千早茜「男ともだち」を読んだ。
恋愛関係に辿り着くのが男女の関係性として至高なのだと、21歳の私は思っていた。
恋愛至上主義。
はあちゅうの恋愛コラムを片っ端から読み漁っては、都内で仕事も恋愛もキラキラにこなす生活に憧れを抱いていた。
その頃私には好きな人がいた。
6歳上で、毎日日付が変わるまで働いている、とても忙しい人だった。
「こう忙しいとなかなかプライベートの連絡が返せなくて」なんて言いながら、私が送ったメールには返事を返してくれる人だった。
真夜中に泣きながら失恋の報告をしたら、「会いに行こうか?」と言ってくれるような、優しい人だった。
その人と恋愛関係になりたかった。
愛情は全て恋愛感情から由来するもので、男女は恋人か、そうでないなら他人でしかないのだと信じ込んでいた。
その人から「今は恋人を作る気がない」と聞かされた時、私は彼にとっては他人なのだと言われたような気がして、胸を引き裂かれたような思いだった。
恋愛感情以外のものがこの世に存在することを、もっと早く知りたかった。
今の私なら、彼が私に向けてくれていた一種の愛情の存在を認められたのに。
他人だと決めつけて勝手に離れたのは私だが、今なら大切にしていけたのだろうか、その人との関係性を。
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千早茜さんは、男女の関係性に恋愛以外のつながりを見出すのが上手い。
以前読んだ「あとかた」でも、従来の恋愛の枠に囚われない人間模様を巧みに描いていた。
そして今回の「男ともだち」。
ところで、"男ともだち"という言葉には様々なニュアンスが含まれている。
主人公の言う"男ともだち"。
彼女と同棲している彼氏が「なんかずるい響きだ」と言った"男ともだち"。
そして私や読者がイメージする"男ともだち"も、それぞれ別の含みを持っている。
その含みこそがずるさの正体なのだけれど、この話は、含みをまるごと包んでいる。
触れ方のわからない恋人でも、行為のあと自分の身体に穴があることを痛感させられる愛人でもなく、その脆く曖昧な関係性に、私たちは心を揺さぶられていく。
きっと恋愛至上主義者が読んだら、"男ともだち"なんているはずがない!と反発してしまうかもしれない。
かつての私もその1人になっていたはずだ。
だけど、恋愛はいつか終わる。
"終わらせないために、始めない"関係があることを、今の私は認めている。
大切な存在を大切なままにしておきたい。
果たしてそれが正しい守り方なのかは分からないが、きっとこれから見つけていくのだろう。
彼女とその"男ともだち"がその解を見つけられたように。
出会いは何事もすべてタイミングなのだと信じている。人も、ものも。
このタイミングで「男ともだち」に出会えたことの意味探してしまうほどに、頭の中から離れないでいる。
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