお金を払わないと利用できないトイレのことを指している。深見は学生の頃から、野菜やら住宅やら本やらに値段が付いているのと同じように、トイレにお金を払ってもいいはずだと考えていた。
そしてそんな考えを周りの連中によく話して聞かせたものだ。もちろんそれを聞いた者たちはそれを冗談だと思っていたし、冗談にしてはそこまで面白いものではないと思っているようだった。
「カネ払わないとうんこさせてくれないなんて、ヤクザじゃねえかよ、それじゃあ。トイレヤクザ」これは面白い表現だ。
「じゃあ一体どんなトイレなんだよ、ついでにやらせてくれるのか?」こいつは学年一下品だった。
「あなた、頭おかしいんじゃないの?」ストレートだ。
そう言ったやつらは今どこで何をしているのだろうか。どうせ便秘にでも悩まされているに違いない。
深見は有料トイレの経営に関する多くの重要なことを、キツネから学んだ。
「トイレって哲学的な存在ね」とキツネは言った。つまり、トイレはその存在自体に、『清潔』と言う語彙が意味するものとは真逆の、すなわち『不潔とされる物体を収容する』という目的が内包された概念であるにもかかわらず、人々はそこに最上級の『清潔さ』を期待せずにはいられないというジレンマを抱えているのだから、ということだ。
キツネは潔癖症だった。潔癖症である彼女はこうも言った。「でも、わたしたちが求めるのは厳密な意味での清潔さではないの。厳密な意味で、清潔に感じられるかどうかなの。清潔さとは信用なのよ」
キツネと初めて会ったのは、2019年12月31日のことだ。
外は年末年始の匂いで満ちていた。空気はキリッと澄みわたり、雲はほとんどなかった。関節が疼くような、どことなく体が敏感になったような感覚。何かに期待して、四肢が疼く。肉体は寒さを歓迎する。年末年始とはかくも素敵なものだ。
これは人間の集合的無意識に関することなのだろう、と深見は思った。
新宿駅西口の喫煙所に関しては今更説明する必要もないだろう。
喫煙者ですらできれば避けて通りたいと思うような喫煙所である。
そこでは人々が次から次へと煙を吐き出す。綿菓子状の煙や、輪っか状の煙、線状の煙、まるで吐く人の人格が宿っているのではと思われるほどの個性的な煙たちが上の方でいっしょくたになり、喫煙所全体に白いフィルターをかける。それに負けじと人々はさらに煙を吸い、さらに吐き出す。
おおよそこの世で一番与えられた役目を果たせていない、ステンレス製の灰入れスタンドが二つポツンと立っている。その中に入っている灰や吸い殻の五倍から十倍の量のそれらが、幸福な人生を投げ出したような格好でアスファルトに散らばっている。
深見は映画を見た帰りだった。映画自体はまあつまらなくはないが、明日になったらほとんど全てを忘れているだろうと思うような内容だった。
彼はセブンスターに火をつけ、煙を吸い込み吐き出した。そしてさっき見た映画のヒロインの女優の顔は果たして整形しているのか、いないのかということを考えていた。
顔をあげると、ビルの上層階の外壁に取り付けられた電光掲示板がニュースを伝えていた。大物経営者が大脱走を成し遂げ、仲の良かったテレビタレント夫婦はいつの間にか離婚していた。中国のとある海鮮市場では、原因不明の肺炎の集団感染が発生していた。
となりで誰かが、「なんであの国はいつも、得体の知れない病気を発生させるんだ」と言っていた。
「ねえ」という声が聞こえた。
深見は自分に向けての「ねえ」ではないと思い、そのまま女優の顔に意識を集中した。ここ東京に、一度の「ねえ」で振り向く人間はいない。おそらくあの女優は口元に何かしらジェル状のものを注射しているのだろう。どう考えても上唇がとんがりすぎだ。
「ねえ」もう一度聞こえた。さすがに深見も振り向いた。
「ライター貸してくれない?」
キツネは深見の方に手のひらを差し出していた。
彼女の顔を見て深見がはじめに思ったのは、こいつは整形していないな、ということだった。深見はポケットに手を突っ込み、BICのライターを差し出した。彼女の手のひらに置く前に、一度ちゃんと火がつくかを試した。
「ありがとう」
次に思ったのは声についてだ。
低くて軽やかな、昔のフランス映画のヒロインのような声だった。
顔つきは幼くみえるが、すでに完成されているようにもみえる。肌は白い。できたての陶器を思わせるような肌だ。細い目の上にしっかりと存在している眉毛には、何か強い意志のようなものが宿っていた。
ツルツルした黒髪が肩の上で綺麗に切りそろえられている。
象牙色のワンピースに白いスニーカーという服装だった。手にはシンプルなトートバックを持っている。
キツネはマルボロのメンソールをケースから取り出し、口にくわえた。タバコに火をつけ、ライターを深見に返した。煙を吸い込み、吐き出す。彼女の吐き出す煙はとても細かった。
深見はそんな細い煙を目で追っていた。何処となく神経質そうな煙だなと思った。
「わたし、今すごいことしたのよ」
「え?」と深見はなんとか反応した。
「気にしないで」とキツネは言って、ワンピースの腰のところについた灰を手で払った。手首はほっそりとして、長い。
深見はセブンスターを吸い終え、灰入れスタンドに放り込んだ。そして歩き出そうとした。
「ねえ」ともう一度キツネが言った。「とても感謝してる」
「どういたしまして」
深見はどうするべきか迷ったが、もう一度タバコに火をつけた。そしてライターを差し出した。
「よかったらあげるよ」
「わたし潔癖症なの」とキツネは言った。
そう言われても、深見は反応に困った。結局何も言わずに、ライターをポケットにしまった。相変わらず空は綺麗に晴れ渡っていた。
「モノなんかを人に借りたのははじめて」
モノなんか?変な言い方をするな、と深見は思った。
「僕なんかでよかったのかな」
「あなたは潔癖症の女を惹きつける何かを持ってるんだと思うわ」
深見はそれについて少し考えた。思い当たる節がないわけでもない。
「僕はその道のプロなんだ」
彼女は少し微笑んだように見えた。そして俯きながら言った。
「もう一つお願いがあるんだけど」
深見は腕時計を見た。キツネはタバコの先っちょを尖らせていた。そして言った。
「助けてほしいの」
「そんなに時間がないんだ。申し訳ないけど」
「わたし、未来からきたの」
キツネは潔癖症だったが、同時に未来人でもあった。