父の思い出によせて寄付をしました
先日、言語学者だった父の命日だったので、今年はその記念に寄付をしてみました。
父・渡辺修平は生前、青森県にある弘前大学の教育学部に務めており、方言学のうち特に音韻論の研究をしていたようです。
ようです、というのは私がその頃は研究内容を理解するには幼すぎたことに加えて、いま父の残した論文を読んでも専門的すぎてあまりよくわからないからです。
父は、大学院を卒業した後、高校の教師をしながら研究を続けていたようです。
当時はあまり珍しくなかったのかもしれませんが、高校教師から大学教員になったという人でした。
私の「文隆」という名前も、その時期にちょうど論文を書いていたから、というのが由来だと本人が言っていた気がします。
気がします、というのは父は28年前、私が15歳の時に亡くなっていて記憶がおぼろげだからです。
(15歳以降は人生がいろいろ大変だったこともあって余計に記憶がおぼろげです)
家族であっても、記憶というのはどんどん消えていってしまいます。
引っ越しが何度もあって、そのたびに思い出の品も減っていきました。
だからこそ、わずかに残った父との思い出によせて、寄付をすることにしました。
このように、故人の思い出によせて寄付をすることを、give in memory of someoneとか、memorial givingとか、memorial donationといいます。
故人でなく生きている人を称えて寄付をするときはgive in honorとかhonorarium donationなどと言ったりするようです。
このように他者の思い出や他者を称える寄付を総称してtribute giftなどというようです。
この記事で私がしているように公言することもあれば、ひっそりと自分だけですることもあるようです。
今回、父の思い出によせて寄付をする団体は、私が勤務している京都大学の、「Beyond 2050」という活動にしました。
「Beyond 2050」というのはその名のとおり、短期的な目標ではなく、2050年以降の社会のために長期的な視野の研究をしよう、というものです。
父がもし生きていたら、こういう活動に自分の子どもが関わっていることを喜んでくれたのではないだろうか、と思います。
そういうわけで、この活動を寄付先に選びました。
私が育った弘前市の家には書斎があって、そこにはとても難しい本がたくさん並んでいました。
ロラン・バルトだとか、リルケとか、フーコーといった人たちの本があって、手に取ってみては良く分からないな・・・と思って本棚に戻す、ということを繰り返していました。
役立ちそう、といったことは全く考えずに、この人たちが言おうとしていることは何なんだろう?という好奇心で読もうとしていました。
いまの私は、すぐ役に立つような本ばかりを手に取るようになってしまっていますが、子どもの頃に手に取ったあの難しいたくさんの本に育ててもらった部分はある、と振り返って思います。
過酷だった夏が終わって、ようやく秋がやってきました。
この秋は、かつてのように、純粋な好奇心を基にして本を手に取ってみたり、もっと長い視点で考えたりしてみたいと思います。
研究者としての父が何を考えていたのかは分かりませんが、きっとそんなことを喜ぶ人だったのではないかと想像します。
Tribute giftsは、個人的にはとても好きな寄付の形です。
その人のことを思い出しながら過ごすだけでなく、その人との思い出を、未来につないでいけるように感じます。
人は死んだら終わりと考える必要はなく、その人が死んでしまった後でも、このような行為を通じて、その人との新しい関係をつくっていけるのだと思います。
(タイトル写真は、下記の方が撮影したものをお借りしています)